オウム麻原三女「入学拒否事件」初の手記。和光大での討論は実現するか

入学拒否事件当時、和光大学で開催された集会

オウム真理教・麻原元教祖に1審死刑判決がくだされた2004年、その娘への大学入学拒否事件があったことは知られている。親があの麻原彰晃だという理由で合格を取り消されるという理不尽な仕打ちを受けた三女・松本麗華さんが、最新の『創』11月号でその件について初めて手記を書いた。入学拒否した和光大学を提訴するなどした経緯は既に報じられているが、当事者が手記という形で詳細を明らかにしたのは初めてだ。

和光大学は結局、裁判で敗訴するのだが、同大学にとってもこの事件は大きな出来事で、「あの事件を機に和光大は変わってしまった」という大学関係者もいる。双方にとって不幸な出来事だったこの事件をめぐって、今回、約10年ぶりに当事者同士で議論を行ってはどうかと呼びかけたい。それは麗華さんにとっても和光大にとっても大切なことだと思うからだ。

入学拒否事件については、私は『創』やこのブログでも過去何度も書いているが、詳しく知らない人のために簡単に説明しよう。

私が三女・麗華さんに最初にインタビューしたのは1996年暮れ。オウム教団の拠点・上九一色村が解体されて約1カ月後のことだった。彼女は当時13歳の少女だったが、父親の後継者と目された時期もあったため、四六時中公安が監視し続けていた。彼女は幼少時から教団で育っており、小学校の教育もほとんど受けていなかった。だから当然、市民社会に戻って最初に問題になったのは彼女の就学についてだった。今回の手記で彼女はこう書いている。

《わたしは父・麻原彰晃の子ということで、社会や教育から排除されてきた経験を持つ。義務教育であるはずの小学校と中学校に実質的に就学拒否され、高校も一校を除いて受け入れ拒否。大学に至っては、武蔵野大学(当時は武蔵野女子大学)、和光大学、文教大学の三つに入学拒否されている。》

《わたしが静岡県にあった教団施設に引っ越したのは、5歳の時。平仮名を覚えかけていたが、記憶に定着する前に忘れてしまった。小学校には入学したが、入学式にすら出席していない。9歳ごろ、小学校1年生用の国語の教科書から勉強をはじめ、漢字の少ない文章ならなんとか読めるようになったが、勉強は苦痛でたまらなかった。すでに体は大きくなり、年齢相応の自我も芽生えているのに、小学校1年の教科書を声に出して読まねばならない。勉強をさぼっては、幾度となく父に叱られた。

1995年に両親が逮捕されたとき、わたしは何とか年齢相応に読むことはできたが、書く方はカタカナとひらがな混じり、漢字はほとんど書けない状態だった。算数や社会など、他の教科は手も着いていなかった。》

その後、彼女は本当に苦労を重ね、独学と通信教育で大学受験資格を得る。そして3つの大学に合格したのだった。目的意識もなく、ただ何となく大学に進学する学生が多いなかで、そこまで努力して大学へ行くというのは誇るべきことだと思う。しかし、残酷なことに、その3つの大学全てが彼女の入学を拒否したのだった。

最初に拒否したのは2003年、武蔵野大学だった。何と入学式の2日前に入学拒否の電報が届いたという。手記では麗華さんがその時の気持ちをこう書いている。

《入学式を目前に控え踊り出したいほど、わたしはわくわくしていた。ところが、2003年4月1日、入学式の2日前に武蔵野大学から電報が届いた。

「入学を許可いたしませんのでお知らせします」》

《あのときの気持ちを、どう表現したらいいだろう。むなしくやるせなかった。「わたし」という個人は存在せず、いくら努力をしようと、ただその生まれ故にこの社会で生きる道を閉ざされるという現実を、どう受け入れたらよいのか分からなかった。再度受験し合格しても、その大学にも入学を拒否されてしまうかもしれない。そう思うと、翌年に再度受験する決意はなかなかできなかった。》

