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ジェノサイドから25年、ルワンダを振り返る(中編)

下村靖樹フリージャーナリスト
ルワンダ難民大量帰還(撮影/筆者)(1996年)

今日4月7日は、アフリカ中部の国ルワンダにとって特別な日でした。1994年に発生したジェノサイドを悼む、ジェノサイド追悼日なのです。

そして今日から100日間、同国は喪に服します。

また国連でも4月7日は「ルワンダにおけるジェノサイドを考える国際デー」とされ、ニューヨークの国連本部を始め世界中で追悼式典が行われているようです。

ルワンダ地図(作成/筆者)
ルワンダ地図(作成/筆者)

わずか100日間で80万~100万人もの人が犠牲になった1994年のルワンダ・ジェノサイドは、世界中に大きな波紋を呼びました。

2004年、初のジェノサイド追悼式典

(撮影/筆者)(2004年)
(撮影/筆者)(2004年)

今から15年前の2004年4月7日、私は首都キガリ市にあるアマホロスタジアム(約3万人収容)のグラウンドにいました。見渡す限りの空は快晴、降り注ぐ日差しが痛いほどでした。

1994年のルワンダ・ジェノサイド(民族抹殺)から10年という節目を迎え、その日アマホロスタジアムでは、初めての大規模な式典「ジェノサイド追悼10周年式典」が行われることになっていたのです。

ルワンダ政府も相当力を入れていました。世界中から集まったメディアに向け、ジェノサイドの悲劇を保存する「キガリ虐殺記念館」を同じく4月7日にオープンするとアピールし、式典にも多くの要人をアフリカ内外から招いていました。

2004年4月7日にオープンしたキガリ虐殺記念館(撮影/筆者)(2004年)
2004年4月7日にオープンしたキガリ虐殺記念館(撮影/筆者)(2004年)

会場のアマホロスタジアムは式典開始1時間前にはすでに満員。イスに座れず立っている参加者も大勢いるほどでした。我々ジャーナリストはグラウンド内に設けられた取材スペースに陣取り、その観客の姿を撮影するなどして、思い思いに式典が始まるのを待っていました。

マーチングバンド(撮影/筆者)(2004年)
マーチングバンド(撮影/筆者)(2004年)

マーチングバンドが厳かな曲を奏で、紫色(ルワンダで喪に服す色)の民族衣装をまとった女性たちが粛々と踊りながら貴賓席の前を通り過ぎ、式典は1時間ほど遅れて始まりました。その後、黙祷が行われ、来賓である海外の要人たちによるスピーチと続きました。

そしていよいよ、ルワンダの大統領であるカガメ氏のスピーチが始まると、スタジアム全体をなんともいえない重苦しい雰囲気が覆いました。強い日差しの下、数万人がいるとは思えないほど観客席は静まりかえり、カガメ大統領のスピーチに全員が耳をそばだてていました。

スピーチをするカガメ大統領(撮影/筆者)(2004年)
スピーチをするカガメ大統領(撮影/筆者)(2004年)

と、突如その静寂を破る女性の悲鳴が観客席の数カ所から聞こえてきました。カガメ大統領のスピーチを聞いて、ジェノサイドの体験がフラッシュバックしてしまった女性たちです。悲鳴を上げながら突っ伏したり泣き叫んだりする彼女たちは、次々と警備員に抱えられ、事前に準備されていたスタジアム内の救護室へと運ばれていきます。

しかし比較的冷静に私は対応できました。なぜなら式典が始まる前に、そういう演出があるかもしれないと、取材スペースで話題になっていたからです。

客席から新たな女性の悲鳴が聞こえたので、その方向に望遠レンズを向けました。すると青いパラソルの下に座る女性が隣の女性の胸に顔を埋め、しゃくりあげています。でも周囲に座る人々は、その女性を気遣っている素振りはありません。

「やっぱり演出なのかな~」と訝りながら、その女性の周囲も望遠レンズで見てみました。すると数名の男性が、苦しそうに頭を抱え込んだり手で顔を覆ったりしている姿がありました。さらに数カ所確認しても、同じように頭を抱え込んでいる老若男女がいます。

式典中の観客席(撮影/筆者)(2004年)
式典中の観客席(撮影/筆者)(2004年)

救護室に運ばれた女性たちが演出だったのかは、結局分かりませんでした。しかし、10年という時が経っても、フラッシュバックで苦しんでいる人がいることは紛れもない真実でした。

