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中学生の自殺を受けて、教育のあり方について考えたこと(1)

妹尾昌俊教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表理事
写真はイメージ(写真:ペイレスイメージズ/アフロイメージマート)

 ちょうど1年前の2019年7月3日、岐阜市の一人の中学3年生が自ら命を絶ちました

 金銭の要求や暴力を受けていたほか、和式大便器の前で土下座させられるなど、学校でのいじめが原因と見られています。学校は、別の生徒からの訴えやアンケート調査などから、少なくとも2度SOSを受け取っていたにもかかわらず、有効な手立てを講じることはありませんでした。この市立中学校は、「実習校」と呼ばれる岐阜県独特の制度のモデル校のひとつで、数多くの教育実習生たちの育成に尽力し、研究発表なども熱心に行う学校として、知られていました。その反面、教職員は非常に多忙な日々であったことがわかっています。(参考:岐阜新聞2019年12月24日、朝日新聞2019年12月27日。)

 実習校だからこういう事態になったとは言い切れませんし、多忙を言い訳にできる話でもないと思います。どこの学校でも起きうることかもしれません。ですが、いや、だからこそ、岐阜市の教育で、どこかおかしいことになっているところはないのか。わたしも委員のひとりとして参加した「岐阜市公教育検討会議」は、そんな問題意識からスタートしました(市長に対して提言する会議です)。ちょうど、今日、その提言(答申)が市長に手渡される予定です。

 当該いじめについては、この会議とは別の第三者委員会が事実関係等を検証し、報告書を出しています。ですから、公教育検討会議では、いじめ問題だけを議論したわけではなく、コロナ禍のなかで見てきたことなども含めて、幅広い論点を検討しました。

 きょうは、この提言書のポイントを紹介したいと思います。おそらく、岐阜市以外の地域にとっても、参考になることが含まれていると思うからです。ただし、本稿は、妹尾の個人の見解であり、検討会議や岐阜市の見解ではないことはお断りします。

※ほどなく岐阜市のウェブページで提言書は公表されると思いますが、本稿では、提言案(第9回資料)をもとに記述します。

■提言に込めた想い

 この手の提言書は、無味乾燥な文章になりがちですが、今回は、最初のページに、提言に込めた想いと願いを書いています。一部を引用します。

2019年7月3日、岐阜市の一人の中学生の尊い命が失われました。

この事実を前にして、岐阜市の教育を改めて一から見つめ直し、

このような悲しいできごとを決して繰り返してはいけないという強い決意と、

すべての子どもたちが未来に希望を持てる学び・成長の場づくりを実現してもらいたいという願いを込めた提言であることをまずはじめにお伝えします。

おりしも、新型コロナウイルス感染症の脅威は、

進展しつつある教育改革の流れを加速度的に大きなうねりとし、

これまで育んできた子どもたちの資質・能力や、積み重ねてきた学校のさまざまな価値や機能、

そして、家庭や地域における教育のあり方について、根底から問い直す契機となっています。

これほどまでに予測困難な時代の只中にあっても、さらに、この先どんなに社会が大きく変化したとしても、

岐阜市のすべての子どもたちが、

命ほど尊いものはないということを常に心に留め置きながら、

自分も家族も仲間も大切にするとともに、自らの力で、自らの選択と行動によって、

それぞれが思い描く幸せな未来を実現していってほしいと願っています。

 そのうえで、この提言では、岐阜市の教育に最も重要視してほしい理念を書いています。

提言案(概要版)より抜粋
提言案(概要版)より抜粋

 すべての子どもの「自由の相互承認の感度を高める」教育を推進する、とあります。これは、この会議でゲストスピーチもしていただいた、熊本大学の苫野一徳准教授からの提案を踏まえたものですが、正直、わかりづらい部分もあるかと思います。

 わたしなりの理解になりますが、子どもたちには活き活きと自分の望むように生きてほしい。でも、同時に、他者の自由を大切にする子になってほしい、という思いが込められています。岐阜の話ではありませんが、「みんなの学校」という映画にもなった、大阪市立大空小学校での約束(ルール)はひとつだけです。それは、「自分がされていやなことは人にしない、言わない」。このことに近い部分もあると思います。

 いじめや暴力をはじめとする人権侵害は、自由の相互承認ができていない最たる例です。

 おそらく、「すべての子どもたちの人権を守る学校にする」と書いても、あまり中身としては大きな差はなかったかもしれません。ですが、そう書くと、「人権教育や道徳教育はさんざんやっているよ」という反応に、教育委員会職員も教職員もなりかねません。実際、そんななか、つい1年前に悲しいことが起きたわけですから、「これまででは足りなかったことがあるのではないか」という強烈な反省を含む理念にしないといけなかった。だから、やや難解に聞こえる「自由の相互承認」という考え方をもってきた、とわたしは解釈しています。

