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緊急事態宣言と「集会の自由」―― 「表現の自由」のために今「自粛」を呼びかける理由

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
多くの人が集まって行う音楽イベントや市民集会が今、深刻な影響を受けている。(写真:アフロ)

緊急事態宣言発令の予告発表

4月6日夕方、安倍内閣総理大臣から、「明日(4月7日)、緊急事態宣言を発令する」との発表があった。これは、「改正 新型インフルエンザ対策特別措置法」に基づくものである。この緊急事態宣言が発令されると、都道府県知事は、以下の措置をとることができるようになる。(主なものだけを挙げる)。

・住民に、外出自粛を要請

・学校や福祉施設などに、使用停止を要請・指示

・人が集まるイベント(音楽やスポーツなど)の開催制限の要請・指示

・臨時医療施設のための土地や建物の強制使用

・医療用品やマスク、食品の買い上げ(売り渡し要請)や、収用、保管命令

・鉄道や運送事業者に、緊急物資(医藥品など)の輸送を要請・指示

・予防接種の実施の指示(これは有効な予防接種が確立された後の話になる)

(「緊急事態宣言」へ 発令後はどうなる?(20/04/06)YouTube 公開動画)

上記の措置が行われると、「表現の自由」の中の「集会の自由」が決定的な制約を受けることになる。集会の自由は、本来ならば、憲法21条「表現の自由」によって保障される権利として、最大限の尊重を要する自由である。「緊急事態宣言」の経過と内容、社会全体への影響についてはこの「Yahooニュース」でも別に論説が出ているので(たとえば山田健太「コロナ「緊急事態宣言」発令、2日後に何が変わるか」4月6日掲載)、そちらに任せることとして、筆者は自分の守備範囲である「表現の自由」との関連のみをピックアップして考えてみることにする。

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamadakenta/20200406-00171757/

この病気については2020年4月6日現在、まだ専門家も対処法を突き止めるには至っておらず、そこに確たる知識と医療技術の確立が見られない間は、社会全体がリスクを勘案して用心するという選択が必要である。

その用心には、「集会」の自粛も含まれる。

2020年4月現在、筆者は、当面の間の集会の自粛は必要やむを得ないことと考えている。しかしそれが不当に長引いたり、緊急事態が解除された後までその自粛ムードが常態化することがあってはならない。だからこそ、なぜ今は自粛を呼びかけるべき特殊な局面なのかについて、急ぎ本稿を書くことにした。その「特殊な局面」が過ぎたら「表現の自由」を元のモードに戻すために、その「特殊な局面」を確認する必要があるからである。

憲法改正案「緊急事態条項」とは異なるもの

4月7日に発令されると伝えられている緊急事態宣言は、憲法改正の論議の中で話題となった「緊急事態条項」の新設とはまったく別のものである。この新型インフルエンザ対策特措法自体が憲法のもとにある法律なのだから、それに基づく緊急事態宣言とそれに基づく措置も、現行憲法の枠内で行われるべきものである。

それが政府自身によって誤解ないし目的外利用されて、事実上の憲法停止が起きるのではないか(とくに「表現の自由」について)という懸念があることはたしかである。今、緊急事態宣言とそれに基づく措置が憲法の人権保障を骨抜きにする流れを招くのではないか、と警鐘を鳴らす議論も行われているが、この議論は、「感染拡大を防止するための策」を軽視する議論ではまったくない。関心の位相が異なるのである。

今回、緊急事態宣言が発令され、それに基づいた措置が実施されるとなれば、できることは、その懸念が現実のものとならないように見守ること、その兆候が出てきたらすぐに警鐘を鳴らすこと、だろう。

憲法が要請している政府の「責任」と人権保障のバランシング

憲法25条1項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定め、同条2項は「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定めている。この条文のもとで、政府が有効な策を早急に実施する責任を負っていることはもちろんである。ただ、この2項は努力義務規定の形になっていて、「ここまでをしなくてはならない」という明確な義務が定められているわけではない。何をどこまで行うかは、国の裁量にゆだねられている。だからこそ、国民がこれを見守り評価する必要がある。

