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「黒子のバスケ」脅迫犯が獄中で書いた警視庁特殊班との攻防戦

篠田博之月刊『創』編集長

9月29日に控訴を取り下げて刑を確定させた「黒子のバスケ」脅迫犯・渡邊博史受刑者が獄中で書き下ろした『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』(創出版)が全国の書店で発売となった。獄中での書下ろしという作業は結構大変だった。校正のやりとりのつど拘置所の検閲がなされたから検閲官も3回は中身を読んだはずだ。

渡邊受刑者の書いた意見陳述などはこのヤフーブログで公開してきたが、実は脅迫事件そのものの舞台裏については裁判でもほとんど明らかになっていない。渡邊受刑者は起訴事実を全て認めたため、事実関係をめぐる審理がほとんど行われなかったからである。2012年10月の上智事件から1年余、警察と彼の間でどんな攻防戦が展開されたかは、今回の著書で初めて明らかになったと言ってよい。

渡邊受刑者は脅迫状の中で「グリコ森永事件の30年ぶりのリバイバルや」と書いていたように、1984年のグリ森事件をかなり模倣していた。何よりもグリ森事件は、警察を翻弄し、最後まで逮捕されずに逃げおおせた戦後まれに見る大事件だった。しかし、その後30年間、警察は科学捜査の手法を大幅に進歩させた。恐らくグリ森事件が今起きたら、犯人は逮捕されてしまうかもしれない。

犯人と警察が何度も急接近し、追い追われつの捕り物劇を展開した30年前の大事件は、実にドラマチックだが、今から見れば極めてアナログだった。「黒子のバスケ」事件は、テレビ東京の番組で池上彰さんが「犯罪捜査にビッグデータ解析が使われた」と強調したように、電脳空間における情報戦だった。

この事件の捜査にあたったのは警視庁の特殊班。犯人を追いつめた決め手は、渡邊受刑者が500カ所への脅迫状を送るためにネットカフェのPCから住所検索を行ったそのデータを、脅迫状を受け取った企業の側からたどり、そのネットカフェにたどり着いたのだった。渡邊受刑者もバカではないから複数のPCを使ったのだが、警察はかなりのスピードでそのPCにたどりついていた。そうやって犯人が大阪在住であることをつきとめ、彼が毒入り菓子を浦安のコンビニに置きに現れた際の防犯カメラの映像から、渡邊受刑者の服装やいつも背負っていたリュックを特定、捜査の網を狭めていったのだった。

逮捕された2013年12月には、渡邊受刑者は大阪の高速バス乗り場で捜査官に見つけられ、尾行をされた。犯人が脅迫状を投函する時には、脅迫対象のイベント会場の近くに出没することを把握していた捜査側は、犯人が高速バスで大阪から移動することを知っていたと思われる。こうして12月のイベントに脅迫状を送ろうと渡邊受刑者が動き出した途端に警察は彼を包囲していったのだった。

渡邊受刑者が2013年12月15日に身柄確保された瞬間も、これまで断片的にしか報道されていないのだが、大阪から東京へと尾行がなされる過程で、捜査員は次第に増え、彼が取り囲まれた時、刑事は7~8人いたという。まさに彼は袋のネズミになっていたのだった。警察の持っていた情報からすれば彼が逮捕されるのは時間の問題だった。

渡邊受刑者はネットから足がつくことを怖れ、途中から脅迫状は全て郵便物にしたのだが、封筒詰めをする際にも手袋はもちろん、唾液がつかぬようマスクをするなど細心の注意を払っていた。しかし、実際には大量の脅迫状から、彼のDNAは検出されていた。警察は犯人に迫るため、あらゆる手がかりを捜査していた。今回の手記で初めて知ったのだが、何と一時期、犯人からメッセージが届いていた『創』編集部も張り込みの対象にされていたのだった。