実はこのとき、観客席を望遠レンズで撮影しながら、私はとても憤慨していました。その理由は、取材スペースで業界最大手メディアのクルーたちが、寝転んで片肘をついた体勢で談笑していたからです。取材スペースは貴賓席の目の前。つまりスピーチをしているカガメ大統領の目の前です。

確かに、カガメ大統領のスピーチだけは、自国の国民に語りかけるために、唯一、ルワンダの国語であるキニアルワンダ語で行われていました。正直なところ、私も何を話しているのか、全く理解できていませんでした。しかし、国を挙げて行われる初の追悼式典で、その国の大統領が母国語を使って自国民に語りかける言葉は、大切なメッセージであることが明白です。

年端のいかない子どもならまだしも、業界最大手のクルーたちがそんな分かりきったことをイメージできないはずもなく……。

かくいう私も、「もしスピーチしているのが欧米の大統領でも、あなたたちは同じ態度が取れるんですか?」と心の中で詰問しつつ、反論されるのが恐くて言葉にできませんでした。

後々、このときの事を思い出し、ルワンダでジェノサイドが発生しているとき、世界が手を差し伸べなかった原因の一つが分かった気がしました。

100万人の難民帰還

ルワンダとタンザニアの国境にかかるルスモ橋(撮影/筆者)(1996年)
ルワンダとタンザニアの国境にかかるルスモ橋(撮影/筆者)(1996年)

1996年12月、2度目となるルワンダ訪問では、偶然大量難民帰還を取材することができました。1994年4月にジェノサイドが発生してから戦争終結宣言が出された同年7月までに、200万人以上もの難民が隣国のザイール(現コンゴ民主共和国:本記事内では当時の国名ザイールと表記します)、タンザニア、ウガンダ、ブルンジに逃れました。

なかでもザイールのゴマは、自衛隊が派遣されたりコレラが発生し大量の難民が死亡したりしたため、日本のメデイアでも度々取り上げられていたので、耳にしたことがある方もいるかもしれません。またゴマの難民の中には、ジェノサイドに深く関与したとされるインタラハムエという武装組織や民兵も紛れ込んでいたため、当時国連高等難民弁務官だった緒方貞子氏もその対応にかなり頭を痛めてらしたようです。

2年後の1996年、今度は人の流れが逆流します。11月にザイールから40~70万人、12月にタンザニアから50万人を超える難民がルワンダに戻ってきました。いずれも難民たちが自主的に戻ってきたわけではなく、ザイール・タンザニアの両政府により半ば強制的に帰国させられたのです。

ルスモ橋を渡り帰還する難民たち(撮影/筆者)(1996年)
ルスモ橋を渡り帰還する難民たち(撮影/筆者)(1996年)

1996年12月15日、私はタンザニアとの国境を流れる、カゲラ川にかかるルスモ橋にいました。ただそこまで自分の力で来られたわけではなく、大先輩のビデオジャーナリストOさんのご厚意に甘え、連れてきてもらったのです。

日本からルワンダに向かう飛行機で偶然一緒になったOさんは、ほぼ初対面であったにもかかわらずルワンダ到着後も何かと面倒を見てくれました。そして、タンザニアから難民が帰還するという情報を手に入れると声をかけてくれ、車代やガソリン代もすべてご自身で支払い、無償で私を同行させてくれたのです。

Oさんからは、本当に多くの事を学びました。フリーランスと名乗っていたものの、取材のイロハを学んだ事もなく、完全に独学で取材のまねごとをしていた私に、最も貴重な最前線を取材する姿を惜しげもなく見せてくれたのです。許可を取るためのノウハウ、検問での交渉方法、ドライバーとの契約。TwitterもYouTubeも存在しない時代、第一線で活躍する人と対話しながら、目の前で学べるなんて、まずあり得ないことでした。

難民を待つメディアと援助機関関係者(撮影/筆者)(1996年)
難民を待つメディアと援助機関関係者(撮影/筆者)(1996年)

ルスモ橋のたもとには各国のメディアが多数集まり、難民の到着を今か今かと待っていました。ルワンダとタンザニアの間の窪地にあるルスモ橋からは、うねうねと曲がりくねったタンザニア側の丘を歩いてくる難民たちの姿がよく見えます。正午過ぎ、いよいよ第一陣が戻ってきました。

みんな家財道具のすべてを持って、歩いてきます。つまり手に持っているものがその人の全財産なのです。中には荷物を満載した自転車を押している人や、家財道具だけでなく数頭のヤギを連れている人もいました。片や、マットレス一枚の人もいます。難民と一口にいっても、そこには経済格差があることを初めて知りました。