そのさい、国は、不当・不要な人権制約を引き起こさないよう、そのバランシングには細心の注意を払うことが求められる。ここで、事柄の性質上、制約が起きるのが、「幸福追求権」(憲法13条)、「移動の自由」(憲法22条)、「経済活動の自由」(憲法22条・29条)、そして「表現の自由」(憲法21条)の中の「集会の自由」である。

通常であれば、「集会の自由」は民主主義の実践にとって重要な意味をもつ市民的自由であるため、最大限の尊重が求められる。今回の新型コロナウィルス感染拡大防止策(緊急事態措置)においては、――「強制ではなく要請だ」という言葉の問題は措くとして――、この「集会の自由」がどうしても制約を受ける。インターネットを利用した遠隔方式での発信はもちろんできるが、生身の人間が集まることに意義と魅力、あるいはやりがいを感じている表現活動者にとっては、意気を殺がれる形となってしまう。そこに自由制約を受けたことの憤懣を感じる表現者がいることは、十分に理解できる。

憲法的見地からは、「その制約は本当に必要か」と問わなくてはならない。緊急事態宣言が出るとこの「問い」が停止させられ、問答無用で集会その他の表現活動が制圧されてしまうのではないか、という不安の声は、たしかにある。しかもこの5、6年の間に、その不安を市民に感じさせる「表現の不自由」事例が蓄積されてきたことは事実である。この自粛呼びかけや緊急事態宣言についても、「政府批判を塞いで市民感情を統制するための口実として、コロナが利用されているのではないか」という声はある。これまでの「言論の自由」軽視のツケと言えるだろう。

たしかに、私たちが連日接する情報の内容の中に、誇張や煽りがないとは言えない。しかし、公式に発表される感染者数や感染経路の情報をすべてフェイクだ、コロナ不安に便乗して市民を飼いならす策略だと言うだけの材料も筆者にはない。多くの事実報道と公的呼びかけをフェイクだと言い切る根拠がないかぎり、私たちは、その情報を一応は事実として受け止めて、自分たちの生命と生活を守る姿勢をとる必要がある。

そうなってくると、感染拡大防止のための政策と「表現の自由」とのバランシングも、通常モードのままではすまず、この事態の緊要度を重く勘案せざるを得なくなってくる。

どちらも重要な権利、利益。それを天秤にかけて結論を出さねばならないことも。(画像:パブリックドメインQ著作権フリー画像素材集より)
どちらも重要な権利、利益。それを天秤にかけて結論を出さねばならないことも。(画像:パブリックドメインQ著作権フリー画像素材集より)

事態の緊急性と「表現の自由」の理論

ここで国や自治体が、未知の経験について最も賢明な策をとれる保証はない。民主主義はもともと、最も良い結果を得られるから採用されているわけではなく、少数者の専断に委ねる結果起こりがちな最悪のシナリオを、社会メンバー全体の参加とコントロールによって回避しよう、というリスク回避思考の選択である。だから、こうした未知の経験については、政府の対応は不完全だったり的外れだったりする可能性が十分にある、という前提に立って、その不完全な部分に情報と知識を持ち寄るのが民主主義にかなう思考である。

その中にはもちろん、現実のニーズ(どこにどのような補償が必要か)について知らせる表現、噛み合わない政策についてはそれを指摘する批判表現も含まれる。このための「表現の自由」や「請願権」は、今、このような状況だからこそ最大限に確保されるべきである。仮にこれを塞ぐような「措置」があったとしたら、憲法違反と言うべきことになる。

この「表現の自由」の理論の中にも、「やむにやまれぬ」事情が政府側から示された場合には制約を認めるという理論や、緊急で具体的な必要がある場合には制約もやむを得ないとする理論がある。

