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国会前抗議行動は「新たな市民革命」なのか?この議論と総括は大事だ。

篠田博之月刊『創』編集長
安保法制に反対する国会前抗議行動

安保法制が成立してもこれで終わりではない、と安倍政権に対する抗議行動が続いている。政治的無関心とか保守的と言われてきた大学生がSEALDsを軸として広汎な抗議行動を展開したこと、そこに「45年ぶりに街頭に立った」という学者の会や、既成の労組や市民運動を母体にした「総がかり行動実行委員会」が関わったという三層構造によって国会前抗議行動は大きくなったといえる。

この新しい運動に対しては、安保法制に反対する人たちの間でも「新たな市民革命だ」と賛辞を送る人と、「あまり幻想を持つのは禁物だ」という冷ややかな見方が交錯している。

党派や労組の動員でなくSNSが威力を発揮したことや、脱原発の市民運動という大きな経験があったことなど、今回の運動が新しい要素を持っていることは確実だが、果たしてそれをどう評価あるいは総括すべきか。それを新しい民主主義の萌芽と見るのかどうか。このあたりは、今後を考えるうえでかなり重要なことだと思う。

いろいろな媒体がそれらの総括議論を行っている。特にSEALDsの運動については、多くの雑誌や書籍が取り上げている。「総がかり行動」の取り組みについては、『世界』11月号が座談会を行っている。「学者の会」については発売中の『創』11月号の山口二郎さんや香山リカさんらの座談会が面白い(「学者の会」のホームページは下記)。

http://anti-security-related-bill.jp/

それについて少しここで紹介したいと思うのだが、その前に、保守の側からの総括として『週刊新潮』10月15日号の「『国会デモ』総括に『大人の説法』」という記事に言及したい。4人の論者が60年安保や70年安保と比較して今回の国会デモを批評しているのだが、全員に共通するのは、火炎ビンが飛び交ったかつてのデモと今回のデモの違いについての認識だ。例えば今回の抗議行動に批判的なのは評論家の呉知英さんで、こう語っている。

《大事なのは運動における理論構築であって、ソフトに楽しくやればいいというものではない。カジュアル化した運動は、ただ騒ぎたいという人たちの集まりに過ぎず、盆踊りと変わりがありません。カジュアルな運動が「遊び」としてぶり返すことはあっても、今後、大きな政治的影響力を発揮できるとはとても思えません》

今回の運動を、「盆踊り」と表現するのは呉さんらしくて笑ってしまうが、でも皮肉は別として、この「盆踊り」のたとえ、つまりある種の「祭り」だという捉え方は、もしかすると意外と大事なポイントをついているかもしれない。

一方で、70年安保闘争を鎮圧する側だった佐々淳行さんも、かつての火炎ビンの代わりに例えば楽器を持っていたという違いに着目するのだが、結論は呉さんと反対だ。「平成の安保デモは、デモ自体は何も怖くない」と言った後で、こう付け加える。「しかし、不気味な彼らの存在には空恐ろしさを感じざるを得ません」。SEALDsの運動のようにつかみどころのないもののほうが、わかりにくいだけに不気味だというのだ。

さて、その学生たちの新しいスタイルの運動について考えるうえで、大きなヒントになりそうに思われるのが大学教授たちの運動だ。「学者の会」(安全保障関連法に反対する学者の会)は、当初は安倍政権の動きに危機感を抱いた学者たち個人の集まりだったのだが、運動が拡大するにつれて、「学者の会」というより「大学人の会」と呼んだ方がよいような様相をていして行った。あっという間に100大学を超える規模で反対声明が上がったり、学内集会や署名運動が広がっていき、しかもそれが各大学の横のつながり、ある種のネットワークになっていった。

その学者の会は、安保法が成立した直後の9月20日に会見というか集会を行った(下の写真)。このタイミングにすかさずこういう社会的アピールを行うという、この政治感覚もなかなかのものだが、そこに全国の大学から170人もの教員が集まったというのはすごいことだ。70年安保以来45年ぶりに街頭に立ったという教授たちの言葉は前述したが、たぶんかつての学生運動で鍛えられたものだろう。

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大学といえば、この10年間ほどは管理と規制が横行し、中核派や革マル派の影響を締め出すために相当無茶なことが行われ、キャンパスは閑古鳥でタテ看も見られないと言われていたが、今回、久々に新しい風が吹き始めたといえる。『創』の座談会で、法政大教授の山口二郎さんや東大教授の石田英敬さんがこう話している。

《山口 法政大も、もともと中核派の拠点ですから、SEALDsのような学生を巻き込んだ運動ってできにくいんですね。だから教職員の会というのをつくったんですけど、学生は入れてないですよ。

