Yahoo!ニュース

ろくでなし子裁判・最高裁判決は何を裁いたのか ――刑事罰は真に必要なことに絞るべき

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
7月16日・最高裁判決直後のろくでなし子さん(本人・撮影者の許諾を得て掲載)

一部有罪が確定した最高裁判決

(女性器3Dデータ送信「ろくでなし子」被告有罪確定(2020年7月16日) テレ東ニュース公式チャンネル)

日本国憲法21条は「一切の表現の自由」を保障している。規制があるとしたら、誰かの権利(人格権や著作権など)を害しているか、社会の安全を害するような行為だ。しかし刑法175条はその例外として、被害者がいない場合でも「わいせつ」な表現内容を処罰の対象としている。

しかし、ここにまた例外がある。いったんは「わいせつ」に当たるとされた作品が裁判で「芸術的・思想的価値」が認められ、「わいせつ」に該当しないと判断される場合がある。「ろくでなし子」事件はこれをメインの争点とする裁判となった。

7月16日に出た最高裁判決は、ろくでなし子さんの上告を棄却し、一部無罪(先に確定済み)・一部有罪(今回の上告で不服とされた部分)という一審の東京地裁判決と二審の東京高裁判決を支持した。判決文は判決直後に裁判所サイトにアップされた。見ると、ほとんどが刑事訴訟法に関する判断である。簡単に言うと、この最高裁への上告は、刑事訴訟法上そうすべき理由が認められないので、二審までの判決内容でよい、というものだった。

刑事訴訟法では、二審までの判決(原判決という)に憲法違反があった、または憲法解釈が間違っていた、という場合(405条)に、最高裁に上告できる、となっている。今回の最高裁判決は、そこを認める余地はない、と言い切っている。また、最高裁が原判決を破棄しなければ著しく正義に反する場合(411条)にも当たらない、とわざわざ言っている。

判決後、Zoomで報告会が行われ、筆者も参加した。その席上で、ろくでなし子さんをはじめ何人かが、こんな判決のためにわざわざ「判決言い渡し」をする意味があったのか、と疑問を語っていた。たしかに、この判決に意味を見出すとすれば、「裁判所は憲法違反の疑義を持ってきても受け付けません」と宣言しているのか、という気がしてしまう。それ自体も論じる価値のある「問題」なのだが、ここではこの裁判の中身のほうに目を向けてみたい。

ろくでなし子事件 何が裁かれたのか

最高裁は、二審の東京高裁判決をほぼそのまま支持している。二審の東京高裁判決は、一審の東京地裁判決をほぼそのまま支持している。だから、この判決の内容を理解するには一審の東京地裁2016年5月9日判決までさかのぼらなくてはならない。

本件被告のろくでなし子さんは、2014年、都内アダルトショップで、女性器をかたどった立体造形物を展示した。後に裁判所からは、写実性が薄く装飾の要素の多い造形物、と評されることになる。これを作品Aとする。

また、3Dプリンタによって女性器をかたどった立体造形物が再現できるデータを送信し、このデータを記録したCD-Rを販売したり、頒布したりした。これを作品Bとする。この両方が、刑法175条に問われて、起訴された。

2016年5月9日の判決で、東京地裁は、Aについては「無罪」、Bについては「有罪」(罰金40万円)との判決を示した。ここでは、従来の「わいせつ」の定義を踏襲した上で、そこに「芸術性・思想性」があるものについては例外的な考慮をする、という考え方がとられている。その考慮をすべき作品かどうかで、有罪・無罪の判断が分かれた。

これまでの判例と争点、「歴史的判決」

刑法175条「わいせつ」について、日本では、1957年の「チャタレー夫人の恋人」判決(以下、「チャタレー」判決)以来、《羞恥心を害すること、性欲をいたずらに興奮させたり刺戟したりすること、善良な性的道義観念に反すること》が「わいせつ」とされた(筆者による趣旨要約)。以後、1969年の「悪徳の栄え」事件判決、1980年の「四畳半襖の下張」事件判決といったいくつかの最高裁判決の中で、判断の枠組みが作られてきた。

これら一連の裁判で繰り返し問われてきたことを整理すると、以下のようになる。

(1)刑法175条は表現の自由を不当に制約しており、法令として憲法21条に違反しているのではないか。

(2)刑法175条にいうわいせつの概念は、漠然不明確であるため刑罰法規としては憲法上要求される適正性を欠いているのではないか。

(3)刑法175条は法令として合憲であるとしても、本件の表現物は、これまでの判例に照らすと、本条にいう「わいせつ」に該当しないはずではないか。

(1)の点について、最高裁判所は、1957年の「チャタレー判決」以来、「最小限度の道徳」を維持するという立法目的を正当と認めて、刑法175条を憲法違反とする可能性を認めてこなかった。また、(2)の点も、裁判所は退けている。とくに今回の最高裁判決は、この点の主張を真っ向から否定しているように読める。そして、起訴の対象となった表現が175条に該当するかどうかの判断だけが、裁判所が取り上げる争点として生き残ってきた。

こうした裁判の積み重ねの中で、「わいせつ」に当たる部分があっても、作品の全体を見て判断して「わいせつ」に当たらないとする場合がある、という考え方が示されるようになった。1980年の「四畳半襖の下張」事件判決では、作品の芸術性・思想性を総合してみたときに作品を「わいせつ」ではないとする場合もあるとする考え方が示された。

判断のための理論としては、こうして作品の芸術的・思想的価値を考慮する余地が開かれてきたわけだが、これらの裁判ではどれも、それでも有罪とされている。この種の裁判で無罪判決が出たのは、約40年前、1982年の「愛のコリーダ」事件判決くらいのものではないだろうか。そのくらい、実際に無罪判決が出るのは稀有なことなのである。ろくでなし子さんが「歴史的判決」と書いた旗を掲げたのは、その意味だろう。

(刑事事件ではないが、作品の「芸術性」を評価して「わいせつ該当性なし」とした最高裁の判決としては、2008年、税関検査での処分が問題となった「ロバート・メイプルソープ写真集」事件最高裁判決もある。)

芸術性=装飾性?