また、アメリカの判例理論でも、「暴力を誘発する言葉」fighting wordは「保護されない言論」として規制可能とされている。暴力的衝突が起きそうなときに、人をカッとさせて衝突の危険を高める決まり文句的な挑発言葉がいくつかあり、それを禁止することは州の判断に委ねられている。これは、空気中にガスが充満しているような場所でマッチを擦ることは、引火爆発の危険を伴うので、その危険を阻止する、というイメージでとらえるとわかりやすい。

新型コロナウィルス感染の爆発的拡大を抑え込むために、近距離での接触や集会を自粛するという要請は、「ガスが充満している可能性のある場所で、マッチを擦ることはしないでほしい」、と言うのと、ロジックとして似ている。しかも、今、ガスが充満している場所は不特定化してしまい、東京都内の場合、すべての場所にその可能性があるという状況になってきた。

筆者は、今回の自粛要請は、上記の論理で求められているものであり、憲法的にも上の論理によって認められるものだと思っている。

小さなマッチもガスが充満した空気の中では爆発の原因に…。今は一人一人がマッチになりうる。(画像:pxhere.com/CCOパブリックドメイン公開画像より)
小さなマッチもガスが充満した空気の中では爆発の原因に…。今は一人一人がマッチになりうる。(画像:pxhere.com/CCOパブリックドメイン公開画像より)

「魔女狩り」思考から、「解決を支援する」思考へ

病気に罹患した人を「悪」と見て罰したり、病気に接触した人を「ケガレ」として忌避し共同体から排除する、という思考は、近代以前の世界では、政治の表舞台で採られていた。中世ヨーロッパの「魔女狩り」や、日本では21世紀初頭まで続いてしまったハンセン病者の隔離政策などがそうである。

こうした思考は何百年も前に乗り越えられ、乗り越えたところに近代以降の「法」の思考が生まれた…はずである。しかしこの思考は、社会全体が不安にさいなまれることになると、さまざまなところで復活してくる。世界各地で報告されているように、感染症への怖れが外国人差別や異文化排斥と容易に結び付いて、感染症とは別の二次被害を引き起こしている。

今回の自粛要請を「政府による言論抑圧の一形態」と解釈して軽視することは、外国人に感染症発生の責を負わせて排斥するのと同じタイプの思考法に乗ってしまうことになる。なぜなら、悪者を名指しそれと戦う(指弾する)ことが、安心感を与えてくれてしまうため、真に必要な戦いが見失われがちになるからである。

今、真に必要な戦いとは何だろうか。

医療従事者や介護従事者、清掃業者にとっては、これは文字通りの「戦場」に匹敵する危険業務を引き受ける戦いである。

一方、筆者自身を含め、それ以外の一般人にできることは、その戦いを無駄にしないこと、その戦いを少しでも残酷なものにしないこと、つまり「解決努力の前線に立つ人々の足を引っ張ることをやめよう」、という《消極的な支援》である。救急車が車道を通るときには、一般車両は止まって待機することが道路交通法に定められているが、そのイメージで考えるとわかりやすい。今は、一人一人が、退屈や苛立ちに耐え、できることをするという、地味で静かな振る舞いが「戦い」なのである(それによって収入を失う人々に対して、有効な経済支援策が必要であることはもちろんである)。

すでに日本でも、日赤医療センターは、初診および救急外来の受付を停止している。限りある医療資源の不足に備えての構えだろう。

http://www.med.jrc.or.jp/?fbclid=IwAR2pV9flXwqnYMwy1rIUE-hjKqKKyZIbT249jcU40lC60lygQ9JnJzyvUoo

「三密を避けて」という言い方の巧拙はともかくとして、医療関係者の多くの発言から、大筋で合意できる事柄がかなり明らかになっている。大声で話すことが感染につながりやすいことも、根拠をもって指摘されている。