石田 それぞれの大学における学生運動とか職員組合と今回の動きがどう絡まっているか。詳しく見るといろいろありますね。

山口 伝統的なものがないところにSEALDsが出てきたという感じでしょう。明治学院大とかICUとか。》

SEALDsの学生たちと教授たちは途中から連携して抗議行動を行うようになるのだが、両者の関係についてもこういう指摘がなされている。

《山口 やっぱり彼らは素直な学生だし、教師からいろんなことを摂取しようとする意欲がある。(略)集まって勉強しながらデモもするというやり方で、これは面白いというか、教師から見ると「こんないい学生が今時いるんだ」という感じでした。

香山 大学が目指してきた本当の意味での「学び」ですよね。立教大でもそうです。勉強したいから誰か先生を手配してくれと言われて。こんなことを学生の方から主体的に言われたことはこれまであまりなかった。

山口 学びと運動が結びついてさらに学ぶというね。大変新しいことが起こったという感じですね。》

大学にとっては久々に起きた新しい動きだったというわけだが、それがあっという間に各大学に広がっていく雰囲気については、立教大教授でもある香山リカさんがこう語っている。

《香山 最初はそれぞれ個人で意見を表明していたのが、東京でいえば東大もやって、早稲田も割と早めに声明を出した、というふうに広がっていった。そうなると逆に「立教も遅れてなるものか」という競争意識も芽生えてきたりして、「明治よりは早くやりたい」とか(笑)。そうやって少しずつ数が増えていくともはやウチもやっても怖くないという雰囲気になったわけですね。最初にやるのは浮いちゃうのが怖いと思うんだけど、その当時は逆に遅れてるのがカッコ悪いといった雰囲気になっていきましたからね。》

運動の広がりも、短期間に拡大したとはいっても紆余曲折はあった。それについてはこんな指摘がなされている。

《香山 私が緊張したのは、あの国会前の混雑で学生と教員が出会うために、「立教大」という目印のプラカードを二本自作したら、それがやたらと目立ってしまい、それへの苦情が来たと聞きました。さっき言ったように「やってくれてありがとう」という肯定的なメッセージのほうが圧倒的に多いので、数件でも苦情が来るとそちらが目立ってしまうんですよね。

山口 自主規制というか、そういうことはあるかもしれない。

香山 今回ちょうど大学の夏休みの期間と重なり大学人が動きやすかった時期だったと思うんですけど、深くコミットした先生と署名もしてないという先生がいた。そこの温度差は何なのでしょうか。

山口 政治学者というのは今回、案外動いてないんです。杉田と齋藤純一と千葉さんと中野さんと、立憲デモクラシーの会では数人動いたけれども、例えば篠原一先生の弟子筋とか坂本義和先生の弟子筋とか、かつて戦後の左翼運動・平和運動をリードした学者の弟子たちは何もしてない人のほうが多い。何でなんだろう。しかも最近のデモクラシー論でdeliberative democracyとか言ってるのに、目の前でdeliberationを否定するような議会政治が存在して何も言わないとは何事だと思って私は相当怒ってますけどね。人文学系の哲学とか歴史の先生はやってたけど、政治学者は本当に何をやってるんだろうと感じました。

石田 なんか大人しいんだよね。かつて篠原さんや坂本さんが持ってた実践性みたいなものが全く今弟子の世代に引き継がれていない。》

《石田 学生もたぶんそういうところがあるんじゃないかな。世代的に言うと、70年代半ばぐらいで学生運動が一回途切れるでしょ。そこから空白の三十何年があって、そこで学者になった人というのは「そういうことするもんじゃない」っていう前提ですね。だから今度SEALDsの子たちが「日常生活の中で政治の話をするなというのはおかしい」と言いだしたわけだけど、それと同じように「学者生活の中で政治の話をしないものだ」っていうカルチャーが出来ちゃった。》

《石田 だから世代的に言うと「中抜き」になってるんですよ、ポリティックなことに。1980年代の消費社会やポストモダンが文化を脱政治化したわけで、政治ってダサいものだよね、って常識が40年近く続き、奇妙な思考停止社会を皆生きてきた。

その空白の何十年があって、今度若い子たちが出てきたんで、ちょうど中抜きになってる、そういう感じですね。学生たちを見ても、SEALDsが出てくる前の子たちは、動きが鈍いんですよ。あるいはネットの研究ばかりしてる奴は、むしろそういうことに否定的ですね。》

このあたりの分析は非常に興味深いのだが、全文はぜひ『創』11月号をお読みいただきたい。この夏の運動については、かつて反核などで声をあげた文学者のまとまった動きが見られなかったことや、ジャーナリズム界も動きが鈍かったことなど、いろいろ考えてみるべき問題がある。今後、抗議の声をあげ続けると同時に、日本の政治と民主主義をめぐって今どういう状況が起きているのか、議論を深めるのは大切だと思う。

http://www.tsukuru.co.jp

『創』については上記URL参照。なお2枚の写真のうち冒頭は新藤健一さんの撮影。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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