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「ここが故郷のよう」、朝鮮戦争期の民間人虐殺現場で遺族が明かした悲しみと願い

徐台教ソウル在住ジャーナリスト。『コリア・フォーカス』編集長
今年9月、コルリョンコルの発掘現場を見守る全美暻さん。林在根さん提供。

2022年、朝鮮戦争は休戦から69年目を迎える。参戦兵士も高齢化し戦争の記憶も薄れる中、今なお癒えぬ痛みを抱え生きていく人たちがいる。名も無き白骨の裏に隠された朝鮮半島分断の一断面とは。

「発掘が行われている期間にはこの建物で寝泊まりしているのですが、皆に『よくこんな怖い所で眠れるな』と言われます。でも私は『アボジ(父)はどこにいるのかな』と思うと気が安らぐのです。私にとってここは故郷のようなものなのです」

今年10月、発掘現場に隣接する遺族会の事務所で、全美暻(チョン・ミギョン、73)さんは穏やかな表情を浮かべこう明かした。

虐殺現場が故郷——朝鮮半島の南北分断に関する取材をライフワークとする筆者にとって、これまでで最も心揺さぶられた言葉だった——とは、いったいどういうことなのか。その背景には今なお続く悲しい現実があった。

サンネコルリョンコル事件犠牲者遺族会会長を務める全美暻さん。直接インタビューは10月1日、電話インタビューは12月30日、31日にかけて行われた。筆者撮影。
サンネコルリョンコル事件犠牲者遺族会会長を務める全美暻さん。直接インタビューは10月1日、電話インタビューは12月30日、31日にかけて行われた。筆者撮影。

●骨が眠る谷、コルリョンコル

ソウルから南に200キロあまり。大田(テジョン)市郊外の山中に、サンネ(山内)コルリョンコルと呼ばれる地域がある。元は朗月(ナンウォル)洞と呼ばれていたこの地域は、2000年前後から「骨の霊の谷」を意味するコルリョンコルと呼ばれ始めた。

名前の由来は、この地でたくさんの骨が見つかるためだった。それもそのはず、同地は朝鮮戦争のさなか、韓国政府が民間人を多数虐殺した現場であった。

背景は多少複雑だ。1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の「南侵」により朝鮮戦争が始まった。3日後の6月28日には韓国の首都ソウルを占領するなど破竹の勢いで南下してくる北朝鮮軍を避け、当時の李承晩(イ・スンマン)大統領をはじめとする韓国政府指導部は大田市、そして東南端の釜山(プサン)市へと首都を移す。

この過程で、韓国の刑務所に収監されていた「左翼思想犯」や、「国民保導連盟」に元共産主義者や社会主義者として登録させられリスト化されていた民間人が、大量に殺された。

背景には「反共思想」があった。戦争の際、こうした「左翼分子」が共産主義を掲げる北朝鮮と組んで反乱を起こし社会に混乱を巻き起こすであろうという、とてつもない認識の下で行われた暴挙だった。

コルリョンコルの入り口に立てられた看板。「大田サンネコルリョンコル、民間人集団犠牲地」とある。「谷全体が虐殺地であった」とも書かれている。筆者撮影。
コルリョンコルの入り口に立てられた看板。「大田サンネコルリョンコル、民間人集団犠牲地」とある。「谷全体が虐殺地であった」とも書かれている。筆者撮影。

コルリョンコルで犠牲となったのは主に大田刑務所に収監されていた人々だった。ここには全国から——例えば1948年4月3日に済州島で起きた『済州4.3事件』に関連する人物など——多くの思想犯が集められていた。

1950年6月末から51年2月まで亡くなった犠牲者の数は、最大で7000人にのぼるとされる。彼らはトラックで現地に運ばれ、深さ1メートルほどの溝を掘らされた後、その前に10人ずつ並べられ、警察と憲兵の手で銃殺された。

虐殺当時の生々しい様子は、米軍の極秘資料からうかがえる。

虐殺当時、米極東司令部の駐韓連絡事務所の総責任者アボット少佐が記録した写真は、1950年9月23日、駐韓米国大使館所属武官のエドワード中佐の手で『韓国での政治犯処刑』という報告書にまとめられ、ワシントンの米陸軍情報部に報告された。

