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日本で生まれ育った北朝鮮代表の安英学、万感を胸に“誓いの地”で引退セレモニーへ

慎武宏ライター/スポーツソウル日本版編集長
05年W杯アジア最終予選時の安英学(写真:築田純/アフロスポーツ)

Jリーグはもちろん、韓国Kリーグでも活躍した男が静かに現役生活から引退した。安英学(アン・ヨンハ)がそのひとだ。

岡山で生まれ、東京で育った在日コリアン3世の安英学は、東京朝鮮中高級学校、立正大学を経て2002年に当時J2だったアルビレックス新潟でJリーグ・デビュー。その後、名古屋グランパス(05年)に移籍すると、2006年からは韓国のKリーグでプレー。釜山アイパーク(06〜07年)、水原三星(08〜09年)でプレーし、2010年からはJリーグに復帰。大宮アルディージャ(10年)、柏レイソル(11〜12年)、横浜FC(14〜16年)でプレーした。

在日コリアンながら朝鮮民主主義人民共和国(以降、北朝鮮)代表にも選ばれ、2010年南アフリカ・ワールドカップにも出場している。在日コリアン・アスリート列伝を見ても、JリーグとKリーグ、さらにはワールドカップまで経験した選手は、安英学と鄭大世(清水エスパルス)しかいない。

そんな安英学の名を一躍、有名にしたのは2005年ワールドカップ・アジア最終予選だろう。当時、ジーコ監督が率いていた日本代表は、アジア最終予選で北朝鮮代表と同組に。当時の北朝鮮代表は「謎が多くて不気味だ」と騒がれていたが、日本で生まれ育った安英学と李漢宰(現在は町田ゼルビア所属)は各種メディアからこぞって取り上げられ、ふたりはちょっとした有名人になった。

彼らの言葉を通じて、北朝鮮代表の素顔が明るみになることもあったので、サッカー・ファンでなくとも、その名を覚えている方々は多いことだろう。

(参考記事:【長編ノンフィクション】AGAIN〜サッカー北朝鮮代表の素顔を追え〜)

■2002年拉致事件発覚。そのとき…

そんな安英学も今年で38歳となり引退を決断するに至ったわけだが、思わず心を揺さぶられたのは、引退セレモニー開催の知らせを聞いたときだ。来る4月30日にデンカビッグスワンスタジアムで行われるJ1リーグ第9節のアルビレックス新潟対柏レイソル戦で、引退セレモニーが行われるのだ。

「たくさんの思い出が詰まったビッグスワンで、たくさんの声援をいただいた皆さまに再会と引退のご挨拶をさせていただくのを楽しみにしています」と、安英学も喜びを隠さないが、このニュースを聞いて私の脳裏に浮かんだのは、安英学から直接聞いた2002年9月の出来事である。

当時、世間は北朝鮮による日本人拉致事件が発覚し、揺れに揺れていた。日本に暮らす多くの在日コリアンたちがショックを隠せず、安英学も胸を痛めた。ネットの掲示板には、安英学と拉致問題を興味本位に結び付けた中傷が飛び交い、アルビレックス新潟のクラブ事務局にも脅迫まがいの抗議電話もあったらしい。

Jリーグだけではなく、プロ野球を含めた日本のプロスポーツの世界で、これまでも多くの在日コリアンがプレーしてきたが、彼らはときとして政治問題の犠牲にもなってきた。安英学もその宿命から逃れられなかった。

(参考記事:日本プロスポーツと在日コリアンの歪な“因縁”と根深い“人脈”)

■「オレたちはサッカー選手である君を応援する」

ただ、そんな彼を支え勇気づけたのは、新潟のクラブ関係者やサポーターだった。とあるファンは練習を終えて帰宅しようとしたときに安英学に、こんな励ましの言葉をかけたという。

「拉致問題と君はまったく関係ないから。オレたちはサッカー選手である君を応援する。だから、君も目の前のサッカーだけに集中してほしい。応援しているから」

見ず知らずのファンだったが、だからこそその一言がグッと心に響いたと安英学は言っていた。しかも、チームメイトやクラブ関係者たちも自分を励ましてくれる。試合会場に行けば、スタンドをオレンジ一色に埋め尽くした新潟サポーターたちが、いつになく大きな声で自分の応援歌を歌ってくれていた。

「“イギョラ(頑張れ)!!アン・ヨンハ!!”って、何度も何度も何度も……。顔を上げると、涙が零れ落ちてしまいそうで、仕方なく俯いていましたが、身震いが止まりませんでした」

その中には自分のことを“安英学ヒョンニム(兄さん)“と慕ってくれる朝鮮学校の生徒や父兄たちの姿もあった。日本と在日の人たちが自分にさまざまな想いを託して、応援してくれている。ピッチの中からその光景を眺めながら、安英学は強く心に誓ったという。

「この人たちを悲しませてはいけない。日本、朝鮮、在日の間にはいろいろあるけど、僕が揺らいでしまってはダメなんだ。僕のことを応援してくれるすべての人々のために、サッカー選手として、強くならなきゃ。堂々とプレーしなければ」と。

つまり、新潟の地は、在日フットボーラー安英学の“魂の原点”であり、“誓いの場所”なのだ。そんな“誓いの場所”に安英学が再び帰ってくることが感慨深く、クラブへの貢献に敬意を表して引退セレモニーを企画したアルビレックス新潟の粋な計らいは感動的ですらある。

以前、小野伸二、小笠原満男、中田浩二ら日本の“黄金世代”と、イ・ドングッら韓国の若い選手たちが本音を語り合って友情を深めた“チェンマイの夜”に通訳として居合わせたことがあるが、そのときに感じた“心の震え”と共通するものが、今回の引退セレモニーにあるような気がしてならない。

(参考記事:日本と韓国のサッカー黄金世代たちが語り合った伝説の“チェンマイの夜”を完全再現!!)

キックオフ1時間前の13時から行われる引退セレモニーでは、安英学からサポーターにメッセージが送られるという。安英学はきっと清々しくも熱い、彼らしいメッセージを言葉にすることだろう。

「クムンイルオジンダ(夢は叶う)」という言葉を人生訓とし、サッカーの力を強く信じてきた安英学。これから始まる第二のサッカー人生でも、幸多からんことを願うばかりだ。

ライター/スポーツソウル日本版編集長

1971年4月16日東京都生まれの在日コリアン3世。早稲田大学・大学院スポーツ科学科修了。著書『ヒディンク・コリアの真実』で02年度ミズノ・スポーツライター賞最優秀賞受賞。著書・訳書に『祖国と母国とフットボール』『パク・チソン自伝』『韓流スターたちの真実』など多数。KFA(韓国サッカー協会)、KLPGA(韓国女子プロゴルフ協会)、Kリーグなどの登録メディア。韓国のスポーツ新聞『スポーツソウル』日本版編集長も務めている。

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