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大学進学というリスク 奨学金制度を含む日本社会の教育制度の機能不全

千田有紀武蔵大学社会学部教授(社会学)
学ぶ喜びを多くの人に知ってもらいたいと思うのだが(写真:アフロ)

児童擁護施設出身大学生の要望に「進学は自己責任」「女の子はキャバクラに行く」という赤枝議員発言の意味という記事を書いた。「とりあえず中学を卒業した子どもたちは仕方なく親が行けってんで通信(課程)に行き、やっぱりだめで女の子はキャバクラ行ったりとか」、「高校や大学は自分の責任で行くものだ」といった赤枝議員の発言を批判したものだ。

ところが、この赤枝議員の「高校や大学は自分の責任で行くものだ」という発言と私の現行の奨学金制度の批判

これほどの借金を背負ってまで行く価値のあるものかと問われると、歯切れは悪くならざるを得ない。(中略)大学を出たからと言って、職があるという保証もない。この奨学金は、運よく一流企業に就職できたならば返還できる額だろうが、そうでなかった場合には、マイナスからのスタートである。まさに博打としか言いようがない。

出典:大学というブラックビジネス 人生のスタートから借金漬けになる学生たち

の発言を並べて、「どう異なるのでしょうか」、「高校生とその親に悪影響を及ぼしている」という意味で同じだと批判される記事が出た(石渡嶺司自民党赤枝議員「進学してもキャバクラ」発言と千田有紀教授の関連記事に寄せて)。石渡さんのご著書も拝読させていただいてきただけに、ちょっと淋しい気分である。

そもそも

奨学金や授業料そのものを批判していたのですらない(大学が授業料をとること自体は、批判できないだろう)。そういった「状況」がもたらされる社会のシステム、制度構築のありかたについて考察していたつもりなのだが。

出典:私が大学教授を辞めない理由 奨学金制度を批判する自由と義務

という私の記事を引いて、途中で「根本は大きく異なりますね」、「(千田教授の主張は)奨学金をめぐる現状はおかしい。だから、高等教育支援をもっと拡充すべきというところでしょうか」とおっしゃっているのだから、なんのために批判されているのか、よくわからなかった。ご自分の過去の記事をたくさんリンクを貼られた後、「今後も、奨学金の是非についても、大学進学の価値についても、感情論だけでなく、データも含めて、高校生はじめ読者の参考になるよう、記事を書いていく予定です」と結ばれているので、石渡さんのこれからの記事をお待ちください、といったところだろうか。

私もデータを引用しつつ、社会学者として分析しているので、感情論と言われれると「本当に記事をお読みになったのだろうか?」と疑問に思う。奨学金については、奨学金というリスク 中嶋よしふみさんの批判にこたえてにまとめたので是非読んでいただきたい。

石渡さんの記事のタイトルに、いちおう私の名前が入っているので、お返事をしなければいけないのだろう。しかしそれほどの論点があるわけでもないので、どうお返事していいものか。しかしもう一度、奨学金についての記事を書く機会を与えられたと思って、書いてみることにする。

1.まずお詫び

石渡さんの批判とは関係がないが、まずお詫びから。私の過去の記事の「体調を崩して大学を辞めたいという学生の奨学金の書類を見て驚いた。月々10万円、4年間で合計480万円を借りた結果、金利は3パーセントで、最終支払額が700万円を超えている」という個所が、物議をかもしたようだ。その後、ネットで見てみると、過去にも何回も、この問題が繰り返し炎上していることを知った。誤解を招いて申し訳なかった。

私も知らなかったのだが、日本学生支援機構は、最初に最大利息の3パーセントで計算した返還予定表を発行しているようだ。学生は、3パーセントの利息で将来いくら返還するかをまず知らされるのである。私が見せられたのは、この表であり、実際に適用される利息で計算されるのは、その後である。この表を見せられたときには、まさに息をのむほどの衝撃だった。同じシステムがまだ続いているのであれば、是非改めてあげて欲しい。素直にお詫びしたいと思う。

2.大学進学というリスク

石渡さんは、「では、奨学金をどの程度、借りて、どの程度の就職先なら返済可能か」という記事を「冷静」にお書きになるそうだが、どれほど冷静に書かれても、申し訳ないが、その試算に意味はないと思う。なぜなら奨学金の貸借はコントロールできるが、「どの程度の就職先なら返済可能か」のほうを決めるのは採用先の企業であり、いくら採用される側が就職先を考えても仕方がないからだ。私が「博打」と呼んだのは、こういう意味だ。

