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ボブ・ディランの歌詞は、誰のものか――京大のJASRAC騒動をめぐって

千田有紀武蔵大学社会学部教授(社会学)
京都大学(写真:アフロ)

京都大学総長が式辞に、ボブ・ディランの歌詞を使った。その式辞をHPに掲載したことに対して、日本音楽著作権協会(JASRAC)が著作権料を請求したという報道は、その後の、JASRACが問い合わせたにとどまったのではないかとなっている(入学式の式辞、歌詞利用にお金かかる? 京大「正当な引用」 JASRAC「問い合わせただけで請求していない」

JASRACといえば、音楽教室から著作権使用料を徴収する方針を打ち出したことに対し、ヤマハ音楽振興会が支払い義務がないことを確認する訴訟を起こしたばかりである(ヤマハがJASRAC提訴へ 教室演奏の著作権料巡り)。いずれにせよ、歌詞の使用をめぐって、ここのところ、さまざまな問題が噴出している。

「誰もいなくて淋しいときは、鼻歌を歌ってみれば、JASRACが来てくれる」という冗談(もちろん冗談である)すらささやかれる始末である。歌詞の使用は難しい局面を迎えている。

問題は忖度(そんたく)

JASRACが請求したのか、問い合わせただけなのか、真偽はわからないが、いずれにせよ、研究者を含めて、「権利」の問題にはセンシティヴにならざるを得ない。祝辞は、漠然と歌詞を引用したのではなく、歌詞の部分を、文脈を特定し、必然性をもって、出典を明らかにしながら、検討するために引用したにすぎない。これがだめだといわれれば、研究者は歌についての歌詞を検討することすら、難しくなる。

実際、私も以前、『アナと雪の女王』についての日米の台詞の比較のニュースを書いたことがある(日本版『アナと雪の女王』現象とは何だったのか―英語版とまったく違う物語の秘密)。そこで、英語の歌詞を自分で翻訳した部分はともかく、日本語の歌詞を引用するときに、戸惑ってしまった。

ここは歌詞であるため、(本来は学術的に部分的に引用することが許されているにしても)引用することがためらわれるが、「戸惑い」「傷つき」「誰にも打ち明けられないで悩んでいた」といった類の言葉で構成されている箇所にあたる。

出典:日本版『アナと雪の女王』現象とは何だったのか―英語版とまったく違う物語の秘密

結局、あまりに有名な歌であるから、皆がわかるだろうという期待を込めて、部分的なキーワードを拾うにとどめた。有名でない歌の場合には、さらに難しかっただろう。映画の翻訳の比較のニュースで、歌詞の部分の比較すら、慎重になるのである。こういうことが続けば、「歌には触らない」ことが安全だという判断を呼び起こすだろう。

このニュースは練馬区と大学の共催公開講座の講演をもとにしている。無料で学術的なものであるが、権利関係の厳しい映画であるので、現物の該当シーンの上映はもちろん、パワーポイントでの場面の静止画や歌詞を写すことも控えた。そのため、講演としてはいまいちわかりにくいものになってしまった。具体的なシーンをまったく見せることなく、映画の話をすることには無理がある。しかしやはり、ここまで権利関係に厳しくなってきていると、ある程度の「忖度」を行わざるを得ない。

私の文章は私のものか? 文化は誰が所有できるのか?

入試の季節が終わると、いくつかの通知が舞い込んでくる。私の駄文が試験問題(大学入試から、中学受験のための統一模試まで、さまざま)に採用されたので、その問題を収録したいという申し出である。いくばくかのお金をいただけるのだが、個人的には複雑な気持ちである。

文章のほんの一部を使っただけであるので、別にお金はいらないし、それで私の文章に触れて、著作でも買っていただけるなら(名前を憶えて、ヤフーニュースでも読んでもらえるのなら)、それはそれでもうありがたいと思う。

もちろん、入試問題に使われるのが嫌だという作家さんもいて、「作品を断片化して、問題の素材にされてしまうという行為に耐えられない」というような気持ちも、もちろん理解可能である(そういう作家さんのものは、使用が控えられている)。

確かに、私の文章が他の人の名前で発表されたり、丸ごと勝手に販売されたら、それは困る。しかし私の文章はもうすでに私の手を離れて、ある意味でみんなが使える「公共財」にもなっているのだから、私自身は全面的にその文章の使用を独占しようという気にもならない。なぜなら私は学者であり、私が書く文章は、多くの先人たちの研究業績の蓄積を読ませてもらうことによって作りあげられるものであり、私の文章もまた、他の人に使ってもらいたい、そういう作業によって、知の共同体の発展に寄与したいとも考えるからである。

私は私が書いた文章を、どれくらい自分だけの労働の成果であると主張できるのか。

私が考えたことは、どれくらい、自分ひとりによって考えられたものなのか。

どこまでが先人たちの知恵の結果であり、どこからが自分のものなのか。

つきつめれば、私が今使っている日本語という言語すら、自分で作り出したものではない。そういった先人たちの積み重ねのなかで作られた言語を使っている限り、私のオリジナリティというものを、どこまで主張できるのだろうか。

私が私の文章に対して、「権利」をもつというのはそもそもどういうことなのだろうか。

いろいろなことを考える。

また文化のなかには、パロディであったり、オマージュといったものもある。

例えば、同人誌活動は著作権的には果てしなくグレーなものであるが、二次創作を突き動かしているのは、オリジナルの作品に対する愛であり、尊敬である。そうした二次創作によって、オリジナルの作品もまたファンを獲得することもある。

国民的な作品は、その作者ひとりのものではなく、ファンのものでもあり、私たちの文化を構成している。

しかしその一方で、作者が傷つけられるような作品世界に対する侮辱や侵害もまた、許されるものではない。

音楽の溢れる社会のために

本来、文化を発展させ守っていくはずの権利が、文化を先細らせるとしたら、それは本末転倒である。

「鼻歌を歌うにも躊躇する」という冗談が冗談でなくなるとき、私たちの周囲から音楽は消えていくだろう。

出典を明記して何かをいうための歌詞の引用、小さな集まりでの楽器の演奏やBGM、ひとと歌を歌ったり演奏したりすることが作者の権利を侵犯するかもしれないと考えたとき、「面倒くさいから音楽はやめよう」と、「もしも」に備えるのは、自然な流れである。

音楽の溢れる社会は素晴らしいと、個人的には思う。

誰かの権利を侵害することなく、私たちの文化を豊かにするためには、どうすればいいのだろうか。

簡単には答えの出ない問題であるが、JASRACにも一緒に考えてもらいたい。

武蔵大学社会学部教授(社会学)

1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、 武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。著作は『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』、『女性学/男性学』、共著に『ジェンダー論をつかむ』など多数。

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