トランジットキャンプでは日本の乾パンが配られていた(撮影/筆者)(1996年)
トランジットキャンプでは日本の乾パンが配られていた(撮影/筆者)(1996年)

印象的だったのは、多くの母親が子どもとはぐれないように、自らの腕と子どもの腕を麻紐で繋いでいることでした。その理由は、武装組織に襲われるなど何らかの理由でパニックが発生すると、手を握っている程度では引き離されてしまうからです。実際にルワンダ以外でも、難民となる際に家族とはぐれ孤児となる子どもたちが問題視されています。

はぐれないよう麻紐で母親と繋がれた子ども(撮影/筆者)(1996年)
はぐれないよう麻紐で母親と繋がれた子ども(撮影/筆者)(1996年)

夕方になると、難民を満載したトラックやバスなどの大型車両も到着し始めました。ただ不思議なことに、乗っているのはみんな壮健な若い男性ばかりです。後々知ったのですが、大型車両は、高齢者や子ども・病人など体力がない人たちのために、国連難民高等弁務官事務所が用意したものでした。

ところが、いざ大型車両が難民キャンプに到着すると、最も体力がある若い男性たちが我先に乗り込もうと殺到し、現場が大混乱に陥ったそうです。限られた人員では、とてもコントロールできる状況ではなかったため、やむを得ずそのまま出発したとのことでした。

大型車両に乗って帰還する人々(撮影/筆者)(1996年)
大型車両に乗って帰還する人々(撮影/筆者)(1996年)

50台以上の大型車両が通り過ぎた頃には太陽も大きく傾き、写真撮影が難しい時間になってきました。しかし戻ってくる難民の行列は全く絶えません。ただ年配の女性や幼い子ども連れの家族が中心になってきました。

難民たちは、最も近い難民キャンプで暮らしていたとしても、ルスモ橋まで20キロメートル以上歩く必要があります。さらにルスモ橋からは、坂道を上ってトランジットキャンプ(一時収容所)まで20キロメートル近く歩かなければなりません。

しかし苦情を言ったり、車に乗せろとせがんだりする人は誰一人としていませんでした。むしろ、この日ルワンダ政府から出された通達――道路の片側は難民の移動用、反対側は援助機関やメディアの移動用――に忠実に従い、夜になっても、黙々と車線の片側を1列か2列で歩き続けていました。

夜になっても歩き続ける難民たち(撮影/筆者)(1996年)
夜になっても歩き続ける難民たち(撮影/筆者)(1996年)

3人の友人を殺した少女の選択

帰還する難民たちを見張るルワンダ軍兵士(撮影/筆者)(1996年)
帰還する難民たちを見張るルワンダ軍兵士(撮影/筆者)(1996年)

ザイールとタンザニアから大量の難民が帰還した後、次々とジェノサイド容疑者が収監されました。その数は増え続け、1998年には13万5千人に達します(World Prison Brief)。ジェノサイド発生前のルワンダの人口は700万人程度。人口の2パーセント弱が収監されることを想定して作られているわけもなく、刑務所内の環境は世界中から非難されるほど劣悪でした。(※)

(※ 世界一刑務所人口が多いアメリカでさえ、0.65パーセント/World Prison Brief 2014)

特にこの世の地獄と呼ばれたギタラマ刑務所には500人の定員に対し約6000人が収監され、「容疑者たちは立ったまま寝ている」だの「一部が水没していて、そこにいる容疑者たちの足は生きたまま腐っていっている」だの、恐ろしい噂が流れていました。

また裁判を進めるうえで重要な弁護士も、1994年のジェノサイドでその社会的地位の高さから重要なターゲットとして狙われたため、1996年にはルワンダ国内に44人しかいませんでした。さらに、いざ裁判を始めようとすると、容疑者たちの弁護を引き受けたのは44人中わずか3人。しかもそのうちの一人が、1997年1月に行方不明になってしまいます。

「13万5千人の容疑者に対し弁護士は2人」という状況に、すべての裁判が終わるまで数十年かかるのではないかといわれていました。

2003年、ある一人の女性容疑者にインタビューをさせてもらいました。看守によると、彼女は15歳の時に、3人の友人を簀巻きにして川に突き落とし、殺害したということでした。