米国の国立文書記録管理庁(NARA)に保管されていたこの資料が1999年に機密解除となり、虐殺は公が知るものとなった。

米大使館による『韓国での政治犯処刑』報告書を説明した大きなパネルがコルリョンコルにある。筆者撮影。
米大使館による『韓国での政治犯処刑』報告書を説明した大きなパネルがコルリョンコルにある。筆者撮影。

●多数の薬莢

筆者が訪問した10月初旬、コルリョンコルの発掘作業は最終段階に差し掛かっていた。作業小屋となっている地元の小さな教会前の広場に張られて天幕では、10数人の市民が黙々と作業をしていた。

近づいてみると、きつい匂いがツンと鼻をついた。聞くと純度90%以上の工業用アセトンに漬けることで、発掘された骨に残った水分を完全に取り除くことができるのだという。傍らでは、白衣を着た男性2人が太い大腿骨を工業用カッターで切断していた。こちらは湿潤の具合を測るための作業とのことだった。

広い作業小屋に入るとすぐ、分類のため奥に並べてある骨が目に入るが、その量に驚いた。ざっと見ても数百にのぼる。さらに背後には作業を終えた骨を納めた数十個のクリアケースが積まれていた。小屋の片隅では、骨を一つ一つ撮影する作業が続けられていた。

アセトンで骨を洗浄するボランティアの市民。筆者撮影。
アセトンで骨を洗浄するボランティアの市民。筆者撮影。

小屋の奥に並べられた発掘された遺骨。筆者撮影。
小屋の奥に並べられた発掘された遺骨。筆者撮影。

遺骨は部位ごとに分類されていた。筆者撮影。
遺骨は部位ごとに分類されていた。筆者撮影。

比較的保存状態の良い遺骨。奥歯の形状で性別や年齢が判別できることがあるという。筆者撮影。
比較的保存状態の良い遺骨。奥歯の形状で性別や年齢が判別できることがあるという。筆者撮影。

作業の邪魔にならないように作業小屋の裏口を出ると、そこには発掘現場が広がっていた。長さは約100メートルほどだろうか、1メートルほどの深さも写真記録の通りだ。文字通り、虐殺現場を掘り起こした痕跡だ。

「今年6月から発掘が始まったのですが、思ったよりもたくさんの骨が見つかりました」。この日、筆者を案内してくれた林在根(イム・ジェグン、43)さんはこう語った。

北朝鮮学の博士号を持つ林さんは、地元・大田市の有志として、またサンネ(山内)コルリョンコル対策会議の執行委員長として複雑な発掘事業の実務を一手に担っている。この日も筆者の他に、ボランティアの方々、テレビ局の撮影、地元役場の一団といった訪問者への対応で忙しそうだった。

林さんは、前述した虐殺当時の写真を前に「薬莢が遺品として多く出土する。憲兵が持つM1ギャラクシー銃のものと、それよりも小さい口径のカービン銃のものがあり、韓国政府の関わりを証明している。そして45口径のものがあるが、これは将校の拳銃のもので、発砲後にもまだ生きている市民に向かって、至近から打ち込んだものだ」と説明してくれた。写真の中には犠牲者がカメラの側を向いているものもあった。思わず目を閉じた。

また、林さんは虐殺現場を見付ける方法も教えてくれた。「米軍の記録写真の背景と、現在の地形とを重ね合わせ、共通点を見付けることで特定していく」のだという。「山は変わらないですから」という言葉には重みがあった。

林在根さん。コルリョンコル発掘事業には欠かせない人物だ。筆者撮影。
林在根さん。コルリョンコル発掘事業には欠かせない人物だ。筆者撮影。

虐殺が行われた現場、白線の間の区域で多数の人骨や薬莢が発見された。筆者撮影。
虐殺が行われた現場、白線の間の区域で多数の人骨や薬莢が発見された。筆者撮影。

発掘された薬莢。筆者撮影。
発掘された薬莢。筆者撮影。

虐殺当時の写真を現在の写真に重ね合わせ、場所を特定する。林在根さん提供。
虐殺当時の写真を現在の写真に重ね合わせ、場所を特定する。林在根さん提供。

●朝鮮戦争当時の「虐殺」

一通り発掘現場を見た後で、隣接する遺族会の事務所に呼ばれ、お昼ご飯をご馳走になった。冒頭で紹介した全美暻さんをはじめ、遺族会に所属する4人の女性が発掘支援ボランティアに訪れる市民に食事を振る舞っているのだという。聞くと、いずれの方も父がコルリョンコルで虐殺されていた。