実はこのヤフーブログも事件に重要な役割を果たしていた。2013年10月23日、『創』編集部に犯人から2度目のメッセージが送られてきた。それを筆者は昼過ぎにこのヤフーブログで公表したのだが、2時間ほど後に電話をかけてきたのが警視庁特殊班の刑事だった。そして同日夕方、編集部にやってきた刑事2人にその文書のコピーを渡したのだが、それをもとに毒入り菓子が初めて発見されたのは記録上は24日。恐らく同日未明だろう。ちなみにその時期、このブログは警察だけでなく、脅迫状の届いた企業などが、連日チェックするようになっていた。

その毒入り菓子発見が新聞で報道されたのは約1カ月後だった。当然のことだが、犯人に知られるのを恐れた警察側は、捜査の進展については全く情報を出さなかったのだ。毒入り菓子の発見も、菓子からニコチンが検出されたのも、11月に入ってから報道されたので、大半の人は「あ、今頃発見されたんだ」と思い込んだと思うが、実はそうではなく、警察が隠していただけだ。ちなみに、筆者は、毒入り菓子発見の情報を提供した協力者なので、特別の関係と思い、毒入り菓子が無事発見できたか何度も刑事に問い合わせたのだが、その都度「まだのようですね」ととぼけられていた。

前述した毒入り菓子発見が10月24日だったことなど捜査情報については、渡邊受刑者は裁判資料として閲覧できた調書などから入手している。あるいは取調べの過程で、防犯ビデオに映った自分の画像などを彼は見せられている。今回、渡邊受刑者が本を書いたことで初めてそれらの捜査情報は公になることになった。

さて、ここで『生ける屍の結末』の第1章第1話を紹介しよう。多少割愛したのでダイジェストだが、彼が「黒子のバスケ」脅迫を決意するまでの、いわば事件の前史にあたる部分だ。

『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』

第1章第1話  事件前夜

これから事件前夜の状況についてお話します。前夜と申しましても、最初の上智大学での事件の約1年半前、2011年3月11日のことです。

その日は勤務先のコンビニで夜勤の予定が入っていましたので、昼間は眠っていました。すると大きな揺れに襲われて目を覚ましました。しかし何をしていいのか分からなかったので、仕方なく布団にもぐり込んでじっとしていると揺れは収まりました。1985年に建てられた木造アパートに損壊箇所はありませんでした。周囲を確認し終えると、自分は再び布団にもぐり込みました。

自分が再び目を覚ますと午後9時になっていました。夜勤は午後11時からなので、そのまま起床することにしました。ネットでニュースを確認し、未曾有の天災の発生を知りました。落命した人の全てではないでしょうが、大多数にはその死を嘆き悲しんでくれる人がいるのだろうなと思いました。自分は津波から「お前は海底に引きずり込む価値もない」と馬鹿にされているような気がしました。

端的に申し上げて、自分は何の役にも立っていませんでした。自分にできることなど何もありませんでした。セシウム混じりの薫風が吹き始めた初夏の頃に、被災地の書店で多くの被災者たちに回し読みをされた一冊の『少年ジャンプ』があったとのニュースを見かけました。自分は 「やっぱりジャンプ様にはかなわないな」と思いました。

生活費稼ぎと学歴詐称

自分は最低限の生活費を稼ぐため以外に働くことはしませんでした。自分は生来救い難い愚鈍で、何をやっても人並みに務まりません。ですからどこで働いても必ず上司や同僚や後輩たちから見下され、いじめられました。自分にとって労働とは即ち苦痛でした。働く時間を減らせるように、とにかく切り詰めた生活をしていました。

風呂なしエアコンなしトイレ共同のアパートの家賃は3万7000円でした。光熱費は多い月で合計1万5000円くらいでした。この頃の月の生活費は6万円から多くても8万円でした。お金を使わないことに慣れれば、これで特に不自由なく暮らすことができました。

コンビニの夜勤のアルバイトは一回の勤務で8500円くらいになりました。月に10日くらい働けば生活は可能でした。ただ人手不足や病気がちの同僚の代理を引き受けたりで月に15日から20日くらいは働いていました。

