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組織委の週刊文春への「抗議」は法的に成り立つか――知財と報道の自由

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
今、最も公共性の高い文化事業で、知財による利益保護と報道の自由とが衝突している。(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

報道の自由を認める規定

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は、開会式の演出の企画案を報じた週刊文春に対し、「営業秘密を意図的に拡散し、業務を妨害した」「著作権法に基づく複製権を侵害している」などの理由で抗議し、掲載誌の回収を要求したと発表した。抗議文は公式ホームページに掲載され、発売元の文芸春秋に書面を出したことも公表された。

一方、文春編集部は2日、「巨額の税金が浪費された疑いがある開会式の内情を報じることは高い公共性がある」と反論のコメントを公表した。

この出来事はYahoo!でも注目トピックとして取り上げられている。

組織委の抗議に文春反論「不当な要求」発売中止、回収要求に「異常」 開会式案掲載巡り (デイリー 4月2日掲載)

組織委の抗議は、法律に基づいたものだが、その内容は正当なものかどうか、法的に見て問題はないのか。筆者はこの関心から、朝日新聞のインタビューを受け、談話を提供した。

組織委の抗議「大問題」「説得力弱い」 専門家ばっさり(朝日新聞デジタル 4月2日掲載)(有料会員記事)

この記事は有料会員向け記事なので、ここにそのまま書き出すことはできないが、この問題について考えたことを筆者の視点から整理してみたい。

「内部資料を掲載して販売することは著作権の侵害にあたる」というのは、契約時の守秘義務と著作権とを組み合わせた主張と言える。

開会式・閉会式の演出内容については、採否にかかわらず組織委が権利を持つことになっており、ボツになった案でも著作権の縛りを受ける。また、案の採否にかかわらず内容を口外しない契約が組織委と演出家(MIKIKOさん)の間で結ばれていたということなので、これに基づいて、契約違反ということにもなる。組織委の抗議の中には「営業秘密」という言葉も見られるが、この主張が通るならば、不正競争防止法に基づく差し止めや廃棄請求ということにもなる。

このようにこのケースはまずは法的な根拠があるように見えるのだが、著作権法をもっと詳しく見ていくと、著作権法41条がある。「著作物は、報道の目的上正当な範囲内において、複製し、及び当該事件の報道に伴つて利用することができる」という規定である。これは「表現の自由」に配慮して、著作権の効力を制限して報道の自由のほうに道を譲る規定である。

法律の中には、いったんは「権利侵害に当たっている」ようであっても、そこで終わりにせずに「表現の自由」に配慮する法令や、裁判で認められてきた解釈がある。

憲法21条の「表現の自由」は、民主主義の社会を維持するために不可欠の権利である。一般人の「知る権利」に応えるための「報道の自由」の保障は、この意味で最重要の権利と考えられる。こうした「表現の自由」に配慮する思考が、法律ジャンルをまたいで通底する基礎理論となってきているのである。

たとえば名誉毀損がその代表である。公共の関心事にかかわる表現については、刑法230条の2で、とくに「表現の自由」の側に道を開ける規定を置いている。公的な組織や公人が、イメージダウンとなる報道を嫌って名誉毀損訴訟でこれを止めようとすることはしばしば見られるが、この規定はそこに歯止めをかけて報道の自由のほうに道を開ける規定であり、この規定によって名誉毀損不成立となった裁判も多い。

著作権法と憲法上の「表現の自由」

著作権法41条の報道に関する規定も、まず大きな方向性としては、社会的な共有価値のある情報が私権と衝突する関係に立ってしまったときに、「表現の自由」に道を開ける配慮を組み込んだ規定と言える。

この規定については、筆者が談話を提供した記事の中で見解を述べている上野教授以外にも、著作権法の専門家の解釈が複数出てきている。

「文春砲は著作権侵害だ」五輪組織委の主張は通る? 雑誌の回収など要求(弁護士ドットコムニュース、4月3日掲載)

「文春の五輪開会式企画報道に関する著作権法関連の論点」(Yahoo!個人オーサー 栗原潔 4月3日掲載)

著作権法の専門家は、著作権法41条が論点となることは確かだとしつつも、これが実際に裁判となったときに41条によって報道の自由のほうに軍配が上がるかどうかについては、結論を控えている。41条の法文を見ればこの事例で41条が適用されるのは当然のように思えるのだが、実際の裁判をみている実務家からは、そのように言い切ることはできないようだ。