「遺族会には現在約70人が名を連ねているが、いずれも高齢で会を維持するのも簡単ではない」と全さんは語ってくれた。それでも発掘期間中には毎日車で1時間以上かけて、自宅から事務所に通うのだという。

「のろのろと高速道路を運転していると、後ろからどんどん煽られる。そんな時には『ふざけるな、こっちはアボジに会いに行くところなんだぞ!』と意気込むんです」と全さんはいたずらっぽい顔で語った。

1927年10月18日生まれの全さんの父・全在興(チョン・ジェフン)さんは1951年3月4日、コルリョンコルで銃殺された。右翼人士を殺害した容疑で同年2月21日に死刑判決を受けたためだった。

在りし日の全在興(チョン・ジェフン)さん。全美暻さん提供。
在りし日の全在興(チョン・ジェフン)さん。全美暻さん提供。

しかしこれは冤罪だった。当時、韓国陸軍の軍法会議は全在興さんに拷問を加え、自供だけを証拠に国防警備法32条違反の罪を着せた。

1962年に廃止された同法では当時、「直接、間接的に武器、弾薬、糧食、金銭その他の物資をもって敵を救援もしくは救援を企図したり、または故意に敵を隠匿もしくは保護したり、または敵と通信もしくは敵に情報を提供する者を軍法会議により死刑またはその他の刑罰に処する」とされていた。

つまり、全在興さんは北朝鮮に「賦役」したと判断されたのだった。この部分に朝鮮戦争時代の悲劇がある。前述したように1950年6月25日に韓国に攻め込んだ北朝鮮は、同年9月には韓国国土の9割を制圧する。大田市も当然この中に含まれていた。

占領した地では北朝鮮式の人民委員会が置かれ、避難せずにとどまっていた住民にこの制度に従うことを命じる。これを断る場合、右翼人士と見なされ食糧の配給を得られないなど生活上の不利益をこうむることになり、反抗すると殺されることもあった。

一方で、同年9月15日に米韓軍(国連軍)が黄海側(西海岸)で仁川(インチョン)上陸作戦を成功させ、9月28日にはソウルを北朝鮮の手から取り戻す。そして韓国全土が再び韓国政府の施政下に置かれるのだが、今度は「占領中、北朝鮮に協力した」として韓国政府が罪のない市民を虐殺し始めたのである。全在興さんはこのケースにあたる。

こうした南北双方による民間人虐殺は1951年半ばに戦線が38度線上で膠着するまで何度も繰り返された。なお、朝鮮戦争期(1950年6月〜53年7月)に韓国で起きた民間人の集団虐殺事件は数千件にのぼり、犠牲者は最大で数十万人にのぼるとされる。

虐殺当時に、現場で撮られた写真。コルリョンコルの資料写真より引用。
虐殺当時に、現場で撮られた写真。コルリョンコルの資料写真より引用。

●全美暻さんの涙

2歳の時に父を失い、5歳の時には母が実家に強制的に再婚させられたことで家を出ていってしまった後、全美暻さんは祖父母に育てられた。

戸籍も父の下ではなく、朝鮮戦争時代に北朝鮮にわたった叔父の下に入れられた。1950年代から60年代にかけての韓国には、強い反共主義と連座制がはびこっていた。全さんも「アカ(共産主義者)の娘」と馬鹿にされ悔しい思いをした。

全さんはしかし、父がコルリョンコルで犠牲になったことを知らなかった。祖父母が隠していたためだ。

「『父は立派な人物だ』と聞かされて育ったので、いつか父が戻ってくると思い、その時のために『仕返しノート』をつけていました。父に告げ口して、仇をとってもらおうと準備していたのです」。

しかし、祖父母が亡くなってかなりの時間が経った30年ほど前、同郷の人を通じ、父がコルリョンコルで殺されたことを知る。「その後、追悼碑の前で泣きながら『仕返しノート』を焼きました」。この時、気丈に言葉を紡いできた全美暻さんの目から光るものがこぼれ落ちた。

コルリョンコルに建てられた追悼碑。以前、傷つけられ文字を刻み直したこともあった。筆者撮影。
コルリョンコルに建てられた追悼碑。以前、傷つけられ文字を刻み直したこともあった。筆者撮影。