自分は店長や同僚たちに「昼間は会社員をしている」と嘘をついていました。「どうしていい年をしてコンビニで夜勤をしているのか?」と同僚から訊かれた時に咄嗟に出た嘘でした。このコンビニではわりと嫌なことが少なかったので、2009年2月から2012年4月まで3年2カ月にわたって働きました。これは自分が同じ仕事を続けた期間としては最長でした。

自分は正社員になりたいと思ったり、なろうとしたことは一度もありません。自分には正社員など務まる能力はありませんし、もし正社員になったとしても嫌なことしかないと思っていました。

自分はアルバイトを転々としていました。どうしても我慢ができないくらい嫌な目に遭ったら、すぐに辞めていたからです。アルバイトの面接を受けても採用率が低かったこともあり、履歴書だけは何百枚と書いています。ありのままを書くとあまりにも酷い履歴書になるので、自分は学歴を詐称していました。自分の最終学歴は高卒ですが、大学中退ということにしていました。卒業を詐称しなかったのは、やりすぎだと思ったからです。それにもし勤務先に卒業を詐称した大学の出身者がいて、あれこれ大学について訊かれたら答えられないとも思ったからです。ですから入学して3カ月で中退したという設定にしていました。もし大学について訊かれても「トータルで5回くらいしか行ってないから分からない」などとごまかせるようにするためでした。

自分は25歳の頃に一度だけ上智大学中退と詐称した履歴書を書いて某ドラッグストアのアルバイトの面接で提出したことがあります。面接後に「とんでもなく畏れ多いことをしてしまった」という後悔に駆られました。さらに不採用を確信していたのに採用されてしまいました。自分は上智大学中退という詐称のお陰で採用されてしまったと思い、採用の辞退を申し出ました。自分はいろんな大学の中退を詐称しましたが、上智大学中退を詐称したのはこの時だけでした。自分はこの体験から、上智大学のことは意識して意識しないようにし始めました。

自分の高校卒業後の正確な経歴は「浪人→専門学校に通って卒業→引きこもり→再び専門学校に通ったが中退」です。これはあまりにも気持ち悪い経歴です。ですから大学中退後すぐに働き始めたと職歴も詐称していました。ただし正社員になったとは詐称しませんでした。また一カ所で長期間アルバイトを続けたという期間の詐称もしませんでした。これらもやりすぎだと思ったからです。ですから自分がアルバイトの面接に出す履歴書には、大学を中退後にアルバイトを転々としているという経歴が記されることになります。

面接では「どうして大学を中退したのですか?」 「どうしてアルバイトを転々としているのですか? 正社員になろうとしたことはないのですか?」と大概は訊かれました。自分は面接官に「マンガ家を目指してます(した)。大学を中退したのはアシスタントの仕事を始めたからです。アルバイトを転々としている(た)のも、アシスタントの仕事やマンガ関係の用事を優先させられる状態を維持するためです(した)」と答えていました。アルバイトの面接に限らず自分の来歴について訊かれた時は、このような答え方をしていました。これは完全に嘘でした。

実際に自分が本気でマンガ家やその類のクリエイターと呼ばれる職業を目指したことはありません。前述した通り、自分はいわゆるクリエイター養成系の専門学校に二度も行っています。行った理由は「苦痛が少なそうだから」です。決してクリエイターを目指していたのではありません。

その手の専門学校に行っても誰しもがクリエイターやその周辺の仕事に就けることはありません。モノになるのは大体クラスで一人か二人というのが相場だと思います。自分がその一人や二人に該当しないことは初めから分かっていました。現にその一人や二人と自分は明らかにモノが違いました。

自分はマンガ家など目指していなかったのに、そのような設定を作り、必要に応じて自称していました。

自分は人生において努力とは違う何かを必死になってやって来ました。そして自己実現のために努力している人よりも多くのエネルギーを使い、精神的に疲労困憊していました。しかし自分が世の中からは「努力もせず自堕落な人生を送って来た怠け者」という評価を受けていることは分かっていました。努力しても夢が叶わなかった人を負け組と定義するなら、自分は負け組ですらありませんでした。負け組の下です。それでは社会に存在する資格はないと思いました。せめて負け組であれば社会の底辺で生きて行くことも許されると思い、経歴を詐称していました。