こうした積み重ねがあった上で、2016年東京地裁判決は、ろくでなし子さんの作品が「芸術性・思想性が…わいせつ性を解消させる場合」にあたるかを検討したわけである。そして作品Aについては、「女性器を連想させうるもの」だが、「それだけでわいせつ性を肯定できるほど強いものではない」と評価している。その理由として、「本件各造形物はポップアートの一種であると捉えることは可能」であり、「女性器に対する否定的イメージを茶化したりする制作意図」や、「このような意味での芸術性や思想性」が認められるため、「性的刺激が緩和され」、今日の健全な社会通念に照らして、「刑法175にいうわいせつ物に該当しない」と判断された。

次に、3Dデータ送信を行った作品Bに関しては、本件データは「実際の女性器を強く連想させ、閲覧者の性欲を強く刺激することは明らか」であり、芸術性・思想性等による性的刺激の緩和を「大きく評価することはできない」ため、今日の健全な社会通念に照らして「刑法175にいうわいせつ物に該当する」と判断され、有罪とされた。

(記者会見する「ろくでなし子」被告 2016年5月9日 時事通信映像センター公式チャンネル)

無罪となった作品については、検察が上告しなかったために、二審で無罪が確定した。ろくでなし子さんは、二審で有罪となった部分だけを不服として、上告した。その上告審の判決が、16日の判決だったわけだが、この最高裁判決の中には、これまでの蓄積から後退しているのではないか、と思えるところがある。

作品Bの3Dデータによる造形作品について最高裁は、「結局のところ、わいせつ物の頒布自体を目的としたものとしか言えない、だからわいせつに該当するのだ」という意味のことを述べているのだが(筆者による趣旨抽出)、では、作品Aのように飾りがあれば飾りの部分に芸術性や思想性を認めることもあるが、飾りのない「そのもの」の表象に価値があるという思想は、思想として認知されない、ということになるのだろうか。引き算をすると、芸術性・思想性を認めることができるのは飾りの部分だということになるのだが、これは美術を少しでも勉強したことのある人なら、呆れてしまう古さだろう。

明らか、と言ってしまうことへの疑問

最高裁への上告は、この作品B有罪の部分を憲法違反だとして行われたのだが、それが16日、まったく否定されたわけである。

その否定を理由づける中で、刑法175条は不明確な条文ではない(明確な内容を持っている)と最高裁判所は言う。しかしそこで言われる「わいせつ」とは生殖器の描写を言うのか、性行為描写の誘淫性を言うのか。この判決で参照された先例はすべて性行為場面の文章表現を問題とした判例である。標本のような人体模型について、同じことが言えるのかどうか。

筆者は、有罪となった作品Bを見ることができないので、そこを論評することができない。しかし、Zoomで行われた会見でも代理人の弁護士たちが、「標本か、地形の断層、立体地図の等高線のようなものにしか見えない」と発言しており、3Dプリンタで出力した後の立体物で性欲が刺激されることは常識的に考えて難しい、と首をかしげている。

裁判官が「明らかだ、明確だ」と言っているのだからそうなのだろうと思い込むことは、できないようである。むしろ、実際にその表現を見ていない人間たちがその「明らか」を鵜呑みにすることを求められているという、この思考法に、危ういものがあるのではないだろうか。

ある表現を刑事罰の対象とするということは、こうした「議論不可能」の状態を引き起こす。「表現の自由」の理論は本来、こうした「議論不可能」な状態を防ごうとする理論である。ところが、日本でもアメリカでも、「わいせつ」問題については、「表現の自由」の理論が使われないことが、判例の中で慣例化している。「わいせつ」裁判では、そのような規制手段が手段として必要最小限のものなのかどうか、もっと人権制約の度合いの少ない手段は考えられないのか、といったことが論じられないのである。

なぜですか、本来使うべき理論を使うべきだと言ってもいいのではないですか、と日本やアメリカの判例に精通している学者たちの集まりの中で言ってしまうと、おそらく筆者のほうが「不勉強」とみなされて失笑を受けるだろう。奇妙だが、どの角度から問題を見ようとしても、議論不能のままやんわりと視界が塞がれているような状態である。

筆者自身は、刑法175条はもう廃止して、差別・虐待を煽るような性表現を対象とする新たな規制を作り直すのが理にかなった道だと考えている。刑法175条そのものの憲法適合性について、裁判所が取り上げようとしないならば、社会で、本格的な議論が必要になってきたと思っている。

 ↓参考のため、そのあたりの論点を筆者なりに整理したインタビュー記事を挙げる。

「わいせつ表現」規制と女性差別克服は関係ない? 憲法学者・志田陽子氏インタビュー

この楽し気な空気は…

そんな中で救いなのは、「不当判決」「歴史的判決」というメッセージを手にしたろくでなし子さんの、晴れやかな表情だろう。ツイッターに投稿された顔写真のマスクには、けいさつ、ありがとう、とも書かれている。

この写真、ツイッター経由でご本人の了解を得て、この記事のトップ画像に使用させていただくことができた。

これを見れば、刑法175条に何の意味があるのか、とますます問いたくなる。もうこんなゲームに警察を使うのはアホらしい、こんなことに目くじらを立てるだけ、税金と人的資源の無駄遣いではないかと。多くの人がそう感じたのではないだろうか。その意味で、ろくでなし子さんはこのゲームに勝ったのかもしれない。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

志田陽子の最近の記事