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お弁当時間「先生のお口怖い」と泣く園児―過敏なコロナ対策・マスク育児を考える

関谷秀子精神科医・法政大学現代福祉学部教授・博士(医学)
写真はイメージです(写真:maroke/イメージマート)

新型コロナウィルスの流行以来、外出するときにはマスクをつけることが当たり前になりました。感染対策として必要なマスクですが、人と人とのコミュニケーション上では弊害になることもあります。外来診療では、私も患者さんもマスクをしながら会話をしますが、声が聞こえにくいので聞き返さなければならなかったり、口元の動きが見えないので微妙な表情がわかりにくいことも少なくありません。

では、マスク着用によるコミュニケーションは子どもの発達にも影響を与えるのでしょうか。今後更なる検討が必要と思われますが、1つのケースをもとに「マスク育児」について考えてみましょう。

家族内感染を恐れ家でもマスク生活

 先日、30代後半の女性が二人の娘の相談に来院しました。AちゃんとBちゃんのお母さんです。マスクの上からフェイスガードをつけ、幼稚園生のAちゃんと手をつなぎ、胸の抱っこ紐にはBちゃんが眠っていました。お母さんは顔色が悪く、二人の幼い子どもの育児に疲れ果てた様子でした。

 話を聞いてみると、「連休明けからAの登園しぶりが始まり、行ったとしてもお弁当の時間になると泣いてしまうので困っている」とのことでした。

 4月に入園し、ようやく幼稚園に慣れてきた子どもも、連休明けからお母さんと離れることが再び不安になり、なかなかすんなり幼稚園に行かれない、という相談を受けることがこの時期には時々あります。

 Aちゃんは、近所の小さな幼稚園に通っています。4月は午前中の早帰りでしたが、連休明けからはお弁当を食べて帰宅することになりました。Aちゃんが泣いてしまうのはお昼のお弁当の時間とのことでした。お弁当の時間には先生も子どもたちもマスクをはずし、一人ずつパーテーションで区切ったスペースで食べます。先生がマスクをはずすとAちゃんは怖がって泣いてしまうということでした。Aちゃんはお弁当の時間を嫌がるようになり、今は登園したとしてもお弁当の時間の前に家に帰ってきていました。

 診察室でAちゃんはお母さんにぴったりくっついて座っていましたが、私が話しかけるとお母さんのスカートを引っ張りながら、「Aはお家で食べるのがいいの」と言います。続けて、「先生のお口が怖いの」と話しました。

 Aちゃんのお母さんは、昨年妹のBちゃんを出産しました。コロナが流行している時期に妊娠、出産の時期が重なったため、「妊婦がコロナになったらどうなってしまうのか。お腹の子どもはどうなってしまうのか」という強い不安から自分もAちゃんもコロナに罹らないように神経をとがらせて生活をしてきました。そんなある日、テレビ番組で「家族内感染」について知りました。Aちゃんから自分に感染する可能性、自分からAちゃんに感染する可能性、更にお腹の子どもへの影響を考えて怖くなったお母さんは家でもマスクをつけることにしました。そして家族内感染対策の情報を色々調べ、Aちゃんと別々に食事をすることに決めました。Aちゃんはお母さんとお話をしながら一緒に食事をすることが好きでしたが、お母さんに強く言い渡され、しぶしぶそれに従うようになったそうです。

感染を恐れて抱っこすることに疲れた母親

 さて、妹のBちゃんは半年を過ぎる頃、抱っこしているお母さんのマスクを引っ張って、顔を触るようになってきました。お母さんの口をこじ開けようとしたり、鼻の穴に指を入れようとします。お母さんが止めようとしてもBちゃんはそれをやめません。もしも自分の顔からBちゃんにウィルスがうつったらどうしよう、と心配になったお母さんはフェイスガードをつけることにしましたが、Bちゃんはフェイスガードをはずしてしまいます。お母さんはそのたびに「ダメ」とBちゃんを制止していましたが、一向に言うことをきかないBちゃんにイライラし、声を荒げてしまうことが増えてしまいました。そのため最近は抱っこをすることが憂鬱になってしまったそうです。Bちゃんにはお母さんの気持ちが伝わるのか、抱っこされても機嫌が悪く泣き出すことが増えてしまったそうです。

