土俵の女人禁制という「嘘の伝統」―人命と女の子の夢を賭けるべきか

2018年の国際女性デーに(上海)(写真:ロイター/アフロ)

相撲の土俵と女性をめぐって話題となっている。

きっかけは、4月4日に京都府舞鶴市長が土俵上で倒れ、女性が救命措置をしている最中に、行事が場内アナウンスで女性は土俵から降りるようにと繰り返したことである。

もしも女性たちが、土俵の「女人禁制」を律儀に守っていたとしたら、重職にあるひとの命が失われていたかもしれない。ためらわずに緊急医療を続けた女性たちの判断を、間違いだったという人は少ないだろう。市長自身がのちに感謝の念を述べている。

今回の騒ぎを受けてだろう。日本相撲協会は、8日の静岡場所の「ちびっ子相撲」での女児の出場を、禁止するように要請したそうだ。以前にも出場して楽しみにしていたにもかかわらず、突然、排除された女の子の失望は察して余りある。

しかも協会は取材に答えて、「安全面を考慮した」という。スポーツの危険性が性別で異なるというなら、欺瞞である。問題は性別ではなく、体格や運動神経、そのスポーツの経験歴で測られるべきだからだ。

女性の官房長官が誕生しても、市長が誕生しても、土俵にあがることは拒否されてきた。私自身、発言はしてこなかったが、小学生の女の子まで排除するというのであれば、不当さを訴えたい。

「女性活躍」が謳われながら、小学生の子どもの段階で、性別を理由にした差別に直面させるのはあまりの仕打ちではないか。問題は相撲に留まらない。そもそも相撲をしたいというユニークな女の子が、将来に絶望しないかが心配だ。この女の子が今後、いろいろな意欲を失わないように祈るばかりだ。

はっきりという。これは、差別である。

問題は「差別か伝統か」ではない。社会学や歴史学の分野において「伝統」は、疑問が投げかけられる言葉である。ホブスボームという歴史学者は、「伝統の発明」と呼んでいる。多くの伝統は近代に作られ、いつ作られたのか、もっとはっきりいえば、いつ「捏造」されたのか、その起源の日付までたどることのできるものなのだ

そもそも相撲も、興行のために柱を外すなど、商業主義的な側面を重視して都合の良い変更を遂げていることは有名だ。江戸時代は女相撲が盛んであり、明治になっても続けられている。しかし相撲界は、女相撲に関心は払ってはおらず、むしろ警察が裸体でという風紀の観点から取り締まりをしたという(吉崎祥司・稲野一彦「相撲における『女人禁制の伝統』について」)*。

裸で取り組みをする見世物であった相撲の地位を高めたのは、明治時代の「国技」という名づけである。しかしこれは、相撲界の「自称」にすぎなかった。吉崎・稲野さんによれば、「相撲の地位を確固たるものにのし上げた大傑作」の命名というべきものだ。

そして両氏によれば、女人禁制という伝統もまた「虚構」であるという。明治時代に、裸で行う相撲を「見世物」ではなく「国技」にまで高めようとするときに、女相撲などは不都合であった。「文明開化」の流れの中で、列強の目も意識したのではないか。そこで神道の穢れ観を「利用」することで、「女人禁制という伝統が虚構」されたのではないか、と疑問が投げかけられている。

このような「伝統」は、人の命を危険にさらし、少女の夢を踏みつぶしてまで、守るべきものなのだろうか。「伝統」とは変わり得るものである。21世紀の現在、今回の騒ぎは外国でも報道されている。むしろこのような差別は、「文明」国の名に値しないと思われているのだ。再考をお願いしたい。

*ネットで読める吉崎祥司・稲野一彦論文のほかにも、「伝統の発明」としての相撲や女相撲にかんしては、多くの研究がある。