Yahoo!ニュース

ジェノサイドから25年、ルワンダを振り返る(前編)

下村靖樹フリージャーナリスト
キガリ虐殺記念館に展示されている犠牲者の写真(撮影/筆者)(2004年)

25年前の今日、1994年4月6日。アフリカ大陸中部に位置するルワンダ共和国で大統領が暗殺されました。同国キガリ国際空港に着陸する直前に何者かに撃墜されたのです。そして時を同じくして、「千の丘の国」と呼ばれたルワンダを血で染めるジェノサイド(民族抹殺)が始まりました。

ルワンダ地図(作成/筆者)
ルワンダ地図(作成/筆者)

80万~100万人が犠牲になったその悲劇は、映画「ホテル・ルワンダ」をはじめ様々な形で語り継がれるとともに、「なぜ国際社会は防げなかったのか?」という課題も投げかけています。

ルワンダの首都キガリ(撮影/筆者)(2018年)
ルワンダの首都キガリ(撮影/筆者)(2018年)

一方、終戦から四半世紀が過ぎた現在のルワンダは、2010年以降7~8%の実質経済成長率を示し、「アフリカの奇跡」と呼ばれる復興を遂げています。旅行でルワンダを訪問した人はみんな、まずゴミ一つ落ちていない道の美しさに驚き、モダンなビルが建ち並ぶ首都キガリ市の中心部を見て、さらに驚きます。

隣国のアフリカ人がうらやましがるほど官憲の腐敗も少なく、多くの人の記憶に刷り込まれている凄惨なジェノサイドの面影など、町中にはありません。

キガリにあるレストラン(撮影/筆者)(2018年)
キガリにあるレストラン(撮影/筆者)(2018年)

「アフリカで一番安全に旅行できる国はどこですか?」と聞かれれば、私は「ルワンダです」と自信を持って即答します。そして、そう答えられることが、誇らしくもあります。なぜならルワンダは私の人生を変えた国であり、第二の故郷でもあるからです。

初めてルワンダの地を踏んだのは、1995年12月でした。わずか1ヶ月ほどの滞在でしたが、その濃密な時間は自己喪失を伴う強烈な経験となり、以降ほぼ毎年ルワンダに通い続けるきっかけになりました。

過去21度の訪問では、大量難民帰還、収監中のジェノサイド容疑者へのインタビュー、ジェノサイド10年追悼式典などを取材してきました。そして、これからもルワンダを取材し続けます。

ジェノサイドが四半世紀前の出来事となった今、改めて私にとってのルワンダを振り返ります。

ルワンダとの出会い

キガリ中心部遠景(撮影/筆者)(1995年)
キガリ中心部遠景(撮影/筆者)(1995年)

ルワンダで内戦が発生したのを知ったのは、アルバイト先で賄いを食べている時に見たテレビのニュースでした。「アフリカのルワンダで大統領が乗った飛行機が墜落しました。同国内では暴動が発生し多くの死傷者がでている模様です」と抑揚のない声で伝える男性アナウンサー。そして撃墜された飛行機の側で警戒にあたる兵士の映像。

「これは大変なことになるよ」と、同じテーブルに座っていた友人たちに、したり顔で語った記憶が今も鮮明に残っています。

当時23歳だった私は戦場カメラマンに憧れ、フォトジャーナリストと名乗っていました。しかしその実態は、取材という名目でエチオピア、モロッコに行った経験はあったものの、実力不足で取材らしい取材など全くできず、雑誌や新聞に記事を掲載してもらうことなど夢のまた夢という、ただのフリーターでした。

そんな私がルワンダに行こうと思い立ったのは、ルワンダ内戦が終結した翌年1995年春のことでした。「国際NGOに所属する日本人女性看護師Tさんが、内戦のあったルワンダで活動している」と書かれた雑誌の記事を目にして、「あれだけ酷い内戦があったルワンダであれば、インパクトのある写真が撮れるはず。そこに日本人が絡めば、どこかの雑誌で記事にしてくれるのではないか?」という浅はかな考えがきっかけでした。

恐ろしいけど不思議な国

銃弾の痕が残る家(撮影/筆者)(1995年)
銃弾の痕が残る家(撮影/筆者)(1995年)

1995年12月、ルワンダの首都キガリにあるキガリ国際空港に到着すると、滑走路に駐機しているのは白い機体に黒い文字で「UN」と書かれている巨大な機体ばかり。「ついに準紛争地に来た」とテンションが上がりました。

しかし薄暗いターミナルビルに一歩足を踏み入れると、一転して不安を覚えました。迫撃砲が直撃したのか天井には黒く焼けただれた大きな穴。壁には数え切れないほどの銃痕。特に自動小銃を肩にかけた空港警備の兵士たちが放つ威圧感は圧倒的で、目が合っただけで背筋を冷たい物が流れました。