「Bはどうしてこんなに乱暴で言うことをきかないんでしょうか。なんとか良い方法はないですか?」とお母さんは私に尋ねました。

 Bちゃんはまだまだお母さんの抱っこが必要な年齢です。また、赤ちゃんは7~8か月になると抱っこしているお母さんを見るために体をそらしたり、お母さんの髪の毛や耳を引っ張ったり、お母さんの口の中に自分の指を入れようとします。メガネやネックレスを引っ張られて壊されてしまった方もいるのではないでしょうか。児童精神科医であるマーガレット・マーラーはこれらの赤ちゃんの行動を「お母さんからの分離を表す行動」だと考えました。マーラーは、母子一体だった赤ちゃんがお母さんから離れ、独り立ちする過程を「分離―個体化理論」として示しました。Bちゃんの行動はお母さんから離れて独り立ちする過程での自然な行動です。けれどもお母さんはそのように認識することができませんでした。

コロナの影響で相談相手がいない孤独な育児

 それまでお母さんは実家に遊びに行くこともしばしばありましたが、コロナのため帰省できなくなりました。地方に単身赴任している夫もコロナの影響で帰宅できなくなりました。お母さんは愚痴をこぼしたり、育児の相談をする相手がおらず、孤独で追い詰められた状態に陥っていました。夜もよく眠れず、コロナと娘二人のことで四六時中頭の中は一杯でした。私は「Bちゃんの行動は健康な発達のしるしであること、そして必要な過程であること。お母さんはストレスがかかりすぎて疲れ果てた状態のため、余裕を取り戻す必要があること」を伝えました。お母さんは「一人で考えていると悪い方悪い方に考えてしまう。心配事を相談する相手もいないのでしばらく通いたい。でもそんなことのために診察に来てもいいんですか?」と私に尋ねました。私は、「まずはお母さんの心配事を整理して解決していくことがお母さんとAちゃんとBちゃんにために必要だと思う」と伝え、以後外来に通院することになりました。

子どもの心の発達とマスク

 Aちゃんは食事の時間に幼稚園であった嬉しいことや嫌だったことなどをお母さんに話すことが大好きでした。しかしお母さんと一緒に食事ができなくなり、またBちゃんのお世話で手いっぱいのお母さんにゆっくり話を聞いてもらう時間もなくなってしまいました。Aちゃんはお母さんから言葉を介して、そして表情を通して励ましや慰めを得る機会をすっかり失ってしまいました。Aちゃんの不安定さにはお母さんとのコミュニケーションの量も質も変化してしまったことが影響していると考えられました。

 私はお母さんに以上のことを伝えて、家ではマスクを外すことを勧めました。もちろん、Aちゃんの問題のすべてがマスクのせいというわけではありません。しかし、家でお母さんがいつもマスクをしていたことは、Aちゃんとお母さんとの間のコミュニケーションの弊害になっていたはずです。

 Bちゃんの行動が正常であると知って安心したお母さんはイライラせずにBちゃんを抱っこするようになりました。Bちゃん自身もお母さんと同じように安心して抱っこされるようになりました。そしてお母さんは感染対策をした上で再びAちゃんと食事をすることにしました。Aちゃんは嬉しそうにお母さんと食事をしながらおしゃべりをしているそうです。まだ早帰りをしていますが、「幼稚園では笑顔が増えてきた」と先生から報告があったそうです。

 コロナウィルスの蔓延を防ぐために今ではマスクは欠かせないものです。幼稚園や保育園の先生方からマスクを着用しているため、園児とコミュニケーションをとる時にはマスクで覆われていない顔の上半分の筋肉の動きや身振りを意識するように努力しているなど、マスクを巡ってさまざまな対応に苦慮している話を耳にしました。

 また、マスクについては、口の動きが見えないために意思疎通が困難な聴覚障害の方々のために透明なマスクが開発されたとの記事を読みました。特に保育園や幼稚園をはじめとして子どもとのコミュニケーションが大切な学校などでもそのような検討が必要ではないかと思います。

 赤ちゃんは自分の経験した喜びや心地よさをお母さんにさまざまな形で表現します。その時にお母さんは赤ちゃんに呼応してさまざまなトーンで言葉をかけたり表情を示します。赤ちゃんとお母さんとのそのやりとりが出発点となり、子どもの心は少しずつ成長していきます。改めて言うまでもありませんが、子どもが心の成長を遂げていく際に、お母さんの子どもへの温かいまなざしや表情は必要なものなのです。ですから、マスクの子どもの心の発達への影響については、慎重に考えて対処法を考えていく必要があると思います。

精神科医・法政大学現代福祉学部教授・博士(医学)

法政大学現代福祉学部教授・初台クリニック医師。前関東中央病院精神科部長。日本精神神経学会精神科専門医・指導医、日本精神分析学会認定精神療法医・スーパーバイザー。児童青年精神医学、精神分析的発達心理学を専門としている。児童思春期の精神科医療に長年従事しており、精神分析的精神療法、親ガイダンス、などを行っている。著書『不登校、うつ状態、発達障害 思春期に心が折れた時親がすべきこと』(中公新書ラクレ)

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