【新体操】世界選手権で金メダル獲得の快挙!~フェアリージャパンPOLA今昔物語<1> 

世界選手権の表彰後、弾ける笑顔を見せるフェアリージャパンPOLAのメンバーたち(写真:アフロ)

新体操日本代表チーム・フェアリージャパンPOLAが昨日、世界選手権が行われたアゼルバイジャンから帰国した。

成田空港で帰国会見が行われ、その様子はテレビや新聞などで報じられたが、新体操で成田空港での帰国会見が行われたのは今回が初めてではないか? 

そのくらい、長きにわたって、新体操は日本では決してメジャーな競技ではなかった。

世界でのメダル獲得を期待されるような競技でもなかった。

新体操は、1984年のロスアンゼルス五輪から五輪種目になった。当初は個人競技のみの実施だったが、日本からも84年のロス五輪から、2004年のアテネ五輪までは、6大会連続で出場している。(現在の強化本部長・山崎浩子氏は、84年のロス五輪に出場)

団体競技が採用されたのは、1996年のアトランタ五輪(初代五輪での優勝はスペイン)からだが、当時から日本にとっては団体のほうが世界と勝負できると期待されていた。

シドニー五輪前年の1999年には日本で世界選手権が行われ、日本チームは団体総合4位となり、「シドニー五輪ではメダル獲得を!」と期待を集めていた。

が、シドニー五輪では、日本は素晴らしい演技を披露したものの、団体総合5位に終わり、その後、さらなる強化策として「選抜団体方式」に本格的に取り組むことになった。

国内予選を勝ち抜いたチーム(大学のチーム)を中心としたチームではなく、全国から集めた有望選手によって選抜団体を組み、世界と戦えるようにしようとしたのだ。

しかし、決して順風満帆ではなかった。今のように強化費も潤沢ではなく、練習場所やレオタードにも事欠くようなこともある中で、2003年の世界選手権で惨敗し、2004年のアテネ五輪出場を逃す。

そこから、日本団体の再生に向けての「捨て身の強化策」がスタートしていく。

現在のフェアリージャパンPOLAのスタートは、おそらく2005年12月のオーディションによって選ばれたメンバーからと認識されることが多いと思うが、それを可能にしたのは、2005年の世界選手権(奇しくも今回と同じアゼルバイジャンで開催された)を戦った選抜チームだった。

2005世界選手権の団体<新体操WEBマガジン『新体操魂』より>
2005世界選手権の団体<新体操WEBマガジン『新体操魂』より>

山崎浩子氏が強化本部長になって最初に率いたのが、この2005年の選抜チームだが、このときのメンバーは当時の国内のトップ選手たちだった。2005年4月の世界選手権代表決定戦の結果を受けて、メンバーを確定し、そこからわずか半年の準備期間で世界選手権に出場。

準備期間には、国内の様々な大会で、エキシビション演技を披露していたが、ノーミス演技はほとんど見たことがなかった。当時の日本としてはトップレベルの選手たちだけに、5人そろってのジャンプターンなどは、「日本人でもここまでできるのか?」と感嘆させるものがあったが、いかんせん、団体としての練習時間確保には苦労していた。メンバーのほとんどが千葉と東京在住の高校生で、みな自宅から学校に通い、その後、練習場所に集まっていたが、練習が終わってから家に帰るのに2時間かかる、そんな選手もいたと聞いている。

その練習環境では、世界で戦うのは厳しいだろうと思われたが、個人選手としての能力の高さ、実戦経験の豊富さが功を奏し、このチームは、世界選手権本番で力を発揮し、種目別リボンで6位入賞している。

ここが最初の分かれ目だった。

もしもこのとき、このチームが惨敗していたら。

「選抜団体」という方法自体、見直さざるを得なかったかもしれない。

山崎体制も継続できなかったかもしれない。

しかし、わずか半年の準備期間でこのチームが入賞を果たしたことで、「首の皮一枚」でつながり、2008年北京五輪での五輪出場枠奪回に向けて、選抜団体方式による強化策が本格化する。

2006年に情報誌「R25」に掲載されたオーディションの記事
2006年に情報誌「R25」に掲載されたオーディションの記事

2005年12月28日。

選抜団体メンバー選抜のためのオーディションが行われたが、報道陣はほとんど居なかった。

そこが「フェアリージャパンPOLA」の本格的なスタートだった。

このオーディションでは、「年間を通しての合宿生活」ができるという覚悟が問われていた。

千葉県内に練習場所と住居を用意し、指導者もともに合宿生活を送りながら、新体操漬けの強化を行う。

当時としては思い切った強化策で、反発も少なからずあった。

選手が入りたいと望んでも、所属の指導者や保護者が反対する、ということもあったと聞く。

それでも、山崎本部長は信念を貫いた。

「世界と戦えるチームを育てるにはこれしかない。まずは練習時間を確保できないことには。」と。

このときのオーディションの参加者は30名だったが、それでも

「よくこれだけの選手が受けてくれたし、指導者や保護者も出してくれた。」と山崎本部長は感謝の言葉を述べていた。

そのくらい、周囲からの懐疑的な目の中でのスタートだったのだ。

あれから10年。

長いようで短い。

10年でここまでいけるとは思えなかった時期もあっただけに、

「よくぞここまで」と思わずにはいられない。

かつてなく、新体操に対する関心が高まっている現在、フェアリージャパンPOLAの軌跡を何回かに分けて振り返ってみたいと思う。