一方で、全さんは父・全在興さんの名誉回復を諦めなかった。被害者とされた右翼人士の娘に会い証言を集め、軍法会議当時の陸軍本部の資料を発見するなど、血の滲む努力を重ねた。

結果、2010年に韓国政府機関の過去事真相究明委員会を通じ「当時の軍法会議で嫌疑が充分に立証されなかった」との判断を得た。これを元に再審請求を行い、ついに2013年に無罪を獲得した。

この時、全さんは「空がついに晴れた」と感じたという。そして判決文を手にコルリョンコルを訪れ、亡き父に報告した。あまりに長い時間、その場を動かず泣き続けたため、近所に住む人が心配になって声をかけるほどだった。

また祖父母の墓前に報告も行った。詩人でもある全美暻さんはこの時のことを『祖父母に捧げる書』として詩に残し、碑文に刻んだ。詩の最後の部分にはこうある。

…ここに長男の無罪判決と名誉回復を

祖父母の霊前に捧げます

あなたのいるその場所で

父に出会ったならば

肩をいっぱいに広げ堂々と

パルゲンイ(アカ)という3文字をびりびりと破り

忘却の川に投げ捨て

永眠するよう伝えてください

●「治癒」のための発掘

「発掘を通じ、証言者の証言が正しく、記録写真の残された痕跡が正しいのかを、正確にファクトチェックできる」。

こう語るのは、発掘団の共同代表を務める朴善周(パク・ソンジュ、74)さんだ。忠北大学の考古美術史学科名誉教授でもある朴さんは、1997年から北海道で植民地時代の朝鮮人強制徴用者の遺骨発掘事業などに関わった後、2000年から韓国軍の遺骸発掘事業に参加した、この道の第一人者だ。

戦死者中心で行われていた発掘事業が転機を迎えたのは、2005年の「真実・和解のための過去時整理基本法」の成立だ。

この法律により、『真実・和解のための過去事整理委員会』が発足し、日本の植民地支配期から1945年の解放そして50〜53年までの朝鮮戦争期、さらに権威主義時代までの中で真相究明を求める事件を受け付けた。

「その中に30か所の集団埋葬地があり、うち11か所に発掘団長として参加した」とする朴さんは、2015年から昨年までコルリョンコルの発掘団長を務めた後、今は責任研究者として発掘を指揮している。

発掘を指揮する朴善柱名誉教授。深い経験に裏打ちされた説明は印象的だった。筆者撮影。
発掘を指揮する朴善柱名誉教授。深い経験に裏打ちされた説明は印象的だった。筆者撮影。

「国はこうした作業を嫌がるのではないか」と尋ねると、「以前と比べ考えが変わった」と述べ、発掘事業の意義をこう語った。

「国は『当時は仕方無かった』と言うが、すべての事が法的な手続きにのっとって行われた訳ではない。韓国がこれからしっかりとした先進国になるためには、過去に行った過ちを正直に認め、それに対する治療を行う必要がある。そうやって社会として治癒される。虐殺の犠牲となった家族たちは言葉に出せずに生きてきた。その方たちを治癒できない限り、韓国社会の『統合』というのはあり得ない。そのための方法の一つが発掘事業だ」。

コルリョンコルの発掘は今年を含め4度にわたって行われた。2007年には国が、2015年には民間が、そして昨年と今年は国が行った。

6月7日から10月15日にかけて行われた4度目の発掘事業では、3つの区域から9723点の骨と1606点の遺品が見つかった。中には子どもの遺骨も見つかっている。確認できる最小の人数は962人とのことだ。

各区域の遺骸と遺品を納めた箱は214個にのぼり、これは11月2日、世宗市にある追慕の家に安置された。

なお、遺骨の損傷が激しいため、身元が判明することはほとんどない。

今年11月2日に行われた安置式に参加した全美暻さん(先頭)。林在根さん提供。
今年11月2日に行われた安置式に参加した全美暻さん(先頭)。林在根さん提供。

●「世界で一番長い墓」

コルリョンコルで集団虐殺が行われた区域は東西1キロにわたるとされ、このことから「世界で一番長い墓」と呼ばれる。

ここに2024年6月の竣工を目処に、約40億円の予算で『真実と和解の森』が造成される計画が決まっている。これは大田市だけでなく、朝鮮戦争期に全国で起きた民間人虐殺の犠牲者を追悼するための平和公園だ。

