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元オウム菊地直子さんの無罪確定がマスコミにつきつけた重たい課題

篠田博之月刊『創』編集長
最高裁決定を報じる新聞各紙(筆者撮影)

 2017年12月27日、元オウム菊地直子さんの裁判で最高裁が上告棄却を決定したことを、マスコミからの問合せで知った。彼女は2015年8月号の月刊『創』に獄中から手記を書いており、それを前後して私は何度も接見に通ったし、手紙のやりとりもしていた。彼女がそんなふうに接触したマスコミ関係者は私だけだったと思う。というのも、彼女の「マスコミ不信」は相当なものだったからだ。今回私のところに来たマスコミからの問い合わせは、彼女にインタビューができないかというものだったが、それは難しいだろう。

(注:この記事は最初27日に書いたもので、彼女はコメントも出さないのではないかと書いたがそれは間違いで、弁護士を通じて短いコメントを発表した)

 でもそれは無理もない。無罪が確定することになった今だからこそ明らかなのだが、彼女は警察のずさんな見込み捜査によって17年間も全国指名手配され、マスコミでも「走る爆弾娘」などとオウム事件に深く関わった犯罪者として扱われてきた。オウム事件を多少なりとも取材した者なら、当時、彼女がマスコミでどんなふうに扱われていたか覚えているだろう。それが裁判の審理によって事実と異なっていたことが明らかになったわけだ。ずさんな捜査を行った警察はもちろんだが、報道に携わる側も今回の決定を重く受けとめるべきだと思う。少なくとも彼女についての誤った報道を行ってきた報道機関は、きちんと検証し、何が問題だったか明らかにすべきだろう。

 裁判は1審が有罪で、2審でそれが逆転したのだが、1審の裁判員がそれまでの報道に意識を引っ張られた可能性はおおいにある。プロの法律家が見れば無罪だが、市民的感覚からすればそうでない。裁判に市民感覚を導入するという裁判員制度の趣旨に私は賛成だが、世間離れしていると言われるプロの裁判官と違って市民は報道によってある程度の先入観を与えられる。裁判がなされる前からマスコミが彼女を有罪視する大量報道を行い、事実上、裁いてしまっているのが現実だ。

 実は私も偉そうなことばかりは言えない。彼女と私が接触したきっかけは、2015年春に私が東京拘置所に手紙を書いたことだったが、その返事で彼女は、私の著書『生涯編集者』を読み、「ロス疑惑」事件の三浦和義さんのメディア訴訟について知り、自分もマスコミと向き合って闘うべきではないかと思うに至っていたと書いてきた。そして実際に週刊誌各誌に自分で抗議文を送り、受け入れられないところは提訴しようと考えていたのだった。そこで私は、そういう思いを社会に訴えることも必要だとして、『創』に手記を書いてもらうことにしたのだった。

 彼女に接見をし始めた頃は、私も1審で有罪判決が出ていたことは知っていたので、彼女は量刑不当、つまり1審の懲役5年という懲罰が重すぎるとして控訴したのだと思っていた。そしたら彼女に「そうじゃない。自分は無実なのだ」と言われた。マスコミ報道のせいで世間の多くの人が彼女を重罪人と思いこみ、実際に拘置所に市民からのそういう手紙が来たりしているとも語っていた。彼女については膨大な量の報道がなされていたため、私自身も含めて多くの人がそれに影響されて彼女のイメージを作り上げていたのだった。

 いや、『創』に掲載した手記を読んでもらえば驚くべきことに、彼女自身もマスコミがそう報じていたのを見ていたため、一時は何らかの形で事件に関わっていたのかと自分でも思いこんでいたと書いている。マスコミ報道の影響力はまさに恐るべしなのだ。

 彼女が高裁で無罪判決を得ていきなり釈放されて以降、私は彼女と直接接触はしていない。電話をくれたら「おめでとう」と言ってあげようと思っていたのだが、連絡がないのは、普通の市民としての静かな生活に戻りたいということなのだと思い、こちらからもしいて連絡をとろうとしてこなかった。

