人生を変えたレース”日本ダービー”に初めて挑戦する元GⅠ勝利騎手の半生
GⅠ勝利も成績下降で海外修業へ
2011年の話だ。「海外で乗りたいのですが」と声をかけられた。
そう言ってきたのは25歳だった田中博康。当時、現役の騎手だった。
デビュー4年目の09年、クィーンスプマンテを駆ってエリザベス女王杯を逃げ切り、自身初のGⅠ制覇を飾った。同年暮れにはシルクメビウスでジャパンCダート(GⅠ、現チャンピオンズC)を2着するなど、大舞台で活躍した。
しかし、名刺代わりのGⅠ勝ちには賞味期限があった。次のアドバルーンを打ち上げられないうちに、騎乗数が減少。比例して勝ち星も減った。10年は13勝。最も勝った年は44勝していたから3分の1以下の勝利数となってしまった。
「何かしないといけないと思い、海外修業を考えました」
個人的に、紹介出来る関係者のいる国を何か国か候補にあげたところ、彼はフランスを選択。現地へ飛び、何人かを紹介したが、後は本人が自身でその輪を広げた。結果、いきなりの9カ月に及ぶ遠征で、年越しも向こうで過ごした。
以来、同国へは毎年のように飛んだ。更にイギリスやアイルランド、香港など当方の取材時に同行する事も度々。世界から積極的に何かを得ようとする姿勢が窺えた。イギリスの牧場でたまたま会ったF・デットーリは「若者が積極的に他国で乗ろうとするのはキャリアに於いて絶対にマイナスにはならない」と熱い言葉をくれた。
名手からのそんな言葉も後ろ盾になったか、その後も海外で学び続けた。フランスでは伝説的なリーディングトレーナーであるA・ファーブルの下でも汗を流した。17年にブリーダーズCターフ(GⅠ)を勝つタリスマニックには、同馬がGⅠ馬となる以前に、調教で跨る機会があった。
「V・シャンピオンというタリスマニックの担当者は常に余裕がありました。馬を急かさないけど、かといって甘やかさない。すぐに結果を求めない姿勢を学びました」
また、彼だけでなく、欧州でのホースマンの姿勢には幾度となく舌を巻いた。
「競馬場で騎手が馬を曳くのを何度も見ました。それどころか十代の子供やハイヒールの女性も普通に曳いている。僕は日本で騎手デビュー後、曳いたり、手入れしたりという機会はなかったので、それを任された時は不安でした。でも、馬が従順なので、問題なく出来ました。そういう扱いやすい馬の作り方や管理方法は、勉強になりました」
よく「俺しか扱えない」というのを自慢気に話す人もいるが、むしろそれは恥ずべき事ではないか?と感じた。誰でも、大袈裟に言えば素人でも扱える馬作りをするのが、ひいては馬のためであり、ホースマンとしての技術ではないか?と考えるようになった。
「アイルランドで乗った時は、周囲は羊だらけだし、自分は初めての場所で緊張したけど、馬が大人しいので助けてくれました。こういう馬を作らなくてはいけないと痛感しました」
転身をはかった調教師試験に一発合格
日本では更なる変化を求め、栗東をベースにするなど、努力を続けた。しかし、競馬の世界ではどの立ち位置でも思うように事が進まないのはごくユージュアル。田中もその行動がなかなか成績に直結せず、悩んだ。そして、そうこうするうちに、海外で学んだ事を、騎手としてではない立場で活かせないか?!と考えるようになった。
結果、16年に調教師試験を受けると、この難関を一発パス。当時、騎手上がりとしては最年少の31歳で調教師免許を取得した。
「勉強は苦にならないタイプだし、正直、手応えがありました。でも、実際に合格出来るかはまた別なので、受かった時は嬉しかったです」
技術調教師の間も私が滞在していたオーストラリアへ来るなど、相変わらず積極的に経験を積み、人脈を広げた。また、師匠である高橋祥泰の下でも「再び学ばせてもらった」と続ける。
「高橋先生がボソッと『調教師とは感じる事が大事。オーナー、スタッフ、馬が何を考えているかを常に考えて感じられるようにしなくてはいけない』と仰いました。自分のやりたい事を“オーナーはどう思うか?”“スタッフの考えている事とズレはないか?”“馬のためにはどうなのか?”など考えて行動に移さないといけないという意味と解釈しました」
開業後もこの言葉を心に留めた。
