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伊藤詩織さん中傷ツイート訴訟 勝訴判決に寄せて

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
11月30日の裁判に関する写真に替えて「アフロ」から過去の写真を使用しています(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

11月30日、伊藤詩織さんが漫画家・はすみとしこさん他2名を名誉毀損で訴えていた裁判で、東京地裁は、伊藤さんの訴えを認める判決を出した。この勝訴については、各紙が報じている。

リツイートも「本人の発言」と認定 名誉毀損訴訟、伊藤詩織氏が勝訴 (朝日新聞デジタル11/30(火) 配信)

伊藤詩織さん中傷ツイート訴訟、漫画家らに賠償命令 東京地裁 (毎日新聞11/30(火) 配信)

問題となった「枕営業失敗」などの言葉は、人の社会的評価・信用を貶めるもので、名誉毀損に当たる。そこはまず争いのないところだろう。しかし、この裁判は、勝訴して当然というイージーケースではなく、いくつかの注目点があり、この勝訴には大きな社会的意義がある。

イラストによる名誉毀損

この件では、イラストの人物画が伊藤詩織さんを特定するものと認められるかどうかが一つの注目点だった。判決は、絵や文脈から本人を特定できる絵だと認めた。

考えてみれば、肖像権も、写真だけでなくイラストについても発生する。そこで判断の決め手となるのが本人特定性だ。ここから考えて、イラストでも、絵の特徴と文脈からして本人特定性が認められれば、名誉毀損は成立すると考えるべきで、この判断は支持できるものと言える。

ただ、「イラストでも名誉毀損が成立する」という一般論が、ゆるい方向に独り歩きしないでほしいとは思う。似顔絵風刺イラスト一般がこれによって萎縮することは望ましい方向ではない。このケースは、モデルを悪女そうに描いたからとか、滑稽なタッチで描いたからという理由でその「絵」が名誉毀損と判断されたのではなく、あくまでも、つけられた言葉が名誉毀損にあたると判断されたのだというところを確認しておきたい。イラストは、その名誉毀損発言が、原告本人を特定した発言であるということを示すものとして認められたのである。

風刺と公共性と真実性

もう1点、被告が「これは風刺画だ」と主張し、「伊藤さんの訴えが虚偽だと信じる相当の理由があると主張した」こと、これを裁判所が退けたことについても触れておきたい。

漫画家らに110万円賠償命令 伊藤詩織さんの名誉毀損 東京地裁 (時事通信11/30(火) 配信)

漫画家はすみとしこさんに88万円の賠償命令。伊藤詩織さん思わせるイラストを投稿(HuffPost Japan 11/30(火)配信)

ここで、被告が「伊藤さんの訴えが虚偽だと信じる相当の理由があると主張した」というくだりは、複雑なので説明しておきたい。

日本の法律では「風刺」というジャンルを特別扱いして保護する制度や法理はない。しかし、被告は、犯罪や裁判などの公共性のある話題について描いたものという意味で「風刺」という言葉を使ったことが報道から読み取れる。(後で判決文を入手できたら判決文で確認したい)。

この裁判は民事裁判なのだが、名誉毀損が成立するかどうかについては、刑法230条と230条の2の名誉毀損の条文を参照して判断する。それに沿うと、このイラストに付けられた言葉は、まずは230条によって名誉毀損に該当する。しかし、それが(犯罪や裁判など)公共の関心事にかかわる内容だったときには、それが真実だった場合には名誉毀損に問わない、というルールが230条の2にある。被告はそこを主張していた。

しかし裁判所は、原告(伊藤さん)の性被害告発をそのように決めつける根拠が十分だったとはいえないとして、被告の抗弁を退け、被告の投稿は名誉毀損の成立を免れない、と判断した。この点については、過去に、まだ有罪とは決まっていない被疑者ないし被告人の段階にある者を、十分な根拠なしに有罪と決めつけた報道が名誉毀損の成立を免れないと判断されたケースがある。ここからすると、被告の投稿内容も、名誉毀損を免れるほどの調査確認をしたものとは認められないと判断されるのは当然の流れだったといえる。

「大きな一歩」の意味

「大きな一歩だと考えています」伊藤詩織さんが中傷ツイート訴訟判決で涙 漫画家らに賠償命令〈AERA〉

この件は、ここまで述べてきた名誉毀損法制の理屈よりも、その社会的意義のほうが大きいと言えるだろう。

筆者はこの判決がでる2日前の11月28日、伊藤詩織さんの裁判を支える会からの依頼を受けて、「表現の自由」について解説するオンライン・レクチャーに登壇した。そこでも、この裁判の社会的意義は、勝敗にかかわらず計り知れないほど大きい、ということを力説した。

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その部分をかいつまんで繰り返すと、SNS上の誹謗中傷を扱う裁判は、まだ蓄積が少なく、この判決を含めて今、基礎固めをしているところと言える。その「はじめの一歩」を担っている人々のアクション(英語では訴訟のことも「アクション」という)には、大きな社会的価値がある。