 その後、弁護士さんからは何度か連絡があり、ネットにあげている彼女の手記について見出しに「走る爆弾娘」と大きくうたうのはやめてほしいという意向が伝えられたりした。私もそれはそうだと思い、『創』ブログからはそれをはずしたのだが、今回の最高裁決定を受けて検索したら産経デジタルに転載した手記が「『走る爆弾娘』と呼ばれた非日常すぎる状況」という雑誌掲載時の大きな見出しとともに目につき、慌てて、転載はもう削除してほしい、すぐにできないならせめて見出しを変えてほしいと要請した。

 ただ彼女の手記自体には、オウム捜査や報道のあり方について考えるために、多くの人に読んでほしい箇所も少なくない。だから今後は基本的に私の手の届く範囲内で、彼女自身の意にそうような形で手記の中身を紹介していきたいと思う。

 以下ここで手記のエッセンスを引用し、さらに興味を持った人のために、2015年11月の高裁判決直後にヤフーニュースに書いた記事のURLも書いておこうと思う。その記事の後半には手記全文が引用されているから全文を読みたい人は読んでほしい。

 さらにもうひとつ補足しておきたいのは、手記は彼女が『週刊新潮』を提訴することを決めたという一文で終わっているが、結局この時は提訴はしないままになった(今回の判決を受けて今後のことはわからないが)。当時、実際に彼女は提訴手続きを進めていたのだが、実際に始めてみると、三浦和義さんのような本人訴訟は初めての者には簡単でないこともわかり、弁護士さんに依頼をした。そして改めて事務手続きをしているうちに時間がかかり、そうするうちに高裁無罪判決が出てしまったのだ。

 ちなみに菊地さんの手記については、2017年春、首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗死刑囚に私が接見した時、話題になった。木嶋死刑囚は東京拘置所で菊地直子さんと房が近かったらしく、菊地さんが極度のマスコミ嫌いなのを知っていたから、『創』に手記を書いていたことを知って驚いたと言っていた。確かに菊地直子さんの手記はこれが最初で最後になるかもしれない。私は波乱万丈の菊地さんの半生についても『創』で書いてみないかと勧めたのだが、それに対して彼女は、今でも迷惑のかかる人もいるし、そんなことを書く気はない、という返事だった。

 さて、彼女の手記からの引用だ。今、無罪確定がほぼ決まった時点で読み返してみると、改めていろいろ考えさせられる内容だ。

菊地直子さんが『創』2015年8月号に書いた手記の一部

《私に地下鉄サリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出たのは平成7年(1995年)5月16日のことです。地下鉄サリン事件が起きたのは、同年の3月20日のことです。事件が起きた直後、教団への強制捜査がせまった為に私が林泰男さんと逃走を始めたとか、八王子市内のマンションで潜伏していたなどの報道が一部でされていますが、それは正しくありません。逮捕状が出る直前まで、私は強制捜査の行われている山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で普通に生活をしていました。こんな事件を教団が起こすはずがないと思っていた私は、この騒動も直に収まると考えていて、まさかその後自分に逮捕状が出るなど夢にも思っていなかったのです(逃走生活が始まってからも、しばらくの間、私は地下鉄サリン事件は教団が起こしたものではないと信じていました)。》

《私は全国指名手配されて逃げているうちに、自分が地下鉄サリン事件で使われたサリンの生成に、なんらかの形で関与してしまったのだろうと思いこんでしまっていました。しかし、よくよく思い出してみると、指名手配になった当時は「なんで私が?」「幹部と言われている人達とたまたま一緒にいたからかなあ?」などと思っていたのです。

 後になってから、「あの作業がサリンと関係していたのだろうか?」と考えてみましたが、私と一緒にその作業をしていた人は、地下鉄サリン事件では逮捕されていません。「薬事法違反」で起訴されているだけでした。「それでは何が?」と考えても他に思いつきませんでした。結局、何がサリンと関係していたのかがはっきりしないまま、私は17年も逃げ続けてしまったのです。》

《逮捕されて約2年後の昨年の5月、私の裁判(都庁小包爆弾事件)が始まりました。この裁判の一審では、私が教団内でどのような活動をしていたのかが詳細に審理されました。つまり私がサリン生成に関与していないということが明らかにされたのです。

 そして同年6月30日、私は懲役5年の有罪判決を受けました。起訴時の罪名は爆発物取締罰則違反ほう助と殺人未遂ほう助でしたが、爆発物を製造し使用することについては認識が認められず、ほう助罪は成立しないとされ、殺人未遂ほう助のみが認定されました。私はこれを不服として即日控訴しました。》

