死刑を廃止すべきか (その2)

誤判の可能性があるから死刑は廃止すべきだろうか(提供:アフロ)

日本弁護士連合会(日弁連)が10月に開催される人権擁護大会において「2020年までに死刑制度の廃止を目指す」との宣言を採択する準備を進めている。

死刑制度について倫理学的にはどのように考えるべきだろうか。

前回は存続論を検討した。今回も、毎日新聞の記事(「あなたはどっち? 死刑制度は必要か」)の論点整理を参考にして、廃止論について見てみたい。

死刑制度の廃止論の検討

上記の毎日新聞の記事では、死刑制度の廃止論として8つの論拠が挙げられている。順に検討してみよう。

1. 死刑は野蛮で残酷。国家による殺人行為は許されない

これはもっともらしい主張であるが、倫理学では、石橋を叩くように一つ一つの主張を吟味しなければならない。

さて、これは厳密には二つの主張である。まず、「死刑は野蛮で残酷であるから廃止すべきだ」というのは、何が野蛮で残酷かを客観的に決められるという暗黙の前提がある。

しかし、しばしば「わいせつ」の基準が主観的だと言われるのと同様、野蛮や残酷という基準も主観的になりがちだ。何が野蛮で残酷かは、時代や個人によって変わる可能性が高い

死刑が野蛮で残酷かどうかについて人々の意見が分かれた場合、多数決で決めるべきだろうか。あるいは、そのような基準はそもそも使うべきではないのだろうか。筆者は後者だと考える。仮釈放なしの終身刑についても、野蛮で残酷だという議論もありえて、きりがないからだ。

また、仮に市民の全員が死刑は野蛮で残酷だと考えるようになったとしても、なぜ野蛮で残酷な刑罰は廃止すべきなのかについて答えを出す必要がある。仮に死刑が野蛮で残酷だとしても、他に殺人を抑止する有効な手段がなければ、死刑を存続させるべきだという議論も可能であろう。

もう一つの、国家による殺人行為は許されないという議論についても、なぜそう言えるのかについて根拠が必要である。国家間の戦争は、侵略のための戦争であれ、自衛のための戦争であれ、国家による殺傷行為が含まれるであろう。

仮に自衛のための戦争を認めるとしよう。すると、国家による殺人行為の一類型については容認したことになる。もし自衛戦争は容認して、死刑という形の別類型の国家による殺人行為は容認しないのなら、「国家による殺人行為は許されない」という根拠以外の根拠が必要になるだろう。もしそれが「野蛮で残酷だから」という理由であるなら、上の議論が当てはまることになるし、自衛戦争だって野蛮で残酷ではないのか、という論点も出てくることになるだろう。

2. 死刑廃止は国際的潮流であり、日本も従うべきだ

これは「ジャイアンがそう言っているから、のび太はそれに従うべきだ」とスネ夫が言うのと同じである。

国際的圧力は現実の政治においては重要な考慮であるが、倫理的議論をするさいにはこうした「権威に訴える論証」を使うことはできない。

倫理的議論をする際には「権威」や「世論」はいったん脇において、議論そのものの良し悪しを検討しなければならないのだ。

3. 死刑は憲法36条が禁止する「残虐な刑罰」に該当する

これは1.の「死刑は野蛮で残酷」というのと、2.の権威に訴える論法を組み合わせたものなので、重ねて検討する必要はない。

4. 死刑は執行すると取り返しがつかないので、誤判がありえる以上は廃止すべきだ

誤判を根拠にした死刑廃止論は一つの大きな論点になっており、日弁連もこれまでに起きた冤罪事件を引き合いに出して、死刑廃止の根拠の一つとしている。

しかし、誤判の議論は解釈の仕方によっては死刑以外にもいろいろな制度を廃止しなければならなくなるという難点を抱えている

たとえば、「誤って人が死ぬ可能性のある制度は廃止すべきである」という風に一般化できるとすると、毎年数千人の死者が出る自動車交通は廃止すべきことになるだろう。

また、「誤ると取り返しのつかない制度は廃止すべきである」という風に理解すれば、死刑だけでなく、懲役などの自由刑もすべて廃止すべきことになるだろう。

これに対しては、懲役刑については、死刑とは異なり「取り返しがつく」と主張されることがある。というのは、一度有罪判決が出て刑務所で長年過ごしたとしても、無罪であることが示されたなら釈放され、場合によっては補償も受けることができるからだ。

しかし、本年8月に再審無罪となった大阪府住吉区の事件を考えてみよう。この事件では、当時30代の男女が小学6年生の娘を焼死させたとして、殺人罪などで無期懲役が確定していたが、のちに自白の信憑性が問題となり約20年の歳月を経て無罪となった。

この二人については、死刑ではなく懲役刑だったので「取り返しがつく」、と素面で言えるだろうか?