いわゆる「ライブハウス」や「カラオケボックス」はたまたまこの条件に合致してしまうために、感染者が出た。しかし音楽や映画といった「表現」が感染経路となる危険性を持つわけではない。むしろ、音楽をやらなくても、多数の人がマイクを回して大声でスピーチをするリレートーク集会を屋内で行うことなどは、ライブハウスと本質的に同じ意味を持つ。この問題には、言論の内容の政治性も、言論価値の高低も、表現の芸術性も関係ないのである。

今回の自粛要請では、市民集会や音楽イベント、舞台芸術が決定的な影響を受けていることはたしかであり、さらに緊急事態宣言発令後は、各自治体の判断によって公共の集会施設が使えなくなり、無観客講演も行えなくなる可能性もある。一部の施設は、すでにその決定をしている。それ自体は、今の段階では、「表現への介入」として問題化する局面ではない。が、こうした要請を行うならば、「表現の自由」を完全に塞ぐことのないよう、事態が収束したあとに優先的に会場使用を認めるなど、代替措置も必要である。非常事態・緊急事態を銘打った措置は、すべて、一時的なものであること、その事情が解消したあとは制約を受けた権利自由の回復を行うことがセットで必要だからである。

どれだけの人が今、収入を絶たれた状態で耐えているだろうか…。たやすい我慢ではないのだから、事情収束後の権利回復も視野に。(写真:松浦武臣(フォトグラファー)撮影・使用許諾済)
どれだけの人が今、収入を絶たれた状態で耐えているだろうか…。たやすい我慢ではないのだから、事情収束後の権利回復も視野に。(写真:松浦武臣(フォトグラファー)撮影・使用許諾済)

表現の自由と自律――不要な表現規制を招かないために

自分の判断で自分を律することを「自律」という。「判断力を信頼してくれ」、という「自由」である。危機の言説に押し流されずに「自由」を確保するために、今は、この姿勢が必要である。もちろん、これが不要な自己検閲を強いる圧力に転じることのないよう、事態を注視することは必要である。それが、筆者を含め、この方面の研究者の社会的役割となっていくだろう。

「表現の自由」の理論の中には、「制約する必要のある表現があったとしても、それ以外のものまで制約すること(過剰包摂)は避ける」、という理論がある。仮に今回の緊急事態宣言に便乗して、物理的な近距離接触とは関係のない言論までが制約されたなら、これに当たることになり、憲法違反となることは間違いない。

では、「政治的中立性を損なう言論、その他公的助成にふさわしくない言論を行った者には、助成や補償を行わない」という選別があったら、どうだろうか。

これがもっとも切実な「問題」となってくる可能性はある。芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の補助金などにこうした思考が入り込んでいなかったか、という問題は、いまだに不透明なままである。この問題そのものは別に論じることとしたいが、助成対象者の選別の中に言論統制の動機が紛れ込みやすい、という問題は指摘しておきたい。

そして最後に、もう一度、混同してはならない「緊急事態条項」との関係を見ておこう。

今、各人が自粛の意味を理解せずに、自粛疲れから感染を拡大させる行動をとってしまうと、より強力な方策がとられる可能性が高まる。あるいは、「今回の緊急事態宣言と措置では目的を達することができないので、憲法改正によってより強力な緊急事態法制を実施できるようにしよう」という議論に結び付きやすくなる。これが危険なのである。

だからこそ、言論の内容にかかわらず、今、いっときだけは、不特定者が参集する集会を我慢しよう、別の伝達方法を模索しよう、と呼びかける立場を筆者はとっている。自粛を必要とする事態が去ったときには迅速に表現の方法選択の「自由」を立て直すべきことが、その呼びかけの前提にあることを、最後に確認しておきたい。(了)

☆本稿は、憲法全体の構成に照らした解説を含む別原稿から、「集会の自由」の部分を抽出したダイジェスト原稿です。

この記事のもとになった詳細版は、電子ジャーナル「シノドス」に掲載されています。

https://synodos.jp/politics/23451

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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