なんとか無事に入国をすませ、約9キロメートル離れた町の中心部にタクシーで向かう道中も、激烈な戦闘の痕をそのまま残す半壊した国会議事堂や、銃痕だらけの道路標識など、不安と恐怖心を煽る光景が続いていました。内戦終結から1年以上経っているにもかかわらず、復興の兆しがまったく見えず、到着早々ルワンダに来たことを後悔しはじめました。

ところが、中心部に近いラウンドアバウト(環状交差点)に差し掛かった時、意外なものを目にしたのです。突然タクシーが停車したかと思うと、半袖・半ズボンで必死に走る人々が目の前を通り過ぎていきました。ドライバーに何事か尋ねると、その人たちはマラソンランナーだとのこと。タクシーが停車したのは目の前の通りがマラソン大会のコースになっていたからだったのです。

「空港も町中も内戦の傷跡だらけなのにマラソン大会だなんて。なんか不思議な国だな~」。それがルワンダの第一印象でした。

取材プランの崩壊

庶民の台所だったキガリマーケット(撮影/筆者)(1995年)
庶民の台所だったキガリマーケット(撮影/筆者)(1995年)

インターネットが普及していなかった時代、組織に属さない立場で初めてマイナーな国を訪問する際、得られる事前情報はほぼ皆無でした。もちろん携帯電話も電子メールもないため、海外にいる相手と約束を取り付けるのは一苦労です。

そのためルワンダ取材に先立ち、Tさんが所属する国際NGOの日本事務所に調整をしてもらい、ルワンダ到着後は同NGOのルワンダ事務所が対応してくれることになっていました。

ところが、到着翌日そのルワンダ事務所の担当者を訪ねると「彼女はすでに任期が終了し、ギセニ(首都キガリから160キロメートル離れたルワンダ北西部の町)で帰国準備中だから取材は受けられない」と言うのです。私は混乱しました。「少なくとも1996年の2月までは確実にルワンダにいる」と日本事務所からは聞いていたのです。

そんなはずはないと訴えても、回答は変わりません。到着早々取材プランがくずれ落ち、頭が真っ白になりました。

その姿を哀れに思ったのか、「取材は受けられないけど、ギセニまで行けばTさんに会うことはできる。ちょうど明日ギセニに行く車があるので同乗しますか?」と担当者が提案してくれました。もちろん私は二つ返事で飛びつきました。

ギセニから望むカリシンビ山(4507メートル)(撮影/筆者)(1995年)
ギセニから望むカリシンビ山(4507メートル)(撮影/筆者)(1995年)

その後わずか数日間でしたが、Tさんと行動を共にさせてもらい、様々な話を聞かせてもらいました。看護師であるTさんが目にしてきた光景の数々、運び込まれてきた患者から聞いた話、そのどれもが耳を塞ぎたくなるほど残酷で残忍な話ばかりでした。私はジェノサイドに加担した人間たちに対し、強い憤りを覚えました。

Tさんは帰国前に、私がルワンダ取材をできるようにと、キガリ市内で活動していた日本のNGOを紹介してくれました。バングラデシュ人コーディネーター、ネパール人医師、日本人看護師のチームで活動していたそのNGOはとても寛大で、どこの誰とも分からない私を居候として受け入れてくれました。

約1ヶ月間の居候生活中、診療所での診察活動や物資の調達など様々な活動を取材させてもらいました。クリスマスプレゼントを診療所の子ども達に配ったり、1996年の元旦を迎えた瞬間に市内各地で一斉に鳴り響いた祝砲(※)の爆音に驚いたり、貴重な経験の数々でした。

(※空砲ではなく実弾の入った自動小銃や迫撃砲が使用されるため、外出禁止令が出ていました)

凄惨なジェノサイドの現場

ニャルブエ教会(撮影/筆者)(1995年)
ニャルブエ教会(撮影/筆者)(1995年)

年が明けた1996年1月4日。居候先とは別の日本のNGOの方々の計らいで、1994年のジェノサイドで約2万人が殺害されたルワンダ南東部のニャルブエ地区(首都キガリから約140キロメートル)にあるニャルブエ教会に連れて行ってもらえることになりました。

伝え聞くところによると同教会は当時の状態で残されているとのこと。人が死んでいる姿など葬儀の場でしか見たことなかった私は、「2万人の死体」をまったくイメージできませんでした。

出発前日の夜はいつもより早くベッドに入ったものの寝付けず――2万体の死体が発する死臭に嘔吐してしまうのではないか? 残酷な現場に耐えきれず、一枚も写真を撮れないのではないか? トラウマになってご飯を食べられなくなるのではないか? ――と、自ら望んで行くにもかかわらず、未知の現場に対する不安ばかり考えていました。

