Yahoo!ニュース

落馬で1ヶ月間、昏睡状態に。生死の境を彷徨ったミナリク騎手の現在は?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
短期免許で来日していた頃のフィリップ・ミナリク騎手

落馬で1ヶ月、昏睡状態に

 「落馬の瞬間は勿論、その1か月前くらいからの記憶がごっそりありません」

 そう語るのはフィリップ・ミナリク騎手だ。

 ドイツで4度のリーディングジョッキーの座を射止め、イギリスではシャーガーカップ出場騎手にも選定された。短期免許で度々来日した際には、どれだけ時間がかかっても1人ずつファン全員にサインをする人柄の良さに、多くのサポーターがついた。

19年シャーガーCでのフィリップ・ミナリク騎手
19年シャーガーCでのフィリップ・ミナリク騎手

 そんな彼がアクシデントに見舞われたのは2020年7月3日。ドイツのマンハイム競馬場の第7レースで、騎乗馬が故障。彼は馬場に叩きつけられた。

 「それから1ヶ月以上、昏睡状態が続きました」

 この夏の欧州で、久しぶりに会った彼は、自身の携帯に納められている「落馬後、初めて反応した時の動画」を見せてくれた。それは落ちて1ヶ月後のモノで、妻から求められたキスに、目を瞑ったままの彼が応じる映像だった。しかし、それを他人事のように眺めながら、言う。

 「落ちてしばらく体中に管をつけられていた事は当然、記憶にないのですが、こうして妻とキスをした事も残念ながら覚えていません」

落馬後1ヶ月昏睡状態が続いていた時のミナリク(本人提供写真)
落馬後1ヶ月昏睡状態が続いていた時のミナリク(本人提供写真)

 それどころかその後も約1ヶ月、つまり落馬後2ヶ月程度の記憶が残っていないそうだ。

 それでもそんな状態の頃からリハビリを開始していた。まずは話す事から始めた。昏睡している間に失われた言語化能力を取り戻し、言葉で意思疎通を出来るようになるまでには更に1ヶ月以上を要した。

 また、体重は45キロまで落ち、自力歩行は困難を極めたため、車椅子からトライ。時間をかけてやがて看護師に両脇を支えられて立ち上がる等、身体の機能を回復していった。

 「そんな事をしながら少しずつ記憶が戻り、完全に事態を把握出来る様になったのは目覚めてから3ヶ月ほどしてからでした」

体重が45キロまで落ち、やつれていた頃のミナリク(本人提供写真)
体重が45キロまで落ち、やつれていた頃のミナリク(本人提供写真)

厳しいリハビリを支えてくれたのは……

 自らに起こった事態が判明し、物事の理解も追いついてくると、逆にリハビリが苦しく感じられるようになった。そんな、挫けそうになるミナリクをかつての騎手仲間が支えてくれた。

 「フランキー(デットーリ )やビュイックなど、多くのジョッキー達がメッセージを送ってきてくれました。クリストフ(ルメール)から送られてきたビデオメッセージでは、途中でいきなりユタカさん(武豊)が現れて『ミナリク〜、ゲンキ〜?ガンバッテ~!!』って言ってくれました。日本のレジェンドジョッキーからの言葉に、励まされました」

武豊騎手とC・ルメール騎手から送られてきたビデオメッセージの一部(本人提供写真)
武豊騎手とC・ルメール騎手から送られてきたビデオメッセージの一部(本人提供写真)

 また、毎日、病院に通ってくれた妻ら家族の応援は当然、力になったが、もう一つ、日々の活力になった事があったと続ける。

 「私が昏睡状態にある時、たくさんの支援金が日本のファンから毎日、届けられていた事を知りました。目覚めてからも毎日のようにメッセージやプレゼントが日本から届きました。こんな嬉しい事はなかったし、本当に励まされました」

 そもそも日本が好きだった。日本の競馬が好きだった。日本食が好きだった。高尾山が、上野公園が、そして何よりもファンの皆の事が大好きだった。だから、今回の件で、その愛はより深まったと語った。

「日本のファンの皆さんの励ましに本当に助けられました」と語る現在のミナリク
「日本のファンの皆さんの励ましに本当に助けられました」と語る現在のミナリク

現在の彼の夢

 「今でも最近の記憶が残っていない事がある」と語るものの、会話や自力歩行を出来るまでには回復した。とはいえ、足の可動域が狭まるなどして、騎手への復帰は断念せざるを得なかった。しかし、へこたれはしなかった。

 「引退は残念ですが、命を絶たれなかったと考えれば、何でも受け入れられます。応援してくれる人が沢山いる事も分かって、今はむしろ幸せな気持ちです。そして、その応援してくれる人達に会いに、いつの日か日本に帰るのが、現在の新たな目標です」

 これが決して社交辞令ではない事の分かる言葉を、更に続ける。

 「仲良くしているレネ(ピーヒュレク)が昨年、凱旋門賞をトルカータータッソで勝った時、僕が現役時代に使っていた鞍を使ってくれました。トルカータータッソ陣営は今年も凱旋門賞に挑み、その後はジャパンCも考えています。これが実現し、レネが乗せてもらえるなら、是非私も一緒に日本へ行くつもりです」

ミナリクの鞍を使って昨年の凱旋門賞を勝利したレネ・ピーヒュレク騎手(左)と
ミナリクの鞍を使って昨年の凱旋門賞を勝利したレネ・ピーヒュレク騎手(左)と

 そして、日本行きが実現した暁にはやりたい事があると言う。

 「短期免許を取得した際に住んでいたキタセンジュは1番好きな場所なので、また行きたいです。そこでロバタヤキへ行って、ニホンチャを飲みたいです」

 更に、最もやりたい事として、次のように続けた。

 「そして、何よりも、いつも私を応援してくれる日本のファンの皆さんに再会して、心からお礼を言いたいです。それが、現在の私の夢です」

 元気なミナリクが、その目標を果たし、キタセンジュに、そして日本の競馬場にまた姿を見せてくれる日が来ることを願おう。

北千住の居酒屋で日本茶を飲むミナリク。再びここを訪れるのが現在の彼の願いだ(2019年撮影)
北千住の居酒屋で日本茶を飲むミナリク。再びここを訪れるのが現在の彼の願いだ(2019年撮影)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

平松さとしの最近の記事