魔の感情をどう断ち切るか 障害者施設殺傷事件

献花台に訪れる人々の花束。(写真:ロイター/アフロ)

事件を理解することの難しさ

惨劇から1週間が経過した。2016年7月26日未明に発生した相模原の障害者施設殺傷事件については、私も驚きと悲しみ、そしてやり場のない怒りを感じる。死者19名、負傷者26名という被害者の多さ、入所の重度障害者ばかりをターゲットにした事件の異様さからマスコミの格好の報道対象となり、関係団体の声明や要望書もつぎつぎと発表されている。

いろんな方がコメントを述べておられて、その中にはナチの障害者大虐殺に言及する方、八つ墓村のモデルとなった津山事件や池田小の殺傷事件と対比する方もおられる。これらの対比は、それぞれ役に立つものである。

しかし、今回の事件は、これら過去の類似事例と、どこか違うものも感じる。「障害者を抹殺する」との犯人のメッセージは、確かに異様で優生思想、ナチの所業を連想させる。だが、たったひとりの人間が、施設の中に侵入して無抵抗の障害者を次々と殺傷していく行動は、組織的に殺戮を行ったナチとは違う要素を持っている。それだけに犯人の個人的な資質、とくにその精神状態について、さまざまな推測が飛び交っていて、薬物中毒、それも大麻だけでなく危険ドラックの継続的な使用が指摘されはじめている。このことと事件との関係性は、慎重に分析されるべきであるが、少なくとも、いまこの文章を書いてる段階では事実関係それ自体が充分に明らかにされておらず明確なコメントはできない。

より人間らしい生活環境をつくる

施設の生活は?

施設を利用している高齢者や障害者が人間らしい生活をしていないと感じる支援者は多いのではないか。多くの支援者は、そのことに疑問を抱き、各自ができる範囲で生活環境を人間らしいものに変えようと努力しているはずだ。とくに今回の事件で被害にあった施設は、評判が良い県立施設であり、けっして生活支援水準の低い施設ではないはずだ。しかし、今回の犯人は、この施設で働く中で障害者への歪んだ見方を増幅させて行っている。これは彼がもともと持っていた障害者観ではなく、その意味で仮に薬物使用があったとしても、その直接的な影響ではない。薬物の影響は、いわば触媒のようなものであって、彼の目には障害者の施設生活が人間らしい物には映っていなかったのである。今回の事件の解明にむけた作業の中で、この施設の生活がどのようなものであったのか、ぜひ明らかにしてほしいと願っているが、報道や公式発表ではほとんど触れられることがない。

視野狭窄を起こす危険

日常の仕事の中で利用者の方が言うことを聞いてくれないだとか、意思疎通が思うようにできないなど、支援自体がうまくいかないときに、障害者が支援者にとって「重い」存在になっていき、支援者はストレスを感じることがあるだろう。最終的には障害者をうっとうしい存在だと思ってしまう支援者もいるのではないか。しかし、障害者支援や認知症高齢者の介護に携わる人々の心の中に忍び込む、このような魔の感情は、ほとんどの人はすぐに消し去るし、少なくとも表にはださない。

だから殺人まで起こすケースは異例だ。平成25年に千葉県袖ケ浦市の施設で起きた暴行死事件の容疑者は支援している障害者を人間だと思っていなかったのではないかと推測されている。その後に発覚した川崎市の特別養護老人ホームで介護職員が高齢者を突き落として殺害した事件などでも、結局は高齢者を人間だとみていなかったと思われる。視野狭窄に陥っていたのである。この事態の発生を防ぐことがまず必要だし、防ぐことはできると思う。

だが、仮に魔の感情が増幅し殺人まで起こしてしまったとしても、45人もの人々を短時間に襲うなどということは無かったし、犯行の直後に警察に自首するなどということもこれまで無かったことである。今回の事件で、魔の感情を制御不能なまでに増大させたのはなにか。すくなくとも厚労省がはやばやと通知した対策である施錠管理の徹底では対応できない事態が社会で生じていると考えるべきである。私は、早急に考えるべきは、施設の生活がより人間らしいものになるような工夫ではないかと思っている。

興味本位の報道姿勢

犯人像に偏る報道

こうした事件が発生する背景には、さまざまな複合的な要因が絡み合っているのが実相だろうし、その絡みあった糸をひとつひとつ解きほぐして行くことが真相解明と今後の対策のためには必要だ。しかし、これまでのところ、報道は犯人の精神疾患に偏っている。これとは対象的に、障害者の施設の中での暮らしや犯行時の施設の様子などについては、あまり詳細がわからず報道内容も錯綜している。

このような報道機関の姿勢は、適切ではない。それは、事件の原因が犯人の精神疾患にあるとの単線的な印象を与えやすく、実相認識を難しくするばかりか、精神に疾患を抱えて苦労している全国の方々に対する誤解と偏見を助長する可能性があるからだ。措置入院を短期間で解除したことを疑問視する報道もあるが、薬物症状がでていて、それが解消すれば入院していても無意味であり、退院判断を医療者がするのは当たり前のことではないか。すでに、精神障害者の支援団体からは、こうした報道姿勢に対する抗議声明が公表されている。

刑事責任の行方

今回の犯人が、犯行時点においてどのような精神状態であったのか、それを病気と呼ぶほどなのかどうなのかは、現時点では明確に判断できる材料がないが、刑事手続の中では、この点は、重大な論点となるはずだ。刑事責任を否定したり軽減したりするほどの精神状態であったかどうかは、即断できない。報道される犯行の概要からいうと、法律家の好んで使う言葉使いで言えば(私はあまり好みでないが)、「犯行は極めて計画的で周到に準備されたものであり、自己の行為の意味を理解できない状態で行ったものだと評価することはできない」とされる可能性がある。精神鑑定が行われるとは思うが、その結果が、いまマスメディアが定着させようとしている彼に対する評価とは一致しない可能性がある。池田小事件では、精神鑑定の結果、犯人は精神障害ではないと判断されたことは有名な話である。

ちなみに、犯行後の自首については、これだけ凶悪な犯罪を引き起こしながら自首するのは、犯罪心理学者の間でも分析が容易ではないだろうし、自首に伴う減刑を行うのかと言われれば、被害の大きさを勘案すれば、いささか難しいように思う。この点も法廷で議論されだろう。

障害者も人間だ、だから必要なことは閉じ込めることではない

重大な事件であるにもかかわらず、一週間たってもなお分からないことが多すぎる。多くの人が事件に悲しみと怒りをぶつけ、障害者も人間だと連呼されている。当然だろう。だが、今回の事件は、その連呼が、声だけに終わってはならないことを教えてくれているように思う。人間だから、人間らしく扱われることが必要なのである。人間らしく扱われることは、どのようなことを意味し、どのように実現していくのか、そのことをいまこそ議論しなければならない。その意味で、事件の実相を多方面から明らかにしていく必要があるし、それが関係者の責務だと思う。時間がかかるとは思うが、いまのところ、生活の実相があきらかになっているとは言い難い。被害に遭った障害者の方々がどんな生活を送っていて、どんな方々だったのか。社会的に知られる機会が失われる可能性がある。それでは被害にあった施設の支援の実相もわからない。防犯対策は必要だろう。だが、そのことによって施設利用者の生活から人間らしさが奪われるとすれば、本末転倒だ。そのためにも、県や施設、警察や報道機関の方々には、多方面からの事件の解明をぜひお願いしたところである。