ニャルブエ教会内部(撮影/筆者)(1995年)
ニャルブエ教会内部(撮影/筆者)(1995年)

翌朝、太陽が昇るのを待って首都キガリを出発(反政府ゲリラの侵入を防ぐため、夜間から6時までキガリ市への出入りは禁止されていた)。3時間ほどで、ニャルブエ郡に到着しました。

どんよりとした空の下、小さな丘の上にあるニャルブエ教会に続く道沿いは、背の低い木々や草が生い茂っているものの普通に人々が生活していました。教会前の50メートル四方の敷地もきれいに整地され、ジェノサイドの気配はどこにもありません。

正直拍子抜けすると同時に、ほっとしました。前夜最も不安を覚えていた、写真や映像からは情報を得られない匂い、つまり死臭がまったくしなかったからです。

緊張から解き放たれ、教会の前で合流したガイドの男性と挨拶をすませると、バッグから取り出したカメラにレンズを取り付け、撮影準備を整えました。目の前にそびえる聖堂は立ち入り禁止らしく、ガイドは聖堂の横にある小さな扉をくぐると後に続くよう手招きをします。

所々雑草が生い茂る中庭を20メートルほど進むと、ドアや窓が破壊された部屋がいくつか並んでいました。壁にも所々穴が空いていて、がれきがそこかしこに転がっています。その一室をのぞき込むと、うずたかく無造作に積み上げられたなにか――。

それがもう二度と動かない人間の体だと認識できるまで数秒。気づいてから、さらに数秒。私の思考は完全に停止しました。

ニャルブエ教会の一室(撮影/筆者)(1995年)
ニャルブエ教会の一室(撮影/筆者)(1995年)

その空間は1994年4月から時間が動いていませんでした。標高が2千メートル近いため白骨化せずミイラ化した死体は、恐怖におののく被害者たちが加害者に襲いかかられた最期の瞬間を留めていたのです。

我に返った私が取った行動は、カメラを構えることでした。目の前の死体をいかに効果的にフレームの中に配置するか。どの死体が、より惨い殺され方をしているか。残酷さと異常さをいかに強調するかだけを考え、一心不乱にシャッターを切りました。

そして新たな被写体を求め隣の部屋に移動し、レンズを変え、フィルムを変え、また部屋を移動し、レンズを変え、フィルムを変え――。

集団墓地に並ぶ十字架(撮影/筆者)(1995年)
集団墓地に並ぶ十字架(撮影/筆者)(1995年)

時間にすれば1時間ほどだったと思います。最後に教会の横に作られた集団墓地の十字架を撮り、「これだけインパクトがある写真なら、どこかの出版社が買ってくれるはず!」という充実感とともに帰路につきました。

知らない自分との出会い

キガリ近郊の民家とバナナ畑(撮影/筆者)(1995年)
キガリ近郊の民家とバナナ畑(撮影/筆者)(1995年)

夕刻、キガリに戻ると居候先のNGOの方々が夕食の準備をして待っていてくれました。つい数時間前まで生きていたニワトリの肉はジューシーで自然と食が進み、冷えたビールは疲れた体に染み渡ります。

興奮冷めやらぬ私は、「あんな残酷な行為を同じ人間がしたなんて信じられない」などと、ビールとチキン片手に見聞したことを神妙な面持ちで語りました。

一通り話し終えると、高揚感と疲れにアルコールが加わったからか強い睡魔に襲われ、ベッドに倒れ込みました。その場で確認できるデジタルカメラとは違い、当時使っていたのはフィルムカメラ。日本に帰国してフィルムを現像するまでどんな写真が撮れているのか分かりません。

まぶたの裏に浮かんだのは、シャッターを切った瞬間に「これは絵になる写真だ」と感じた、血を吸いどす黒く変色した壁の前で横たわる服を着たままのミイラ、乾ききった筋肉の繊維が苦悶の表情を保ったままの頭。他にも数枚、自分の中でベストショットだと思う映像が浮かびました。

そして撮影した写真と記事が掲載されているページを思い浮かべ、「今日は最高の写真が何枚も撮れた」とにんまりし、再び高揚感に包まれうつらうつらしはじめました。

 

恐らく夢を見ていたのでしょう。暗闇の中、笑みを浮かべて死体の山にカメラを向ける自分の姿が浮かんだかと思うと、「カシャン、カシャン」とカメラのシャッター音が大音量で鳴り響きました。眠気が吹き飛び目を開けた私は、昨夜この同じベッドの中で考えていたことを思い出しました。

その瞬間までは、弱者の味方として世の不正を暴き伝えるフォトジャーナリストになりたい、なれるはずだと思っていました。ところが自身の心が耐えられないかもと不安を覚えていたストレスの数々を見事に忘れ、嬉々として死体の写真を撮り、充実感に満たされて鶏肉に食らいつきお酒を飲む。

