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父が敗れたドバイで現在調教にまたがる新しい調教師のストーリー

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
ドバイ・メイダン競馬場でセキフウの調教をつける上原佑紀調教師

父が負けたドバイだが……

 今から15年前の2007年。1頭の日本のスピード馬が中東に降り立った。

 ダイワメジャーだ。

 同馬はドバイデューティーフリー(現ドバイターフ、GⅠ)に挑戦すると3着。同じ日本馬のアドマイヤムーンに軍配は上がった。管理していたのは美浦の上原博之。1990年1月生まれでその頃17歳だったのが、同師の次男・上原佑紀。当時を次のように述懐する。

 「行っていたのはもちろん知っていました。ただ、負けて悔しいとか、そういう感情はとくにありませんでした」

2007年ドバイへ遠征した父・上原博之調教師(右。左はダイワメジャーの手綱を取った安藤勝己騎手)
2007年ドバイへ遠征した父・上原博之調教師(右。左はダイワメジャーの手綱を取った安藤勝己騎手)

馬術、獣医師を経て調教師へ

 父が負けたにもかかわらず、特別な感情を抱かなかったのには理由があった。その頃の上原佑紀には寝食を忘れ熱中するモノがあった。小学3年生から始めた馬術。高校時代は全日本ジュニア選手権で優勝するまでの腕前になっていた。

 「将来は馬の仕事に携わりたいと考えるようになり、日本大学の獣医学部に進学しました。もちろん、馬術部に入部して馬術を続けました」

 結果、全日本学生馬術大会で優勝した。

 そして、大学卒業後は美浦トレセン内の可世木競走馬診療所で獣医師として働いた。

 「その際、調教師の仕事を間近で見ているうちに『自分が経験した事も調教師として活かせるのでは?』と思いました」

 そこで16年には獣医師を辞め、調教師へ進路を変えた。ノーザンファーム空港牧場に移り、育成から競走馬の面倒をみたのだ。

 「ショウナンパンドラ(15年ジャパンCほか)らがいた頃で、たずさわった馬の1頭にポールヴァンドルがいました。乗馬と違い前進気勢の強い馬でした。後に父の厩舎に入り、GⅠ(秋華賞)まで駒を進めた時は嬉しかったです」

牧場時代にたずさわったポールヴァンドルは父の厩舎に入りGⅠに出走するまでになった
牧場時代にたずさわったポールヴァンドルは父の厩舎に入りGⅠに出走するまでになった

 ポールヴァンドルが秋華賞に出走した時、しかし上原は日本にいなかった。イギリスへ飛び、ニューマーケットのサマーヴィルロッジに厩舎を構えるウィリアム・ハガスを訪ねた。シャーミットでダービーを、ダンシングレインでオークスを制した伯楽の下で修業をしていたのだ。

 「更にフランスに渡ると小林智厩舎でお世話になりました」

 こうして1年間の海外研修を終え、帰国。すぐに競馬学校に合格すると、卒業後は美浦・池上昌和厩舎を経て、19年3月から堀宣行厩舎で調教助手として汗を流した。そして21年、3回目の受験で念願の調教師試験に合格。今年は年頭から藤沢和雄厩舎で研修をした。

 「自分もかつてニューマーケットへ行ったけど、それもそもそも藤沢先生に憧れがあったからでした。実際に間近で見させてもらって先生の凄さが改めて分かりました。発する言葉はどれも勉強になったけど、中でも『この血統は早熟だ、とか先入観にとらわれてはダメ』と言われたのにはハッとしました」

 もう少しすれば開花する花を、人が先に諦めて摘んではいけない。分かっているようで、見落としがちなそんな事を改めて注意してもらえた気がしたのだ。

藤沢和雄元調教師(コロナ禍前に撮影)
藤沢和雄元調教師(コロナ禍前に撮影)

藤沢の縁でかかった声

 そんな時、1人の関西の調教師から連絡が入った。

 「それまでほとんど面識はなかったので、何かと思いました」

 上原はそう言う。

 連絡をしてきたのは武幸四郎だった。

 「幸四郎先生のセキフウがサウジアラビアとドバイに挑戦するから、現地で手伝ってもらえないか?という連絡でした」

 武幸四郎も技術調教師時代に藤沢厩舎で長期にわたり研修をしていた。そのつながりで、上原を頼ったのだ。

 「自分のためにもなると思い、二つ返事で承諾させてもらいました」

 こうしてまずはサウジアラビアへ飛ぶと、サウジダービーで2着に善戦。決してスムーズとはいえない競馬になりながらもアメリカの強豪パインハーストと半馬身差の勝負を演じてみせた。

 「着差が着差だけにもったいないと感じる競馬でした」

サウジダービーに出走した際のセキフウ。右が上原
サウジダービーに出走した際のセキフウ。右が上原

 悔しそうに語った後、予定通りドバイへ渡った。パインハーストに捲土重来をはかるべく、日本時間26日23時10分発走のUAEダービーに出走する。思えば武幸四郎も技術調教師時代にドバイへ来ていた。17年、UAEダービーに挑戦したアディラート陣営を手伝ったが、残念ながら12着。調教師にとっても違う結果を求めたいレースだった。

 そして、上原は全く違うレースで全く違う立場といえ、父同様、ドバイで世界に挑む事になる。

 「幸いセキフウは良い状態を維持できています。相手は一段と強くなるようですけど、何とか好結果を出してほしいです」

 勝っても負けても15年前には想像も出来なかったであろう感情が湧く事だろう。そして、それはいずれの場合でも、今後の上原佑紀の調教師人生に1つのアクセントを付けるはずだ。調教師・上原佑紀のこれからに注目したい。

ドバイでセキフウに跨る上原
ドバイでセキフウに跨る上原

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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