自分では嘘設定と分かっていたのですが、無意識裡に少しずつ本気にしていた部分もありました。自分はこうして底辺で生きて行くことをどうにか受け入れていたので、精神状態はわりと安定していました。

自殺念慮と「黒子のバスケ」

自分は1984年4月に小学校に入学し、無茶苦茶にいじめられました。両親に訴えましたが、基本的に放置されました。担任教師も同様でした。自分はいじめから逃れる術はないと思い、そして「終わりにしたい」と常に願うようになりました。それ以来、頭から自殺念慮が消えたことはありません。

2010年の秋頃から自分の自殺念慮は急激に強くなり始めました。自分が抱えた虚しさにいよいよ耐えられなくなり始めたからです。嘘の設定が精神安定剤として効かなくなり始めていました。この虚しさは、例えば事件や事故や災害で息子を亡くした母親が「息子を亡くしてから何をしても面白いとも楽しいとも感じられない。とにかく虚しさばかりが募る」と語る時の虚しさと非常によく似ています。娯楽でやり過ごせる虚しさではありません。むしろ周囲が楽しんでいる中で孤立感を覚えてより悪化するタイプの虚しさです。

自分は震災からしばらくの間は、なぜか妙に元気がありました。それは2011年の夏のその日まで続きました。

夏のある日でした。何月何日かまでは覚えていません。何気なく2ちゃんねるのマンガ関係のスレッドを見ていて「藤巻って上智なんだってな」「へえ。頭いいな」というやり取りの書き込みを見つけました。

自分にとってそれまで「黒子のバスケ」はバスケマンガということで注目していましたが、ぶっちゃけどうでもいいマンガでしかありませんでした。なぜバスケマンガに注目したのかと申し上げますと、自分が同性愛者で特にバスケのユニフォーム姿の男性に強い性的興奮を覚えるからです。

自分が上智大学という名称を目にした瞬間に、心の奥底に押し込めていた劣等感がとめどもなくあふれ出て来ました。自分はこの瞬間から「黒子のバスケ」とその作者氏を強く意識し始めました。またそれまで沈静化していた自殺念慮が、自分の頭の中で急膨張するのも感じました。

この出来事の数日後に自分は神奈川県川崎市川崎区へと向かいました。目的は自殺の場所探しです。自分は最期の瞬間に目にしたい光景がどういうものであるかを常日頃から考えていました。自分は京急小島新田駅で下車すると川崎港方面へと向かいました。自分は工場萌えと呼ばれる属性の人間です。化学工場や製鉄所やコンテナを見ていると、それだけでワクワクして来ます。自分は30歳を過ぎてから生まれて初めてマンガの設定作りの真似事をして遊び始めました。その舞台となる架空の都市のモデルは川崎の臨海地区の工業地帯でした。

川崎区浮島を歩いていて行き止まりにぶつかりました。関係者以外は立ち入り禁止と書かれた現在はほとんど稼働していない廃油処理施設の閉じた門扉は、ところどころ白い塗装がはがれて赤茶けた錆が浮き上がっていました。右手は化学工場の敷地、左手は運河で対岸に製鉄所が見えました。どん詰まりとでも表現するのが実に相応しい場所でした。真昼なのに静寂に包まれ、車の一台も通らない車道の真ん中に立った自分は「この風景の中に溶解して、人生を終わりにしたい」と思いました。

誕生日に知った「アニメ化決定」

2011年9月29日でした。なぜ日付けを断言できるのかと申しますと、この日は自分の34回目の誕生日という忌まわしい日だったからです。起床していつものようにネットでニュースをチェックしたところ、神様から自分への誕生日プレゼントとしか思えないニュースを見つけました。それは「『黒子のバスケ』アニメ化決定! 2012年4月より放送開始!」という朗報でした。