百歩譲って、上記の例の場合には「生きている限りは取り返しがつく」と言えるとしよう。しかし、次のような冤罪事件があったらどうだろうか

ある30代の男性は、殺人罪で、無期懲役を科された。彼は、30年服役後、がんが見つかりまもなく刑務所の病院で亡くなった。しかし、彼の死後、新たな証拠が見つかり、彼は真犯人ではないことが明らかになった。

これは懲役刑であるが、死刑の場合と同様に、死んだあとに無罪とわかる事例である。筆者には、これは死刑のあとに冤罪とわかった場合と同様に、取り返しのつかない事例だと思われる。

すると、このような事例が一例でもありうる限り、無期刑は、誤判の可能性があるという理由で廃止すべきことになる。だとすれば、無期刑を含め、自由刑はすべて廃止すべきだという議論もできることになるだろう。だがこの結論は馬鹿げている。したがって、誤判可能性に基づく議論は間違っている(このような推論を帰謬法と言う)。

いささか長くなったが、誤判可能性についての筆者の結論はこうである。誤判の問題は重要ではあるものの、あくまでデメリットの一つであり、決定的な根拠にはならない。つまり、「誤って人が死ぬ可能性のある制度は、それを上回るメリットがない限り、廃止すべきである」と理解すべきであり、メリットとされる死刑の抑止力などの考慮と比較衡量して考えなければならない。それと同時に、誤判を減らす最大限の努力をすべきである

筆者が懸念しているのは、著名な冤罪事件が出てくると、それに世論が引っぱられることである。袴田事件では、2014年に再審開始決定がなされるまで、袴田氏は45年以上死刑囚として独房にいた。誤判の被害者は人生を台無しにされて、その苦悩は筆舌に尽くしがたいものであろう。

しかし、特定の被害者にばかり目をやると、全体像を見失う可能性がある。われわれが死刑制度について考える際には、誤判による被害者の苦悩を考慮するだけでなく、明らかに誤判ではなかった死刑判決によってなされた正義や、死刑制度がなければ起きていたかもしれない凶悪犯罪の被害者のような、潜在的な被害者にも思いを馳せる必要がある。

5. 死刑に犯罪を抑止する効果はない

これは死刑存続論のところで見たように、実証的な主張であるため、しっかりとした実証研究を行わなければ、正しいかどうかを判断することはできない。社会科学研究者の活躍に期待したい。

6. 犯人には、被害者・遺族に弁償させ、生涯罪を償わせるべきだ

これは死刑存続論の「人を殺した者は、自らの生命で罪を償うべきだ」と好対照をなす主張である。

「犯罪を行った者には刑罰が科されなければならない」という主張には多くの人が同意すると思われるが、殺人罪に対してどのような刑罰がふさわしいのかについては意見が分かれる。死刑がふさわしいのか。終身刑がふさわしいのか。

その答えを出すには、そもそも刑罰は何のためにあるのかについて検討する必要があるだろう。すなわち、応報のためなのか、犯罪抑止のためなのか、被害者感情の満足のためなのか、などである。

7. どんな犯罪者でも更生の可能性はある

これも実証的な主張であり、調査研究が必要である。刑罰という実践的に重要な問題を扱っているのであるから、理想論で語ることは許されない。

また、犯罪者を更生させることが刑罰の唯一の目的なのかという問題もある。「この殺人犯は反省しており、更生の可能性も十分にあるが、更生可能性があるからといって死刑を免れることはできない。応報または犯罪予防の見地からは、死刑がふさわしい」という判断も可能かもしれない。ここからも、そもそも刑罰は何のためにあるのかについて検討する必要があることが見てとれるだろう。

8. 政府は「世論調査の結果では、大多数の国民が死刑に賛成している」としているが、調査の質問が誘導的

質問紙調査がきちんとしたものであることは重要であり、誘導的な調査はよい調査とはいえないだろう。しかし、死刑存続論のところでも検討したように、倫理学の論証においては、一般市民の考えを根拠として使うことはできない。それゆえ、この論点は本質的には重要ではない。

以上、死刑廃止の議論について詳しく検討した。筆者の考えでは、誤判可能性を理由にした死刑廃止論は決定的な論拠にはならず、抑止力のあるなしを中心に判断するのがよい

また、重要なのは、死刑という刑罰の目的を明確にすることである。刑罰制度には、応報や抑止、再犯防止や更生といったいろいろな目的がありうる。死刑がどの程度こうした刑罰の目的に適ったものなのかについて吟味する必要がある。(了)