津久井やまゆり園追悼集会で語られた被害者の姉のメッセージが胸に刺さった

事件現場となった津久井やまゆり園

8月6日土曜日の午後、東大先端科学技術研究センターで「『津久井やまゆり園』で亡くなった方たちを追悼する集会」が開催された。これまで障害者問題などに取り組んできた人たちが事件直後に呼びかけたもので、約200名が集まった。様々な関係者からのメッセージが読み上げられたのだが、注目されたのは最初に読まれた事件被害者の姉の匿名のメッセージだ。下記の毎日新聞記事がわかりやすくまとめている。

http://mainichi.jp/articles/20160807/k00/00m/040/085000c

核心部分を引用しよう。

《女性は親から弟の障害を「隠すな」と教えられて育ったが、事件後は「名前を絶対公表しないで」と言われたという。「心ないことを言ってくる人もいるでしょう」と影響を心配し「今はただ静かに冥福を祈りたいです。事件の加害者と同じ思想を持つ人間がどれだけ潜んでいるのだろうと考えると怖くなります」と結んだ。》

つまり、これまでは障害者の弟の名前を隠すな、隠すことはないと教えられてきたのだが、今回の事件後「名前を絶対公表するな」と言われたというのだ。

現状で、殺害された19人の遺族は全員、被害者の実名公表を拒否しているという。これにはマスコミはもちろん、障害者団体からも違和感が表明されているのだが、実情はこのメッセージの通りだ。今回の事件がいかに障害者やその家族に恐怖心を与えたかを物語っているといえよう。この追悼集会を呼びかけた熊谷晋一郎・東京大准教授も障害を持つのだが、「車椅子で街を移動していて、ふいに誰かに襲われるような恐怖心にかられることがある」と話していた。

今、新聞や雑誌では、今回の犠牲者の名前を警察が公表しないことを批判する意見が数多く出されており、私も前回、このブログに書いた通り現状に批判的だが、こうして「名前は絶対に出したくない」という当事者の声に接すると、複雑な思いになる。

ただ救いなのは、障害者団体がこの氏名非公表に違和感を表明していることだ。例えばNPO法人日本障害者協議会(藤井克徳代表)は8月5日付の声明の中でこう述べている。

《なお、報道で犠牲者の氏名を伏せていることは気になります。この国で事件や事故で死亡した場合、氏名の公表は通例です。犠牲者の氏名ならびに個々の情報によって手の合わせ方も変わり、今のような状況では一人ひとりの死を悼みにくいのではないでしょうか。社会通念からも強い違和感を覚えます。》

また『週刊新潮』8月11・18日号で全国知的障害者施設家族会連合会の由岐透理事長がこうコメントしている。

「警察の判断で名前を伏せたというのは、あまりに衝撃的な事件を前にして、知的障害者だからと勝手に忖度しているような気がしてなりません。どんな事件であれ、亡くなった人の名前は公表されるのに、この取り扱いはおかしいと思います」

あわせて遺族にもこう提言している。

「我々のような障害を持つ者の家族が『隠したい』という姿勢をとれば、いくら運動の中で『障害があっても健常者と同じ人間』と訴え続けたところで、言っていることと違うのではないか、との疑問を抱かれかねません。どんな思いで警察に伝えたのか、遺族の皆さんにも、もっと議論を深めてほしいのです」

障害者は障害があることを隠して生きるのでなく社会の中で共生をめざすべきだという考え方なのだろう。

しかし、そうした考え方を知ったうえで、前述の被害者の家族は、今は名前を出したくないと言っているわけで、今の状況はそれだけ深刻なわけだ。

ちなみにこれらの団体の声明は本当に切実なものだ。ぜひ目を通していただきたい。

http://www.japsw.or.jp/backnumber/news/2016/0728.html

6日の集会は私も事情をあまり知らずに参加したのだが、熊谷准教授とともに会の中心だったのは、私も面識のあったダルク女性ハウスの上岡陽江さんだった。会場には薬物依存に対する民間の互助団体である日本ダルクの近藤恒夫代表も来ていたし、スカイプでつないだ長崎ダルクの人たちが発言をしたりとダルクの人たちが目立った。これは発案者が上岡さんだったからだろうが、最初に呼びかけ人の一人として発言した上岡さんは、涙を流しながら訴えた。自分自身、長年努力して依存症と闘い、地域の中でいろいろな人と運動を通じて信頼関係を築いてきたのに、今回の事件で「自分たちがこれまでしてきたことは何だったのだろうか」という無力感に襲われたという。この事件は知的障害者や精神障害者だけでなく、障害や依存症などと闘ってきた人全てにそういう思いをつき付けたというわけだ。

私も知的障害者や精神障害者が関わった事件は幾つか取材してきたが、ふと思い出したのは、12年間関わった連続幼女殺害・宮崎勤死刑囚の事件に関して、こういう話があったことだ。今回の事件もそうなる可能性があるのだが、宮崎事件も、弁護団は、彼が心神喪失だったという主張を展開して検察側と争った。いろいろな専門家によって何度も精神鑑定が行われたのが宮崎事件の特徴だが、最初、宮崎死刑囚の親戚からそのことに反発が出たという。その理由が、親類からそういう精神異常者が出たとなると、累が親類縁者に及ぶというものだった。事件現場が古い慣習にとらわれた土地柄だったという事情もあるのだが、精神障害者に対する差別への恐怖心が、そういう感情となって現れたものだった。

ちなみに私は宮崎死刑囚の死刑が確定した前後は、ちょうど彼の2冊目の著書『夢のなか、いまも』を編集していたために、ほぼ毎日のように彼に接見していた。12年のつきあいの過程で私自身はどう考えても彼は精神疾患に冒されていたとしか思えないのだが、心神喪失で無罪という判決は社会的影響を考えれば出るべくもなく、結論の分かれた幾つもの精神鑑定のうち、裁判所は、責任能力ありという結論のものを採用して死刑を宣告したのだった。

今回の事件は、障害者に対する差別意識が犯行の動機になっているばかりか、加害者にも精神障害の疑いが持たれているという、二重三重の意味で深刻だ。『週刊朝日』8月12日号が、専門家の見解をわかりやすくまとめているが、例えば精神科医の岩波明氏は「加害者に何らかの精神障害があるというのは間違いないと思います」と語っている。しかし、同じ誌面で国立精神・神経医療研究センターの松本俊彦氏はこう語っている。

「現時点の情報では、医療が有効な病態なのか、そもそも医療の対象とすべき病態なのか判断できません」「やや乱暴な言い方ですが、加害者が『正常ではないが、病気でもない』ということ。専門家を含め、にわかに理解しがたい行動なのです」

精神科医の間でも見方は様々に分かれているのだ。次号の『創』で特集を組むため、私は今週からいろいろな精神科医や関係者に会って話を聞いていく予定だ。取材の過程でわかったことなどは、さしつかえない範囲でこのブログでも紹介していこう。