裁判は、被害を受けた当人が原告となって提訴しなければ、始まらない。だから、誰かがつらい思いをした、という事実がなければ、それを克服するための法律ルールや裁判ルールの発展は見込めない。視野を大きくとれば、「人権」というものはすべて、それがなくて苦しんだ人々の歴史があったおかげでできあがってきた結晶のようなもので、伊藤さんは、SNSの言論環境問題についてそれに匹敵する作業の門戸を開いた人の一人だと言える。

日本では、とくに女性が屈辱的な扱いを受けたり、言葉や嘲笑による二次被害を受けたりしたとき、その被害を語りにくい、まして裁判を起こすことは非常につらいという心理的ハードルがある。

日本には「傷物」という、人間に対して使うべきではない不適切な言葉があるが、この言葉が表している感覚・価値観が今でも社会の底辺ではかなり根強く生きているため、傷つく経験をした女性は、低く見られること(価値低落)を恐れて、自分の被害を言葉にすることができないのである。このことは、イラストやリツイートで二次被害を与えた被告たちだけでなく、この種の問題を訴える人々を揶揄冷笑して満悦したがる社会全体の問題だと言えるだろう。

こうした文化的・精神的環境を変えていかないと、人生のどこかで傷を受けたことのある人々にとって、生きにくい社会、息苦しい社会が続いてしまう。

法律は、そこにあるだけでは絵に描いた餅にすぎず、使える環境があってはじめて、意味を持つものである。だから、「どうしたら、こういう問題が起きないようになるのか」、という問いに対しては、「法律をこのように改正してこのような罰則を設ければこのような出来事は二度と起きなくなります」と一言で言える処方箋は、ないのではないかと思う。少なくとも、筆者の乏しい知恵では、そうした処方箋を思いつくことができない。全員が発言しなくなる社会を作ればいい、という答えを選ぶことも筆者にはできない。それでもプロバイダ責任制限法の改正など、状況改善に向けて制度の検討が進んできていることは重要なことだ。ただ、法を取り巻く社会文化のほうに変化が起きないと、法律改正も焼け石に水になってしまう。たとえば、悪目立ちを恐れて沈黙してしまう、という人々はまだ大勢いるのではないか。そうした人々を大勢抱えた社会にとって、そこを変えるための初めの一歩として、この提訴と勝訴は、「大きな一歩」になるべきものである。

ディコトミー(二項対立)を超えて

このように、ネット上の誹謗中傷を放置すべきではない、ということを真剣に考えて提訴に踏み切った人々、声を上げるようになった人々の行動は、法を取り巻く社会文化にとっても大きな意義がある。

こうした社会文化に影響を与えるために発言することは、もちろん立派な「表現活動」である。

誹謗中傷問題と「表現の自由」とを単純な対立構図に置いて、こうした誹謗中傷を放置することが「表現の自由」を確保することだと考えている人は、今の法律家の中にはいないだろうと思う。むしろ、仮にこうした問題を考えるときに「表現の自由」とのバランスを視野に入れて議論をしよう、と述べる人を「誹謗中傷問題を理解せず放置する側の人々だ」と見る論調が出てきたら、それは誤りだと言わなくてはならない。

なぜなら、今述べたとおり、被害者の側にも「表現の自由」があり、その表現活動は社会に重要な影響を与えうるものである。そこに沈黙強制となる攻撃や、言論空間に参加できなくなるような社会的信用の貶めがあった場合には、こちらの「表現の自由」を守る必要が生じる。「表現の自由」を守る、という言葉は、誹謗中傷に苦しんで発言不能になっている人々が発言の自由を回復するためにも使われる言葉になってきている。今、法律家や研究者の中に、他人を傷つけ発言不能に追い込むことを楽しむ自由を擁護するためにこの言葉を持ち出す者はいないだろう。そうではなく、法改正や新たな判例法理などルールの変更や生成がある場合には、マクロな視点で《巻き込まれ規制》や《巻き込まれ萎縮》が起きないよう、調整的な目配りをしなくてはならない、という趣旨で「表現の自由」への配慮も、ということが言われている。このことを社会に理解してもらえればと思う。

一般私人がこれだけの発言力を持つようになった今では、「表現の自由」は、単に放置放任によって確保されるものと見ることはできなくなっており、「表現の自由」を確保するために適切な限界ルールの見定めが必要になっている。名誉毀損やプライバシーなどの「人格権」と呼ばれる権利群は、そこで重要な役割を果たしていくべきものである。《人格権か表現の自由か》というディコトミー(二項対立)ではなく、《双方の表現の自由を公正公平に守るために、人格権をどう確保していくか》という問いの立て方をしなくてはならなくなっているのである。

今の段階では、筆者は判決文を見ておらず、各紙の報道から言えることを述べている。判決文を読むことができたら、こうした問題についても、改めて考察できるのではないかと思う。リツイートに関する判断については、判決文を見ることができたら、その後で言及したいと思う。

今の段階で、まず言えることは、社会的に高い意義のある判決が出た、ということである。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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