しかし、裁判になったとき実際どうなるかという予想ないし読みの思考とは別に、法制度に内在する思考を読み解き、それに照らしたときどの方向の解釈がとられるべきか、という「べき」論を探ることも、法の解釈には必要なことである。憲法は、各種の法規の指針となる法として、この「べき」論を提供する規準となるものだ。

著作権法41条によって報道の自由のほうが優先される、と完全には言い切れない理由のひとつは、この条文が掲げる「報道の目的上正当な範囲内」という条件に、今回の週刊文春の報道が収まるか、という論点があるからだろう。

名誉毀損やプライバシーの事例で蓄積されてきた「表現の自由」の理論全般から言えば、民主主義と国民の「知る権利」に資する表現、つまり公共性ないし公益性の高い報道は、その自由について手厚い保障を受けるべきだ、と言うことができる。名誉毀損では刑法230条の2でそうした調整が図られており、そうした明文規定のないプライバシー権や肖像権についても、問題となった言論が公共性のある情報(報道)である場合には、「表現の自由」のほうに理を認める方向がとられている(ただしプライバシーの場合には、小説のような創作作品の場合には内容の公共的価値をカウントすることはしないなど、場面によって凹凸はある。それでも概ねの方向性として、表現物を差し止めることにはかなり高いハードルがある)。筆者としては、最近の名誉毀損事例では、むしろ安易に免責を認めすぎていないかと疑問に思う事例も個別にはあるが、それも含めておおむね、公共性の高い情報共有(報道)については道を開ける解釈がとられていると言ってよい。

しかし著作権法についてだけは、そうした「表現の自由」分野で蓄積されてきた判例法理や学説が顧みられることが少なく、比較的簡単に差止め(回収)が認められてきた。今回のケースでは、「表現の自由」の理論の共有が手薄なところに、抗議と回収要求が出て来た、ということになる。

憲法上の「表現の自由」がかかわる問題として考えれば、今回のように、公共性の高い行事の運営がそれにふさわしいものかどうかが問われているとき、それに答える報道はとくに公共性が高く、著作権法41条が生かされる必要性がとくに高いと見るべきだ。しかし、こと著作権法に限って言えば、裁判で必ずしもそうした基礎理論が共有されてこなかった。したがって、憲法の「表現の自由」を専門にしている者から見ても、著作権法の専門家と同様、これが裁判になったときに裁判所がどう判断するかについては、完全な予想はしにくいところがある。しかし、判例理論の蓄積の薄いところに問題が起きたときにこそ、読みが当たるかどうかとは別のこととして、「べき」論を論じておかなくてはならない。 

そこで考えてみると、まずこの著作権法41条は、単に「報道」という言葉を使っており、法文上は公共性のある報道かゴシップ的な報道かを区別してはいない。しかし、公共の利害ないし公益にかかわる報道の場合には、「報道の目的上正当」と評価される必要性も公算も高いものとなる。このとき、その報道が対価をとって提供されるものかどうかは、問題とならない。「表現の自由」の一般的な理論から見ても、「営利表現」とは広告表現を言うのであって、新聞・雑誌・書籍が対価をとって売られる場合のことを言っているのではない。

著作権法においては、無断で複製品を作って本来の知的財産価値を薄めてしまったとき、営利に利用しなくても無断複製の時点で権利侵害に問われる。これが海賊版グッズの販売などに利用(フリーライド)された時にはさらに重い罰則が科され、不正競争防止法など別の法律でも禁止が科される。「営利に利用した」ことが悪質とされ法的に問題となるのは、この文脈である。オリンピック会場内で行われる試合やセレモニーを、契約上の権利がないのに無断で撮影して商業利用する行為は、それに該当する。

しかし万が一、試合中に事故や災害が起きて、試合を観覧したり記念グッズを買って楽しむこととは別の社会的な報道意義が生じ、会場内外の様子が報道の対象となった場合には、この報道に著作権の縛りはかからない。このような時、報道機関や報道雑誌がこうしたニュースを有償で提供することは問題とならない。今回の週刊文春の報道はこうしたカテゴリーに属するもので、その報道を売り物にしていることは、問題とはならない。