知らない自分がそこにいました。

せめて罪悪感に苛まれるか、自己否定でも自分への言い訳でもできればまだ救われていたかもしれません。しかし「ああ、自分は自分が思っていたほど善良でもなければ人の痛みが分かる人間でもなかったんだ」と、前日までの自分が幻想に過ぎなかったことを淡々と受け入れたのです。

しかしその一方、カメラを構えた時に生まれた自分の狂気には恐怖を覚えました。

目の前の光景を四角いファインダーの中に収めた瞬間、自分がその空間から切り離された感覚になり、現実味が消えてしまうのです。ニャルブエ教会でガイドをしてくれた男性は、自身の家族もニャルブエ教会で殺されたと語っていました。

加害者たちが使用した鍬(撮影/筆者)(1995年)
加害者たちが使用した鍬(撮影/筆者)(1995年)

彼の目に映る撮影中の私の姿は、間違いなくセカンドジェノサイドの当事者だったでしょう。

「神なんていないのさ、くそったれが……」感情を見せず淡々と案内してくれていた彼が、教会を出るときに吐き捨てた言葉の真意にやっと気づき、私の中からフォトジャーナリストになりたいという思いが消えました。

赦しを求めて

診療所で順番を待つ人々(撮影/筆者)(1995年)
診療所で順番を待つ人々(撮影/筆者)(1995年)

その後、さらに一週間ほど、ルワンダでの居候生活が続きました。NGOの方々が働く診療所で診察を受けに来た母子と触れ合ったり、当時ルワンダにいた日本人たちと交流させてもらったり、様々な出会いがありました。

しかしルワンダを去る日になっても、これから自分が何をすればよいのか、何をすべきなのか、考えても考えても一向に思い浮かびません。私の乗った機体がキガリ国際空港の滑走路から離れた時には、ついに「これでルワンダの呪縛から逃げられる」とすら思いました。

飛行機の窓から流れるルワンダ独特の景色――どこまでも連なる濃い緑の灌木に覆われた小高い丘――に目をやっていると、ニャルブエ教会に行く前日に一人の少女と交わした約束を思い出しました。

彼女の名前はハワ。ジェノサイドで両親を失った孤児でした。幸い親戚に引き取ってもらえたもののその家庭の生活も苦しく、自分たちの子どもに食料を与えるだけで精一杯……。栄養失調になっていたハワは、1995年12月半ばに危険な状態に陥り、急遽診療所に運び込まれました。

その日、被写体を求め診療所内を歩き回っていた私を呼び止めたのは、ハワに付き添っていたルワンダ人看護師でした。「この子が、自分の写真を撮って欲しいらしいの」と言うと、抱きかかえていたハワを地面に下ろしました。

ハワ(撮影/筆者)(1995年)
ハワ(撮影/筆者)(1995年)

毛玉だらけの黄色いセーターに薄いスカイブルーのスカートをまとったハワは、カメラを向けると、むくんだ足を引きずりながらもポーズをとってくれます。でも腫れ上がった右目が痛々しく、私は10枚ほど撮るとお礼を言って立ち去ろうとしました。

すると再びハワを抱きかかえた看護師に呼び止められ、「この子が今撮った写真が欲しいと言ってるんだけど、どう答えればよい?」と問われたのです。一瞬戸惑ったものの、看護師の腕の中こちらをジッと見つめるハワを見て、「来年また来るから、その時今日撮った写真を渡すね」と笑顔で私は答えました。頭の中に浮かんだ「次がいつになるかは分からないけど」という言葉を隠したままで……。

ニャルブエ教会の取材で気づいた醜悪な自分。すんなりと受け入れられたつもりになっていましたが、恐らく自己喪失だったのでしょう。心の奥底で誰かに「あなたはそんな人じゃない」と言ってもらいたかった私は、無意識のうちにハワと交わした約束にその救いと赦しを求めました。

ルワンダの景色(撮影/筆者)(1995年)
ルワンダの景色(撮影/筆者)(1995年)

「ハワとの約束を守るため、来年またルワンダに来る」。

次第に小さくなる「千の丘の国」を見つめながらそう心に誓い、私の初ルワンダは幕を閉じました。

中編に続く

フリージャーナリスト

1992年に初めてアフリカを訪問し、「目を覆いたくなる残酷さ」と「無尽蔵な包容力」が同居する不思議な世界の虜となる。現在は、長期テーマとして「ルワンダ(1995~)」・「子ども兵士問題(2000年~)」・「ソマリア(2002年~)」を継続取材中。主に記事執筆や講演などを通し、内戦や飢饉などのネガティブな話題だけではなくアフリカが持つ数多くの魅力や可能性を伝え、一人でも多くの人にアフリカへの親しみと関心を持ってもらう事を目標に活動している。 

下村靖樹の最近の記事