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憲法53条裁判を考える――「知る権利」と民主主義の質

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
2017年の9月、臨時会は召集されたが冒頭で解散。(この写真はイメージです)(写真:アフロ)

「知る権利」とは

1月18日には、国会の通常会が始まる。しかし、今の国会と内閣には、4年越しの宿題となっている会期がある。その「果たされなかった会期」の問題は、国民の「知る権利」と深くかかわっている。

「知る権利」は、表現の受け手の側の権利として、「表現の自由」に当然に含まれる権利だと考えられている。その中でも、社会的な公共性のある情報については、国民主権の原理から考えてとりわけ手厚く保障されるべきものと考えられている。

ここでは、前者のレベルの権利を「知る自由」、後者のレベルの権利を「知る権利」と呼び分けることにする。「知る自由」のほうは、「公」がかかわることなく「自由」に流通している表現活動の中での、「受け手の側の自由」のことをいう。知りたい情報があるのにそこにアクセスできない状態にさせられたり、聞きたくない・見たくない情報なのにそれを受けることを強制されたり、といったことについて「NO」といえる権利である。

今回の投稿では、公がその実現に責任をもつべき「知る権利」のほうに焦点を当てる。国民は主権者として、そして民主主義の担い手として、この「知る権利」を当然に持っていると考えられている。これは「情報公開法」で情報公開請求権が定められるなど、法律で制度を作って具体化しないと、行政に向かって「DO(仕事してください)」と求めたり、それが行われなかったときに裁判で救済を求めたりする権利にはならないと考えられている。つまり、「知る権利」は、それ自体では具体的権利とはいえない「抽象的権利」だと考えられている。だからこそ、国政をあずかる公人は、この権利をもつ一般市民に答える責任を負っている。議会を開くこともその責任の一環である。

3つの裁判が係争中

日本国憲法53条は、「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」と定めている。

2017年6月、当時の衆・参、計190名の議員が、森友・加計学園問題の経緯を明らかにするため、この日本国憲法53条の後段に基づいて内閣に臨時会の召集を要求した。この要求は、多くの一般国民の要望に――「知る権利」に――応えようとするものだった。内閣は約3カ月の間これに応じず、同年9月に臨時会を召集し、その冒頭で衆議院解散を宣言した。要求を行った議員たちが求めていた議事は行われなかった。このことの違憲違法性を問う裁判が、沖縄・東京・岡山で係争中である。

2020年6月10日、この中で最初の判決となる那覇地裁判決が出た。この判決では、「内閣は憲法53条後段に基づく要求を受けた場合、臨時会を召集すべき憲法上の義務がある」と明言している。そして、内閣の対応次第では違憲と判断される「余地はある」とも述べた。

判決のこの前半部分を読めば、誰でも2017年のケースは憲法違反だとわかる内容だ。しかし那覇地裁判決は、結論として原告の請求を棄却した。①憲法53条は、個々の議員の具体的な請求権を保障したものとはいえない、②内閣にこの義務を強制する法規がない、③国家賠償法でこの問題を争うのは筋が違う、という理由による(那覇地裁2020年6月10日判決18‐26頁)。

この3つの裁判の意義と憲法53条について正面から論じる論説は、以下に投稿したので、そちらを参照していただければと思う。

「憲法53条・臨時会召集裁判の意味――議会制民主主義を支えるもの」朝日新聞「論座」2021年1月4日掲載

日本国憲法における「議」会制民主主義

日本国憲法の制度全体を支える民主主義観は、単なる多数決ルールではなく、熟議と循環の民主主義である。

国会の機能は「立法」――政策決定や予算の審議採決――だけではない。それ以外のさまざまな機能を果たすことによって、あるべき民主主義の循環を支えることが求められている。今、この「循環系」のあらゆる場面で機能不全が起きている。憲法53条「臨時会不召集」の問題もこの一連の問題の中に位置づけられる。

たとえば、53条後段に基づいて臨時会の要求があったとき、内閣の閣僚や与党所属の議員は、「もう勝敗はついたではないか」という気分を感じるかもしれない。しかし、「まだ国会で質(ただ)すべき事柄がある」、「この議事を通じて国民に知らせるべき事柄がある」と考えた国会議員が一定数以上いた場合には、この議事の要求を黙殺することは許されない。

予算や政策を多数決ルールで決めること――「決」の要素――だけが国会の役割だと考えるならば、上記の「気分」のほうが正しく、53条後段はなくてもいいことになるだろう。逆に、53条後段が存在するということは、日本国憲法が保障している議会制民主主義には「議」の要素が欠かせない、ということなのである。

国会議員が議会に出席すること、自由に議論することについては、憲法50条・51条に特別の保障がある。これは一般人に保障される「表現の自由」とは別の職務特権だが、その仕事は、政策決定のさいの「頭数」として働くだけではなく、国民の「知る権利」に応える活動が含まれる。憲法57条が「会議の公開」を定めているのもそのためである。とくに少数派の議員が会議召集を要求できるとしている53条は、数の勝敗とは別に、「議」の要素を生かすべきときにその意義を発揮する。これが「会議公開の原則」をつうじて、国民の「知る権利」に資することになる。民主主義は、統治の仕事と市民の「知ること・表現すること」の連環(サイクル)によって成り立っているのである。

民主主義は、統治と市民の「知ること・表現すること」の連環(サイクル)によって成り立つ。(イラスト・武蔵野美術大学学生作品・許諾済)
民主主義は、統治と市民の「知ること・表現すること」の連環(サイクル)によって成り立つ。(イラスト・武蔵野美術大学学生作品・許諾済)

今、この53条後段が軽視され、空文化させられようとしていないか。今、その流れを止めないと、日本の民主主義は致命的な劣化を被ることになる――

今回の訴訟を起こした議員、弁護を引き受けた弁護団、意見書執筆と証人尋問を引き受けた研究者たち――筆者もそのうちの一人である――には、こうした危機意識があった。

朝日新聞11月24日記事「(憲法を考える)開かぬ臨時国会、民主主義の危機 要求放置した安倍内閣めぐる訴訟、学者ら初めて直接証言」

尊重すべき究極の相手は

日本の裁判所は、これまで過剰なまでに「政治部門」を尊重して、裁判所としての判断を控えてきた。仮に百歩譲って、裁判所がこうした過去の先例に敬意を払いたいと望むならば、裁判所が尊重すべき「政治部門」は、内閣ではなく、「主権を有する国民」を代表する国会である(※)。

※日米安全保障条約の憲法適合性が問題となった砂川事件最高裁判決(最大判昭和34年12月16日)で、同判決が判断を控える理由の中にこの言葉がある。

少数派議員が要求した議事を行わずに黙殺してしまうことは、「主権を有する国民」に対して判断材料を塞ぎ、議論不能の状態を押し付けることになってしまう。この問題は、直接に「知る権利」や「表現の自由」の問題となるわけではないが、民主主義というものは「知ること」「表現すること」によってはじめて成り立つ。つまり、議会が開かれないということは、「表現の自由」以前の足場ないし土壌のところで、「表現の自由」と民主主義の連環が成り立たない状態が作り出されていることになるのである。

ここに深くかかわっている国民の「知る権利」が、今の制度を前提とすると、直接には裁判に訴え出ることのできない抽象的権利にとどまるだけに、それを受けて働く議員の会議召集要求は、具体的な権利として守られる必要がある。

憲法53条後段をめぐる訴訟はまだ続いているが、憲法違反に対しては憲法違反と明言する判決が出されること、それによって議事を見守る国民の「知る権利」が回復されることを期待したい。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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