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競馬学校中退も、新たな道でも続く1人のジョッキーとの友情物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
丸田恭介騎手(左)と八嶋雄太

競馬学校を辞めて海外へ

 フラワーCに出走するダイムに熱い視線を送る男がいる。

 1987年1月生まれで現在35歳の八嶋雄太だ。

 運送業を営む父・専吾と母・とき子の下、兄と宮城で育った。体は小さかったが運動神経は良く、偶然見た競馬中継で騎手に魅了され、小学5年の時に乗馬を始めた。

 中学卒業時にJRA競馬学校騎手課程を受験。不合格になると、馬術部のある学校に入学。すると1年生ながら個人東北チャンピオンになり、全国大会でも6位。高校選手権の全国大会では団体戦で準優勝。こうして高校1年で競馬学校を再受験すると今度は突破した。

 「最初は五十音順の出席番号が並びで話すようになりました」

 当時を述懐するのは同期の丸田恭介だ。

 「高校での実績が凄くて、同期の中では抜けた存在。普段は教官が乗るような馬を彼は最初から任されていました」

八嶋に対し「自分が最後まで乗せてもらえなかった難しい馬を任されていた」と語る丸田騎手
八嶋に対し「自分が最後まで乗せてもらえなかった難しい馬を任されていた」と語る丸田騎手

 しかし、これが八嶋にとっては皮肉にも必ずしも良い事ではなかった。

 「特別扱いされる事で先輩や同期となかなか打ち解けられず、学校を辞めました」

 当時の模様を丸田は次のように語る。

 「相談というか本人から話を聞いた時には辞める意思が固まっていました。教官ら周囲からは留まるように説得されていたけど、決めたら曲げない性格なので、辞めてしまいました」

 辞めたものの馬に乗りたい気持ちがなくなったわけではなかった。しかし、同期達の活躍を見たくはない。そこで八嶋がとった行動は……。

 「バイトで旅費を稼いで04年の春にオーストラリアへ行きました」

 競馬場でトラックワークライダーとして汗を流した。

 「毎日20頭前後乗りました。短距離主流で日本とは違う乗り方だし、馬を人と対等に扱う距離感が勉強になりました」

帰国後の牧場で旧友と再会

 1年後に帰国。北海道のメイプルファームに就職し、後期育成を学んだ。

 「馬は人を乗せるのが当たり前と思っていたけど、ブレーキング等をやる縁の下の力持ちのお陰で乗れるようになると気付き、同時にその重要性も知りました。ここで作った馬との約束事が、競走馬になった後も続くんです」

 そして、思った。

 「育成牧場を開業したい」

現在の八嶋雄太(本人提供写真)
現在の八嶋雄太(本人提供写真)

 10年にはメイプルファーム福島(当時の天栄ホースパーク内)へ異動。21歳で場長を任されると、1人の男と再会した。

 メイプルファームは宗像義忠調教師の弟が経営していた。そのため宗像厩舎の馬も多く、当時、同厩舎に所属していた丸田の耳に八嶋の話が伝わったのだ。丸田は言う。

 「オーストラリアへ行ったのは噂で聞いていたけど、まだ馬をやっていてくれたんだと嬉しくなりました」

 そこで丸田が牧場へ出向く形で再会を果たした。

 八嶋は「これでまた丸田君と仲良くなりました」と言う。

 やがてそんな2人にとって忘れられない馬が現れた。

 「牧場で480キロあってもトレセンへ行くと440キロくらいになっちゃう」(八嶋)シセイカグヤだった。繊細なタイプなので牧場では八嶋が専属で乗った。やがて宗像厩舎からデビュー。09年から10年にかけ丸田を乗せて3連勝。GⅠ・ヴィクトリアマイルまで駒を進めた。

 「丸田君でそこまで行けて本当に嬉しかったです」と八嶋が言えば、丸田は「違う立場になったけど、一緒に情報交換をしながらついにはGⅠまで行けたのは有意義でした」と語った。

牧場で調教をする八嶋(本人提供写真)
牧場で調教をする八嶋(本人提供写真)

馬も人もいない状態でのスタート

 10年に八嶋はメイプルファーム社長のご息女と結婚した。しかし翌11年、東日本大震災で大打撃を受けた天栄を閉場する事になるとそのタイミングで退職。社台ファームを経て、ホッカイドウ競馬で厩務員として働いた。