 ただし、「オレは自由だ~!」と荒野を駈けて行っても、(そういう生き方があってもけっこうなことだと思いますが)、多くの子どもたちはたぶん、幸せになりません。裸一貫で世の中に出て行っても苦労しますよね。そこで、提言では「子どもたちのウェルビーイングを高め、未来の幸せをつくる力を育む」とも書いています。

(写真素材:photo AC)
(写真素材:photo AC)

■きれいな言葉を並べるだけではダメ

 岐阜市にかぎったことではありませんが、行政や有識者がつくる提言や計画というのは、たいてい、美辞麗句がたくさん散りばめられています。大切なことは、お化粧をしただけで満足しない、ということだと思います。わたしも会議の最終回では、理念をどう具体化するか、どこまで浸透させるかが今後の鍵だと申し上げました。

 企業理念なども同じですが、たびたび、日々の活動は理念に沿っているか、ちゃんとした方向に行っているか、振り返ることが必要です。たとえば、具体的な話をすれば、岐阜市を含む岐阜県各地では、学校が早めに終わった日であっても、子どもたちは16時以前は外出禁止という「4時禁ルール」を敷く学校があるそうです(岐阜新聞2020年01月21日)。家庭教育の領域に踏み込み、子どもたちの自由な時間の使い方を制約しようとするこの動きは、果たして「自由の相互承認の感度を高める」教育になっていると言えるのでしょうか?

 あるいは、コロナ禍だからといって、子どもたちにガマンばかり強いるような学校、教育行政であるとすれば、それは問題でしょう。小学生に1日7時間目まで疲れても授業を受けなさいとか、感染が心配だからと言って、ちょっとしたおしゃべりを叱りつけるとか。

 また、「自由の相互承認」や「子どもたちのウェルビーイングを高め、未来の幸せをつくる力を育む」などときれいなことを述べておいて、先生たちを酷使する、たとえば、土曜授業をたくさん行って、振替や有給休暇もろくに取れないような動きをしているとすれば、これも疑問です。(岐阜市では他自治体よりも長い学校閉庁日を昨年度設けていましたので、その点はよい動きかと思います。)

 先生たちの福祉やウェルビーイングがないがしろにされた状態で、子どもたちにもよいわけがありません。公教育検討会議では、土曜授業のあり方などもしっかり見直してほしいと述べています。

 このように、理念なり方針に照らして、具体的なことを見つめ直すことが大事だと思います。

 同じようなことは、学習指導要領などでも言えます。理念の部分、子どもたちにどのような資質・能力を育てたいのかという箇所がもっとも重要なはずなのに、いつの間にか、授業時間を確保しないといけない、といった手段のほうばかりに目が向いている教育関係者が少なからずいます。

 今回の提言がどれだけ岐阜市の教育に影響するかは、まだわかりません。今後にかかっていますし、わたしも協力、推進したいと思いますが、近い将来、岐阜市の小学生や中学生が、「自由の相互承認を大切にするなら、こういう態度をクラスメイトにとるのは、どうなのかな」とか「学校行事を生徒が企画していくけど、特定の子だけが全然楽しめないような行事にしてしまうと、それは自由の相互承認になっていないのかもしれない」といった会話が生まれるかもしれません。

 さて、問題は、理念が立派なものであったとしても、果たして、学校にどれほどの体力が残っているかです。次回の記事(2)では、この問題などを扱います。

中学生の自殺を受けて、教育のあり方について考えたこと(2)

☆妹尾の記事一覧

https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/

教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表理事

徳島県出身。野村総合研究所を経て2016年から独立し、全国各地で学校、教育委員会向けの研修・講演、コンサルティングなどを手がけている。5人の子育て中。学校業務改善アドバイザー(文科省等より委嘱)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁、文化庁の部活動ガイドライン作成検討会議委員、文科省・校務の情報化の在り方に関する専門家会議委員等を歴任。主な著書に『変わる学校、変わらない学校』、『教師崩壊』、『教師と学校の失敗学:なぜ変化に対応できないのか』、『こうすれば、学校は変わる!「忙しいのは当たり前」への挑戦』、『学校をおもしろくする思考法』等。コンタクト、お気軽にどうぞ。

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