自分は堪らなくなって、4年以上かけて阿房宮の如く複雑怪奇に築き上げた架空都市の妄想設定のデータをパソコンから消去し、それらをプリントアウトして作った冊子を処分しました。自分でもどうしてこのようなことをしたのか説明ができません。

2011年11月。自分は16年ぶりに上智大学の敷地内に足を踏み入れました。物凄く緊張して心拍数が跳ね上がり膝も震えましたが、どうにか倒れずに済みました。キャンパスは学園祭に参加する学生たちであふれ返っていました。

自分はグラウンドでサッカー部の試合を観戦し、終了すると体育館に移動して男子バスケ部の試合を観戦しました。上智大の男子バスケ部員たちは皆が体中から美丈夫のオーラを発散し「オレはもう人生に勝った」と宣言せんばかりの顔つきをしていました。自分は男子バスケ部員たちの中に童貞は存在しないだろうと確信しました。

2012年になりました。確か新年最初の日曜日だったと思います。近所のバスケのゴールが設置されている公園の前を通ると、バスケのユニフォーム姿の三人の男子高校生が遊んでいました。よく見ると「黒子のバスケ」の作中に登場するライバル校のモデルとなったとされる近所の私立高校の男子バスケ部員のようでした。部活の年始会の帰りでしょうか? とても楽しそうにはしゃいでいました。自分は急いで自宅に帰ると三人を襲う妄想でオナニーに励みました。大の原発嫌いの自分はかわいい男子高校生の大腿骨にストロンチウムが蓄積しないようにと祈りながらイキました。バスケ少年の太腿は日本の宝です。

デイトレと幻聴と幻覚

2012年4月末日。自分はコンビニのアルバイトを辞めました。年明け頃から建設作業員の常連モンクレ客に何度も嫌な目に遭わされ続けたからです。

自分は苦痛からの逃走には必死になります。自分にとって何かをする動機はそれしかありません。さらに自分がよくシフトの代理を引き受けていた病気がちの同僚が前月に退職していましたので、自分がコンビニを辞めない理由は何もありませんでした。

5月からの自分の仕事は専業デイトレイダーでした。手元に置いておく最低限の生活費を除く全ての現金をFX(外国為替証拠金取引)の口座に入れ、相場の動きを示すチャートを日がな一日ずっと睨みつける生活を始めました。また商品先物の口座も開設して、原油や天然ガスや金や銀や銅やコーヒーやカカオのチャートも睨みつけるようになりました。

ゴールデンウィークもデイトレをしていました。東京が休みでもロンドンやニューヨークの市場は動いているからです。自分がゴールデンウィークに自宅で引きこもっていたのは約20年ぶりでした。ゴールデンウィークはいつも有明ビッグサイト(や晴海国際見本市会場)で開催されている同人誌即売会に行っていました。2007年から2011年にはスタッフとして同人誌即売会に参加していました。案内所で落とし物の預かりや喫煙場所の説明などをしていました。しかし2012年は参加を断りました。もし「黒子のバスケ」の同人誌が売られているのを見つけたら正気が保てないと思ったからです。自分の心の唯一の避難所であった同人誌の世界も地獄と化し始めていました。

自分は翌月に届いた「スタッフ登録更新の意向確認メール」に更新しない旨を返答してスタッフを辞めました。

梅雨時から夏にかけて自分のデイトレの口座の残金はジリジリと減り続けました。それと反比例するかのように「黒子のバスケ」の人気は上昇し始めました。その日も自信を持って原油先物の買いポジションを取った途端に価格が急落してとてもイライラしていました。チャート画面を見てても腹が立つだけですので、行きつけのラーメン屋に行くことにしました。自宅を出てJR新大久保駅の前を通ると「おい負け組の下」と聞こえました。自分を嘲ったのは駅舎でした。