そもそも調教師試験合格後、師匠の下を訪れたのには理由があった。
「自分が騎手時代、先生の仕事に対する真面目な姿勢を見させていただきました。例えば土曜の新潟で最終レースに使っていて、日曜は1レースに出走させる場合でも、一旦、美浦に戻って調教を見てから再度、競馬場へ出向く。手を抜かない姿勢は見習わなくてはいけないと思いました」
それは異国で目の当たりにした伯楽の姿勢にも通じるモノがあった。
「ファーブル調教師は、良い意味で『その日のレースに間に合わなくても、調教を最後まで見届ける』行動をしていました。調教に立ち会わない日はないんです」
それで年間の勝ち星が幾つ違ってくるのか?そもそも違ってくるのかどうかも分からない。しかし、そういった細かい事の積み重ねが、やがて大きな差を生むと信じて行動するのが、厩舎の長としてのあるべき姿だと、田中は考えている。
人生を変えた”ダービー”に初挑戦
さて、そんな田中は今週末に行われる日本ダービーに管理馬であるバジオウを送り込む。
「戸崎(圭太騎手)さんが紹介してくださった鈴木剛史オーナーは、血統にもこだわりがある方なので、自分が薦めた馬でも必ずしもOKしてくれるわけではありません。でも、バジオウに関しては承諾してくださり、購入してもらえました」
それだけに責任を感じたが、2歳で入厩した当初は「精神的に余裕がなくて、肉体面もすぐに痛いところが出やすかった」(田中)。そのため東京のデビュー予定を延期。夏の新潟に設定し直したところ、それが吉と出た。デビュー戦でいきなり2着に好走し、3戦目で勝ち上がった。
「3月の大寒桜賞では当初、ユタカ(武豊騎手)さんに依頼していました。前の週の阪神で怪我をされたけど、その後、僕の馬を負かしてしっかり勝っていたので大丈夫だと思ったら、骨折されていて、乗れなくなってしまいました」
しかし、代打騎乗の浜中俊から有り難い言葉をもらった。道悪で結果は4着に敗れたが「良い馬」と絶賛してもらえたのだ。田中は言う。
「最初に跨った時から素質の高さを感じました。メンタル面で余裕が出てきたのが体の成長につながり、成長したので、プリンシパルSに挑戦しました」
「どのくらい通用するか?」という思いを、良い意味で裏切り先頭でゴールした。
「余裕を持って勝てました。こちらが思っている以上に強くなっていました」
こうして競馬の祭典・日本ダービーへの扉が開けた。
「騎手は大野拓弥君。騎手もオーナーも僕も皆、初めてのダービーです」と語る田中は続けて「フランスでは11年と16年の2度、ダービーを観戦しました」と続けた。16年の勝者アルマンゾルはその後、愛チャンピオンS(GⅠ)を勝ち、欧州版のJRA賞に該当するカルティエ賞で最優秀3歳牡馬に選定されるほどの馬だった。
「フランスではディアヌ賞(オークスに該当)の方が人気ですけど、とはいってもダービーも盛り上がっていたのは間違いありません。“ダービー”というのは世界中どこへ行っても特別なレースだと感じました」
思えばホースマン・田中博康にとっても“ダービー”は特別だった。
話は2000年まで遡る。14歳だった田中少年が何気なくつけたテレビで見たのが第67回東京優駿、つまりダービーだった。2頭がもつれるようにしてゴールした結果、武豊操るエアシャカールをハナ差で破ったのが兄弟子・河内洋(現調教師)騎乗のアグネスフライトだった。
「あのダービーを見て、騎手を目指すようになりました」
競馬学校を不合格になり高校に通ったが、諦め切れず再受験。そうまでして夢をかなえたが、残念ながら騎手時代にダービーで、乗る事は出来なかった。
「師匠が管理していたコマンドールクロスという馬でプリンシパルSを3着したのが、僕にとって最もダービーに近付いた瞬間でした」
開業4年目にして初のダービー参戦は、騎手時代を通しても初めてとなるひのき舞台となった。
騎手時代は「自分の騎乗レースを全て終えても、ダービーまで残り、スタンドから観戦していた」と言う。そんな憧れのレースに、ついに辿り着いた。自分をこの世界にいざなってくれた大舞台で、果たして若き調教師は何を感じるだろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)