ひとは奨学金を借りるときに、おそらく正規雇用で自分が納得のできるような職に採用されると考えて金額を決める。しかし現実には、そうなる保障はない。就職留年するかもしれないし、思うような職は得られないかもしれない。私の勤務先は就職率は95パーセント、就職率第1位になったこともある大学である。実際にもっと偏差値の高い大学でも苦戦している事例を知っているだけに、「こんなに就職がよいのか」と着任した際に驚いたのだが、その大学にいてもやはり「リスク」は抱えてこんでいると日々感じる。そういう意味で博打なのだ。

なによりも、昨今の大学生がメンタルヘルスを崩しがちなのは、大学教員であれば誰でも知っていることだと思う。病気や体調不良で大学生活を続けられなくなったときに、奨学金はどうなるのか。日本学生支援機構の奨学金ばかりに焦点があたるが、そのほかの「奨学金」の金利はもっと高く、5パーセントなどというものもある。しかも留年しても、待ったなしで返還義務が来るものがある。となると、留年した場合、在学しながら奨学金を返還しなければならないという事態が起こってしまうのである。

人生には何が起こるのかわからない。そのことも考えたうえで、奨学金に関する決定はすべきだと思う。現状では、奨学金は個人の借金となってしまっているからである。こう指摘することが高校生やその親に「悪影響を及ぼしている」といわれても、事実は事実である。

私の記事によって簡単に進学を諦めるような高校生がいるほど、私の記事は読まれてはいないと思う。進学の際に、奨学金の返還が困難さに対しての注意喚起がされたのだったら、意味ないことではない。「リスクをわかったうえで、進学する」となるならそれはそれで(現状のシステムのうえでは)よい。少なくとも知らずに進学するよりはずっとよい。もしも私の記事に多大な影響力があったというのであれば、その後安倍政権も奨学金の拡充などの政策を提言しているという点では、有難いことである。是非、貸与型の奨学金を増やし、制度そのものを変革して欲しいと思う

3.経済合理性だけで大学進学だけを考えて欲しくない

石渡さんの主張は以下にまとめられている。

「奨学金を借りてでも、大学進学は博打などではなく価値がある」

「奨学金を借りずに、高卒就職や専門学校進学をする方が、貧困に陥る可能性が高い」

「就職は、大企業でなくても、高年収のところはいくらでもあり、きちんと返済できていく」

「就職は、大企業でなくても、高年収のところはいくらでもあり、きちんと返済できていく」という見込みが、必ずしもそうでない場合も考える必要があるということは先に述べた。

「奨学金を借りずに、高卒就職や専門学校進学をする方が、貧困に陥る可能性が高い」に関しては、一概にはいえない。専門学校進学の多くも、奨学金によって可能になっていることを、石渡さんもご存知ないわけはないだろう。奨学金という借金を背負わない高卒就職と奨学金を借りた大学進学という選択が、個人にとってどちらが良い結果を産むのかは、最後までわからないという意味での「博打」である。いや、両方できないだけに、一生わからないかもしれない。高卒の労働市場の変化が1990年代以降に起こっていることは、過去の記事で指摘したとおりである。

しかし「奨学金を借りてでも、(大学進学は博打などではなく)価値がある」という主張に関しては、かっこの部分をくくれば、私は信じている。石渡さんの主張とは違う意味ではあるが。

大学に進学するのは、大卒という資格を得るためだけではない。大学で学ぶ知識や教養、物の見方、批判的想像力といったものには、その後の人生において、何事にも替え難いものがあると、私は信じている。だからこそ、大学教員をやっているのである。

借金を背負わずとも、自由にじゅうぶんな教育を受ける権利が保障されるような社会を望みたい。大学などの高等教育だけではなく、小学校、中学校、高等学校と行った、初等中等教育においてもそれは同様である。

本来だったらもう少し丁寧に記事を書きたいと思うし、実際にもっと書きたいこともあるのだが、記事を早く出しておくことに意味があると考え、とりあえずここで終わらせてもらうことにする。

武蔵大学社会学部教授(社会学)

1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、 武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。著作は『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』、『女性学/男性学』、共著に『ジェンダー論をつかむ』など多数。

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