新大久保駅は「黒子のバスケ」の聖地(作中に登場した場所のモデル)の一つでした。自分は駅舎からの嘲笑を無視して大久保通りを東に進み、十字路を左折して、明治通りを北にしばらく進みました。すると「やい底辺以下」と聞こえました。周囲を確認すると道路を挟んだ向かいに、自分が卒業した田舎の自意識過剰な進学校とは違う由緒正しき進学校の校門が見えました。自分を罵倒したのは校門でした。自分はさすがに耐えられなくなって、そのまま大急ぎで走って帰宅しました。

自宅に着いて麦茶を二杯飲んで気を静めてから、原油相場を確認しました。価格は戻り、自分が買った値段より高くなっていました。ただし自分が損切りラインとして決済予約を入れていた価格まで下落してからの急反発でした。芸術的な底値売りに成功し、またも口座の残金を減らしました。

自分は街から嘲笑と罵倒を頻繁に浴びるようになりました。悪いことに自分の住まいは「黒子のバスケ」の聖地に囲まれていました。と申し上げますより街全体が「黒子のバスケ」の作者氏を育んだ聖地でした。自分の住まいも地獄と化しました。

自分の住むボロアパートの契約更新日は10月15日でした。この調子でデイトレードで負け続ければ、約7万円の更新料を支払えなくなるのは確実でした。

宣戦布告

自分は8月下旬に勝負に出ました。残金を商品先物の口座にかき集めて、白金先物で大きな売りポジションを取りました。「後は天に任せるしかない」と思った自分は、白金価格の下落を祈って取り引き画面を閉じました。

すると自分の右隣に「黒子のバスケ」の主人公の黒子テツヤが、左隣には副主人公の火神大我が立っていました。黒子は 「お前は負け組じゃないよ。負け組ってのは努力したけど力が及ばず負けた人のことなんだよ」と言いました。火神がそれを受けて「てめえは努力すらしてねーんだから負け組ですらねーよ」と続けました。自分は言い返したかったのですが、上手く言葉が出て来ませんでした

黒子は「この街は努力したことがある人が住む街なんだよね」と自分への軽蔑を露わにした口調で言い、火神は「だからてめえが住んでいい街じゃねーんだよっ! そもそもここは藤巻先生の縄張りだっ!」と声を荒げました。自分が黙っていると黒子は「同人誌の世界もこれからは僕たちのものだからね。お前がいていい場所なんてどこにもないんだよ」

と続け、火神は「出てけっ! この街からも同人誌の世界からも出てけっ!」と自分を罵倒しました。そして二人で声を揃えて「お前(てめえ)は、この世から出てけっ!」と自分に言い渡しました。

目を覚ますと汗で全身がびしょ濡れでした。自分はドクダミ茶を三杯飲んで喉の渇きを癒すと、意を決して敢えて見ないようにしていた「黒子のバスケ」の同人誌の世界における人気の状況を調べました。そして来る2012年の冬のコミックマーケット(日本最大の同人誌即売会。以下コミケと記します)では、女性向けジャンルで人気トップになることは確実との結論を得ました。さらに2ちゃんねるの801板(ボーイズラブ系の話題を取り扱う板)にあった「黒子のバスケ」についてのスレッドの勢いの急加速も確認しました。

すると自分の携帯電話のメールの着信音が鳴りました。それは白金の売りポジションをロスカット(損失の拡大防止のための業者による強制決済)したという業者からの報告でした。自分は慌てて白金の相場を確認しました。自分が売りポジションを取った直後に白金の価格は急騰していました。経済ニュースは「南アフリカのプラチナ鉱山の労働者のストライキが流血の事態に発展。死傷者が多数発生した。市場にはプラチナの供給が減少するとの見通しが広まり買い注文が殺到。価格が急騰した」と事態を解説していました。自分はすぐに商品先物の口座から残金を全て引き出しました。自分は誰もいない部屋で黒子と火神に向かって、

「この世から出てってやるよ! でもただじゃ出てかねえからなっ!」

と宣戦を布告しました。

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月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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