《一審の有罪判決直後に、私はある報道を知ることになり、自分が今だに地下鉄サリン事件の犯人であると世間から認識されていることに気付きました。私は狐につままれたように感じました。私は地下鉄サリン事件では起訴されていません。加えて、サリン生成には関与していないことが裁判で明らかになったばかりです。傍聴席にはマスコミの専用席が設けられており、その席が割り当てられた司法記者クラブの人達は、私の裁判を通しで傍聴しているはずです。であるのにかかわらず、なぜ私が地下鉄サリン事件に関わったかのような報道が、その裁判の直後に流れるのでしょう。

 裁判で有罪判決が下されたことのショックに加え、私はただただ失望を感じることしかできませんでした。》

《控訴審の準備を進めていた昨年(2014年)の終わり頃、私は創出版・篠田編集長の『生涯編集者』という本を拘置所内から購入しました。その中に「ロス疑惑」で有名になった故・三浦和義さんの記事が載っていました。なんと彼はマスコミ相手に約500件もの裁判を起こし、そのほとんどに勝訴したというのです。初めてこれを読んだ時、「ふ~ん、すごいね」とは思いましたが、他人事でした。自分にこんなことができるとは想像できなかったのです。

 ちょうどその頃、私は両親との関係に悩んでいました。両親は定期的に面会に来てくれていましたが、私には両親が自分をコントロールしようとしているようにしか感じられず、面会の度に強い恐怖を感じていたのです。

「いったい何がこんなに恐怖なのだろう?」

 この状態から抜け出したくて、私は幼少期の体験まで思い起こして、必死にその原因を探ろうとしました。そしてやっと、無意識的にある思考パターンに陥っていることに気付いたのです。そのパターンとは、「話してもどうせわかってもらえない」「わかってもらえなくて傷付くだけ」、だから「最初から話さない」、もしくは「一度話してだめだったらすぐにあきらめてしまう」というものでした。

 そのことに気付いた時、私は初めて、傷つくことを恐れずに自分の思っている事を相手に伝えようと思いました。そう決意して面会したところ、それまでは全く伝わらなかったこちらの意思がすんなりと相手に伝わったのです。それは劇的な変化で、いったい何が起きたのかと呆然としてしまったほどです。》

《私はそれまで、マスコミに対する極度の不信感から、徹底的に自分の報道から目を背けてきました。弁護士の先生との会話で自然に入ってきてしまうものはありましたが、特に週刊誌や新聞など紙媒体のものは、逃走中も含めてほとんど目にしていないのです。

 私は初めてこれらと真正面から向き合う決意をしました。今までの自分の報道に全て目を通そうと考えたのです。そしてもし間違った報道があったならば、きちんと抗議をし、それでも間違いを認めてもらえないならば、法廷という公の場で第三者にきちんと判断をしてもらおう。そう思ったのです。》

《それは、自分の刑事裁判の体験から生じた思いでもありました。判決は「有罪」でしたが、裁判を傍聴していた(面識のない)方から、「本当に知らなかったんだなと思った」「(私の)証言に説得力があった」等のお手紙を頂いていたのです。

「裁判官には伝わらなかったけど、一部の人達には確実に伝わったんだ」

 この体験は、「どうせわかってもらえない」と感じたことについては、最初から話さない癖のある私にとって、大きな成功体験になったのです。

 私はまず最初に週刊誌の記事を集め始めました。案の定、事実無根の記事ばかりでした。想定していたとはいえ、あまりにもひどい内容に意気消沈しましたが、気を取り直し、その中でも特にひどかった『週刊新潮』『週刊文春』『週刊実話』の三誌に内容証明郵便を送りました。》

 以上、一部を引用した。全文を読みたい人は下記へアクセスしてほしい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20151129-00051947/

「逆転無罪判決!オウム元信者・菊地直子さんの手記を公開します」

 最後に、菊地直子さんがもし今回私の書いたこの記事を読んでくれたら、こう伝えたい。これから普通の市民として新たな人生を送ってほしい。そして可能なら、久しぶりに元気な声を聞きたいのでぜひ一度電話をいただきたい、と。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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