 そんな13年、メイプルファームの社長が他界。牧場は社長の愛娘でもあった八嶋夫人が継ぐ事になった。

 「それで一念発起したわけではありませんが、翌14年、日高に育成牧場のヤシ・レーシングランチを開場しました」

 開業時は従業員もなく、八嶋1人。

 「迷惑をかけたくなかったのでメイプルファームや宗像先生にも声をかけませんでした。だから、最初は馬がいなくて、2ケ月間、草むしりばかりしていました」

 丸田が振り返る。

 「開場する前から話は聞いていました。1頭もいない状況でも駆け出したところに『相変わらずの意志の強さ』を感じました」

父から聞いた仕事の教え

 0頭からのスタートという噂を聞きつけ、メイプルファームにいた時の知人が青森産の馬を紹介してくれた。

 「飼い葉を食べないから体が小さくて、そのくせ気性は反抗的で他馬を嫌う。更に脚は曲がっていました。でも、贅沢を言える立場ではないのでやらせていただきました」

 馬1頭、人1人で、ついに八嶋の野望が転がり出した。

 「1対1なので毎日向き合えました。怒らずに、約束事など人との関係性を基礎から築きました」

 カミノライデンと名付けられたその馬は、やがて高市圭二厩舎に入厩。デビュー3戦目の直線で完全に抜け出す様をテレビ観戦していると、電話が鳴った。

 「テレビの放映に少し時間差があるせいか、ゴールする前に高市先生から『ありがとう』と電話が入りました。これは励みになりました」

2015年、重賞(東京スポーツ杯2歳S)に出走した際のカミノライデン
2015年、重賞(東京スポーツ杯2歳S)に出走した際のカミノライデン

 やがて……。

 「ホッカイドウ競馬時代にお世話になった安田武広先生が管理馬を預けてくれた上、セリ会場で沢山の人を紹介くださいました。また、学校で同期だった田中博康調教師からも電話が入るなどして、馬が増えました」

 他にも高橋義忠のサンレイポケットや四位洋文、武幸四郎らの馬も入った。昨年の秋には育成したジャスティンロックが京都2歳S(GⅢ)を制覇。ついに重賞初勝利も飾ると、21日のフラワーC(GⅢ)にはダイムを送り込む。お察しの通り現在では20馬房でも足りなくなってきたのだ。しかし、八嶋は言う。

 「現在は6人のスタッフを雇い、自分も合わせて7人で見ています。これ以上に馬が増えると目が届き辛くなります。1頭1頭に向き合っていきたいので、このくらいの頭数でやっていきたいです」

 経営者だった父の方針が「守備範囲を越えない仕事を心掛ける」だったのも影響していると言うが、実際に0頭からスタートし、たった1頭だった時にしっかりと手をかけられたという経験がこの考えの礎となっているのだろう。アゲインストの風でも考え方一つで利用の価値はあるのだ。

2021年天皇賞(秋)でエフフォーリアら3強に次ぐ4着に善戦したサンレイポケットも、その直前にヤシ・レーシングランチに入っていた
2021年天皇賞(秋)でエフフォーリアら3強に次ぐ4着に善戦したサンレイポケットも、その直前にヤシ・レーシングランチに入っていた

丸田恭介との友情物語

 ここで再び丸田の弁。

 「彼は乗る技術があるので、僕が行き詰まった時は今でも相談しています。自分の思う形を具現化した熱意は素晴らしいし、成績が出て来たのは僕も嬉しい。立場は違うけどリスクペクトしかありません」

丸田
丸田

 一方、八嶋は丸田について、言う。

 「彼の活躍を見て、負けてはいられないという気持ちが湧き、ここまで出来ました。これまでもこれからも彼は自分の心の支えです」

 そんな八嶋には3人の子供がおり、次男は騎手を目指していると言う。

 「妻はメイプルファームを畳んで現在は全面的に手伝ってくれています。その妻の亡くなったお父様は実は馬事公苑の騎手課程で鹿戸(雄一)先生らと同期だったけど、途中で辞めてしまったんです。僕も競馬学校を中退しているので、次男がどうなるかは分かりませんが、現時点では騎手になりたいようです」

 ヤシ・レーシングランチと八嶋、そしてその家族が今後どのような物語を展開していくのか。丸田との関係も含め、いずれ続報を伝えられる日が来る事を願おう。

ヤシ・レーシングランチのスタッフと(本人提供写真)
ヤシ・レーシングランチのスタッフと(本人提供写真)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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