しかし彼女は意を決して、翌年、和光大と文教大を受験した。

《2004年1月29日に和光大学の大学センター試験利用A日程に出願。2月18日、和光大学の合格発表があり、電子郵便で合格者の受験番号一覧が送られてきた。

この年、文教大学人間科学部の入学試験にも合格。2月26日に、文教大学の(第二次)入学手続を済ませていたが、武蔵野大学のようにこの段階でも入学を拒否されることを恐れ、3月1日に和光大学の入学手続も行った。》

しかし、結局その2大学も拒否を行う。ちょうどその時期、父親の死刑判決が出され、松本家の話題がマスコミでも取り上げられて、大学側が合格者を調べたらしい。

《文教大学の入学許可書が届いたのと同じ3月4日午後、わたしが外出している間に、和光大学入試課から留守番電話が入っていた。「松本麗華さんの入学についてご連絡したいことがありますので、至急ご連絡ください」というものだった。電話がかかってきたということがまずショックだった。》

《3月13日は1日外出していたため、わたしは14日に和光大学からの郵便物を受け取った。ガッツポーズをとる準備をして、送られてきた郵便物を開けた。プレゼントの箱を開けるときのような期待があったのだ。しかし、文書は『入学不許可について』という冷たいものだった。一瞬目を疑った。絶望と言ったらいいのだろうか。直接会って、待たせて、その結果がこれなのか。信じられない気持ちだった。》(以上、麗華さんの手記より)

親が犯罪者であることを理由に大学入学を拒否するなどという行為が誤りであることは誰でもわかる。しかし、当時、大学の反応といえば、自分の大学合格者にももしかして彼女が含まれていないか調べ、いた場合には排斥するということだった。実際に麗華さんは、合格した3つの大学全て入学を拒否されたのだった。

当時のそういう大学側の思いを表わしたのが「苦渋の選択」という言葉だった。和光大学の三橋修学長が使ったもので、決して嘘ではないだろう。和光大学は、差別はあってはならないとホームページにも理念として掲げているようなリベラルな大学で、三橋学長は『差別論ノート』など差別問題の著書で知られ、井上輝子学部長はフェミニズムの研究家だった。

皮肉にも、そういう理念を掲げていたために、麗華さんは、この大学なら自分もカミングアウトできると考え、期待して受験したのだった。それゆえ、拒否された時には許せないと考え、和光大学を提訴に踏み切った。

麗華さんの和光大学に対する訴訟は2004年9月1日、12月3日と口頭弁論が開かれ、同大学の内部でも大きな議論になった。入学拒否に対して、教授や講師からも公然と批判の声があがったのだった。かつて60年代末の全共闘運動で名の知られた最首悟教授が、三橋学長の入学拒否方針を批判して学長選に立候補した。また学生にも大学の方針に対する批判の声が高まり、学生有志が学長室を訪ねて直訴するということもあった。

その学生有志らが主催して2004年12月15日を皮切りに何回か学内集会が開催された。当時、同大学には非常勤講師として森達也さんや大塚英志さん、切通理作さんら論客がおり、大塚さんは入学拒否に抗議して講師を辞任した。そうした講師らをパネラーにしてシンポジウム会が開催されたのだった。

12月15日の集会には鈴木邦男さんもパネラーとして招かれていた。私も関心を持って聞きに行ったのだが、行ってみると、森さんが体調不良で欠席とのことで、その代わりに私自身がパネラーの一人になっていた。

学内シンポジウムは第2回が05年1月20日に開かれ、今度は森さんや鈴木さん、私のほかに、大塚英志さんや、宗教学者の島田裕巳さんらもパネラーになった。また最首教授のほかに、他の教授や助教授からも入学拒否に反対する意見が集会の場で表明された。

私が和光大学を改めて見直したのは、学長の方針に反対する集会を学内で開催することを大学側が容認していたばかりか、その集会に学長がメッセージを寄せていたことだ。そのメッセージには集会に招かれながら欠席した理由と自分の考えが述べられていた。

三女の入学を拒否した理由として学長は、彼女を入学させていろいろな困難が生じた時に「責任を果たせるほどの人的・組織的力を和光大学は持っていないと判断したこと」をあげていた。前述した「苦渋の選択」で、彼は法廷でも自らの言葉でそれを語っていた。