ジェノサイドの最中とはいえ、友人を簀巻きにして溺死させるなんて、15歳という若さであまり思いつく発想ではありません。「ひょっとすると、ジェノサイドで精神を病んでしまっていたのかもしれない」と、インタビュー前から勝手なイメージを作っていました。

面会室に入ってきた彼女の表情と態度をみて、それは確信に変わりました。初ルワンダ時に空港で出会った兵士同様、完全に目が据わっているうえ、看守が強く注意するほど非常に高圧的な態度なのです。「見知らぬ外国人の好奇心を満たすため、なんで私が協力しなきゃいけないの」と不快に思うのは当然だとしても、その態度は少し度を超えていました。

「私はもう釈放されるから、犯罪者扱いしないで」。

それが彼女の第一声でした。確かにそれは事実で、ちょうどその頃、容疑者が多すぎて裁判が全く進まないため、通常の司法ではなく「ガチャチャ」と呼ばれるルワンダの伝統的な司法が近々開始されることになっていたのです。

当時、ジェノサイドを先頭に立って扇動したとされる重要人物は、国連によりタンザニアのアルーシャに設立された「ルワンダ国際法廷(ICTR)(1994~2014年)」へ。以下の4つのカテゴリーに関係した容疑がある者はルワンダ国内に収監、とされていました。

カテゴリー1 計画・扇動・組織化などによりジェノサイドに深く関与したもの

カテゴリー2 大量殺人やカテゴリー1の共犯者

カテゴリー3 虐殺に実際に加担し人を殺害した者

カテゴリー4 殺人は犯していないものの他人の財産などを奪った者

また「カテゴリー3と4の容疑者は、6年の懲役とする」とも伝えられていたため、「ガチャチャ」が始まれば、確かにすでに9年間服役している彼女は、釈放される可能性が高いのです。

ガチャチャ裁判(撮影/筆者)(2005年)
ガチャチャ裁判(撮影/筆者)(2005年)

とはいえ、「友人3人を殺したことに対する良心の呵責はないのか?」「なぜ、そこまで強気な言動をとるのか?」と疑問に思い、質問を重ねました。その結果、ジェノサイドの闇をまた知ることになりました。

彼女が友人3人を殺したのは事実でした。ただし「匿っていた友人3人を、殺人者たちに選択肢を奪われた状況下、その手で殺した」というのが正しい表現になります

殺人者たちと同じ民族であることを示すIDカードを持っていた彼女は、ジェノサイドの標的になっていた民族のIDカードを持つ友だち3人を、危険を承知で自宅に匿っていたそうです。しかしすぐに殺人者たちに見つかってしまいます。そして殺人者たちから、当時15歳の彼女に、選択肢が突きつけられました。

「おまえが俺たち側の人間なのか、それとも裏切り者なのか、証明するチャンスをやろう。こいつら3人をお前自身の手で川に放り込めば、俺たち側の人間として今回だけは大目に見てやろう。だが、もしできないなら、お前は裏切り者だ。この3人と一緒に殺す。もっとも、お前が殺せなくても俺たちが殺すから、こいつら3人は100パーセント死ぬんだけどな。さあ、おまえはどっちを選ぶ?」。

インタビュー終盤になると、相づちを打つことも、彼女の目を真っ直ぐ見ることもできなくなっていました。

「そろそろ時間だから、写真が必要なら早く撮って!」という看守の声に促され、重い気持ちで覗いたファインダーの向こうには、面会室に入ってきた時と同じ目で私を睨みつける彼女がいました。

インタビューに答えてくれた女性(撮影/筆者)(2003年)
インタビューに答えてくれた女性(撮影/筆者)(2003年)

席を立つと、背中に彼女の怒声が飛んできました。

「あなた私の話を聞いたわよね。私がしたことは罪なの?何が正しい選択だったの?ねえ教えてよ!」。

あれから14年。まだ、彼女への返答を見つけられていません。

(後編に続く)

フリージャーナリスト

1992年に初めてアフリカを訪問し、「目を覆いたくなる残酷さ」と「無尽蔵な包容力」が同居する不思議な世界の虜となる。現在は、長期テーマとして「ルワンダ(1995~)」・「子ども兵士問題(2000年~)」・「ソマリア(2002年~)」を継続取材中。主に記事執筆や講演などを通し、内戦や飢饉などのネガティブな話題だけではなくアフリカが持つ数多くの魅力や可能性を伝え、一人でも多くの人にアフリカへの親しみと関心を持ってもらう事を目標に活動している。 

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