こう考えてくると、当該の記事は「報道の目的上正当な範囲」を逸脱するような、著作物の不当な利用とは思われない。筆者もYahoo!個人オーサーのページで森発言問題を取り上げる論説をいくつか書いたが、日本のオリンピックが、オリンピックの精神にふさわしい見識をもって運営されているかが大きく問われ、国民の真剣な関心になっていることは各種の新聞報道からわかることである。女性の容姿を揶揄する演出案も、この関心の俎上に乗り、その中で事柄の経緯を整理して知らせることは、今回のオリンピック関連行事を首尾よく成功させるという関心を超えて、公共的な関心になっている。こうした場合、演出価値を守るという私権上の利益よりも、公共の関心事となるべき論題を取り上げる報道の自由のほうが優先されるべきだろう。

問題の領野は広い

この問題は日本の組織委だけの問題ではない。国際オリンピック協会・IOCも、日本の新聞社に対して、聖火リレーの画像を削除するよう要求するなど、報道の自由との間で緊張関係を生じさせている。次の記事は、記事内容・識者コメントともに充実しており、問題の所在がよくわかる。

「聖火リレー報道規制IOC「ルール」に法的根拠はあるのか」(Yahoo!個人オーサー 江川紹子 4月3日掲載)

知財は基本的に、当事者がお互いに合意すれば契約が成り立つ。一方にとって極端に有利な内容でも、双方が合意すればその合意が拘束力を持つのである。しかし試合やセレモニーの内容を放映・撮影する場合の契約とは違い、報道機関はその意味での契約当事者とは言えない。しかし事実上、オリンピックを取材させてもらうにはIOCの一方的なルールに従うほうが良いと判断せざるを得ない状況があるという。

オリンピック全般が知財をテコにして大きな収益を上げてきたことから、ここに強い権利管理が働くことは理解できる。知財法にはたしかに、イメージの低下につながる利用を許諾しないことによってイメージをコントロールするというメリットもある。知財法の思考では、イメージ維持のための権利行使は、基本的に正当なことなのである(とくに不正競争防止法で「周知表示」や「著名表示」を保護する規定にはそうした要素がある)。しかしこうした発想が「表現の自由」の観点から許容されるべき報道表現にまで及ぶとなると、法全体の思考から考えたとき、本末転倒に陥っていると言わなくてはならない。仮に知財法の土俵では認められる権利行使であっても、それが結果的に、正当な表現活動に対して抑圧的に働いてしまう場合があるという問題がはっきり見えてきたわけで、今、ここに対応する法原則の確認が必要になっている。

組織委やIOCが著作権法などの知財法ルールを出してきた動機については、さらなる詳報を待ちたいと思う。しかし、先ほど名誉毀損の話を紹介する中で述べたように、公的な組織や公人が、イメージダウンとなる報道を嫌ってこれを止めようとするときに法律(これまでは名誉毀損やプライバシーだった)を根拠にすることがままあることはたしかで、今回の「抗議」の目的ないし動機がそういうものだった場合には、著作権よりも報道の自由に道を開ける必要性が高くなる。著作権法41条はそうしたときにこそ適用される法文であるべきだ。

オリンピックは国民の文化度を象徴する行事である。それが今、その名にふさわしい運営体制になっているのか、その名にふさわしい理念や見識が共有されているのか。国民の多くがここに疑問を持つに至っており、週刊文春はその疑問に答える記事を発表してきた。こうしたときに組織委やIOCは、国家レベルあるいは国際レベルの公的プロジェクトを担う公益団体として、報道機関の取材や批判を封じる動きに出ない、という自制をもってもらう必要がある。筆者は、今回の週刊文春抗議事件については、憲法理論との合わせ技で著作権法41条が適用されるべきだと考えているが、仮にこれが裁判となったとき、裁判所が何らかの理由・解釈によってそうした理屈を受け入れなかった場合には、なおさら、この理屈を説く必要性が高まる。

総じて、組織委の「抗議」やIOCのルールには、憲法上の「表現の自由」の観点から見て大きな問題があることはたしかだが、この問題認識が、著作権法などの知財法の実務のほうで共有されるかどうかについては、若干の不確定な要素が残る。この問題を見る視野を、さらに研究的関心へと広げて言えば、知財法の憲法適合的な解釈を組み立て提示するという、研究者の側の息の長い作業も必要になっていると言えるだろう。

(2021年4月4日07:00に投稿したものに、同日の正午、誤入力などの訂正とともに、加筆する修正をしました)。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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