22年6月に工事が始まる予定だが、前出の林在根さんは「計画はこれまでも延期されており、実際に始まるかはまだ分からない。発掘との兼ね合いもあり変更される可能性もある」と指摘する。

それではコルリョンコルは今後、大団円を迎えるのだろうか。

こう尋ねる筆者に、全美暻さんは「全国で100万人、コルリョンコルだけで7000人が亡くなったのに、加害者は一人もいない。加害者の謝罪が無い限り、完全な真実究明と和解はあり得ない」と強調した。

「悲劇」という言葉で簡単に片付ける訳にはいかないということだ。虐殺命令を下し、実行した人物が存在するという点を見逃してはならない。

一例を挙げると、1950年6月末から7月初頭にかけてコルリョンコルで虐殺が行われた当時、現場で指揮したシム・ヨンヒョン中尉は1954年に退役後、ソウルの誠心女子大を運営する法人の理事長を務め1986年まで生きたことが分かっている。そして2019年、同大の理事長が過去のシム氏の行状について正式に謝罪した。

発掘現場。今はまた埋められている。全美暻さんによると、今も現場を歩くと遺骨のかけらが見つかるという。筆者撮影。
発掘現場。今はまた埋められている。全美暻さんによると、今も現場を歩くと遺骨のかけらが見つかるという。筆者撮影。

一方で、シム氏に指揮を下した人物は別に存在する。前出の米エドワード中佐の報告書には「こうした処刑命令は疑いの余地なく(韓国の)最高位層から下されたものだ」とある点は見逃せない。

当時の韓国大統領・李承晩が直接に命令を下したかどうかは、今となっては分からない。しかし今からでも政府が謝罪することはできる。

全さんは「政府が大田コルリョンコルに対し謝罪をして初めて真の和解が生まれる。私も韓国の国民なので、政府の謝罪を受けたら一歩下がることはできる」と述べた。大統領の謝罪が必要だということだ。

これについて林さんも、「政府が全ての虐殺現場を一つ一つ訪れ謝罪するのは簡単ではないだろうが、国に裏切られ親族の命を奪われた遺族の立場ではわだかまりを解くきっかけになるはずだ」と見解を明かした。

●今なお続く「分断」

1990年に再統一を果たした東西ドイツの事例は、南北統一を目指す韓国では頻繁に引用され、参考となっている。しかし、ドイツと朝鮮半島は同じ民族が互いに殺し合い、双方の国でそれぞれ人口の1割近い犠牲者が出た戦争の有無という点で、決定的に異なる。

そして戦争の傷跡は、見てきたように今なお遺族たちを苦しめている。加害者はその都度変わったが、被害者は常に弱い一般の市民たちだった。

今年も南北関係は「凪(なぎ)」のままだった。朝鮮戦争は終わらず、人々の傷跡も癒えないままだ。先行きも全く見えない。しかし、そんな暗い思いを吹き飛ばす力を全美暻さんから感じたのもまた事実だ。

全さんは「平和公園が完工し、アボジの名前3文字を刻むまでは死んでも死にきれない。その時まで見守っていてほしいと天に願っている」と語る。コルリョンコルに春が来るその日が待ち遠しい。

(2021年の発掘当時の様子を収めた映像。発掘団提供)

ソウル在住ジャーナリスト。『コリア・フォーカス』編集長

群馬県生まれの在日コリアン3世。1999年からソウルに住み人権NGO代表や日本メディアの記者として朝鮮半島問題に関わる。2015年韓国に「永住帰国」すると同時に独立。16年10月から半年以上「ろうそくデモ」と朴槿恵大統領弾劾に伴う大統領選挙を密着取材。17年5月に韓国政治、南北関係など朝鮮半島情勢を扱う『コリアン・ポリティクス』を創刊。20年2月に朝鮮半島と日本の社会問題を解決するメディア『ニュースタンス』への転換を経て、23年9月から再び朝鮮半島情勢に焦点を当てる『コリア・フォーカス』にリニューアル。ソウル外国人特派員協会(SFCC)正会員。22年「第7回鶴峰賞言論部門優秀賞」受賞。

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