そして6月13日の弁論には、三橋前学長(当時は教授)が出廷。三女が直接、三橋教授に質問を行ったのだった。両者が直接会うのはその日が初めてだった。二人のやりとりはこうだ。

《松本 あなたの子どもがもし同じ目にあったらどう思いますか。私だけでなく母も周りの人も皆悲しむんですよ。私だけじゃないんです。苦渋の選択と言ってますが、母や姉、妹、弟がどんな思いをしたかまで考えてくれましたか。》

質問しながら彼女は泣きだし、傍聴席からもすすり泣きが漏れた。

《三橋 個人としては考えましたが、組織としてはそこまで考えませんでした。

松本 母は書類に自分の名前を書いたために取り消しになったと自分を責めて、もう二度と名前を出さないでほしいと言って泣いたんですよ。和光大学なら大丈夫だからというので親の名前を書いたのに、どうして考えて下さらなかったのですか。

三橋 そこまでは考えませんでした。》

私も傍聴席の最前列で涙を流しながらメモをとった。

閉廷後、三橋教授は彼女のところへ向かい、頭を下げた。

ちなみに彼女は、文教大学に対する地位保全を求める仮処分を裁判所に申請し、それが認められて文教大学に入学。既に卒業している。

裁判所の命令によって文教大学が彼女を受け入れたというわけだ。和光大学への地位保全を求めれば同じように裁判所の命令によって彼女は和光大学に入学することになったろうが、そうせずに本訴を行ったのは、当時、和光大学を許せないと思ったからだろう。当然ながら裁判は和光大学の敗訴となった。裁判の中で和光大学は、仮処分を申請してくれれば受け入れたのにという意見を表明していたが、麗華さんは和光大の入学拒否によって深く傷つき、関係を修復して入学するという気持ちになれなかったのだろう。その裁判の結果も含めて、この事件によって、和光大学もまた深く傷ついたと思われる。

和光大学が「苦渋の選択」に踏み切った理由として、三女を受け入れた場合、警備態勢をとるなどの措置が必要になり、大学としてはそこまで対応ができないといった説明をしていた。他の学生の父母からの反発や、受験者が減るのではないかといった心配もしたらしい。当時はオウム事件も今ほど風化していなかったから大学側がそういう心配をするのはわからないではないが、実際に文教大学入学後の現実を言えば、そういう心配をせざるをえない事態は全く起こらなかった。

さて、その事件からちょうど10年が過ぎた。この3月、麗華さんは『止まった時計』という著書を出版して実名・顔写真を公開。カミングアウトを行った。そして私と何度か会う機会に、大学で議論がしたいという話になった。私は、そうであれば和光大がよいのでは、と提案した。

そして知り合いを頼って、和光大学で麗華さんを含めたシンポジウムができないかアプローチした。しかし、10年の歳月を経て、三橋元学長も井上元学部長も退任、三橋さんは重病を患っているという。当時、『創』に手記を寄せてくれた最首元教授も退任していた。まだ残っていた当時を知る教授らによると、和光大学は当時とは違い、そういうシンポジウムを開催できる状況ではないとのことだった。和光大学に限らず、大学の管理強化が進行していた。

この夏、和光大学でも安保法案に反対する抗議声明が上がった。大学の自治や学問の自由を求める声明を出せるのであれば、自らの大学に起こった過去の問題について議論するのも不可能ではないのでは、と考えた。

10年前の不幸な対立を水に流して自由な議論を行う場を、学生でも教職員でもいい、関係者に設けてもらえないだろうか。入学拒否事件当時は係争中だったため、学内集会などで発言した教授たちも、麗華さん本人と一度も話しあう機会がなかった。原告と被告といった立場でない形で胸襟を開いてオープンな議論できれば、それこそ生きた教育だ。

そして、それこそが自由闊達な議論を行う大学本来のあり方ではないかと思うのだ。

※『創』11月号の手記についてはホームページを参照いただきたい。

http://www.tsukuru.co.jp