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凱旋門賞勝ちのクリスチャン・デムーロに、亡き父や兄ミルコに対する想いを伺った

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
凱旋門賞を制したソットサスとC・デムーロ(Photo by S.Burton)

兄の後を追い、日本で桜花賞制覇

 10月4日に行われた凱旋門賞(G1)。JRAでも勝ち馬投票券が発売されたため、注目してご覧になった方も多いだろう。結果は地元フランスのJ・C・ルジェ調教師が管理するソットサスが優勝。手綱を取ったのは日本でもお馴染みのクリスチャン・デムーロ騎手だった。レース後、電話で伺った話を中心に彼の半生を振り返ってみよう。

現在フランスで騎乗するクリスチャン・デムーロ(2019年撮影)
現在フランスで騎乗するクリスチャン・デムーロ(2019年撮影)

 現在、日本の競馬界でも欠かす事の出来ない存在となっているミルコ・デムーロ騎手。彼の14歳下の弟がクリスチャンである事は、日本のファンの間でも有名だろう。私の記憶が正しければ、彼に初めて会ったのは2003年。この年、兄のミルコはネオユニヴァースで皐月賞(G1)と日本ダービー(G1)の2冠を制覇。菊花賞で3冠ジョッキーを目指すミルコを訪ね、私はイタリアへ飛んだ。その時、紹介してもらったのが当時まだ11歳だったクリスチャン。少年は上手に鞭を振り回しながら「ミルコみたいな良いジョッキーになりたいんだ!!」と言っていた。

 彼等、兄弟がジョッキーになったのは自然な流れだった。父が元ジョッキーだっただけでなく、叔父や従兄弟も皆、ジョッキー。ミルコの妹にあたるパメラも調教師免許を取得する競馬一家だったのだ。

若き日のクリスチャン・デムーロ(2011年、イタリアで撮影)
若き日のクリスチャン・デムーロ(2011年、イタリアで撮影)

 それでも兄は「幼い頃はトラック運転手に憧れた時もあった」と言うが、弟は先述した通り「兄のような良いジョッキーになりたい」と願って育った。そして母国イタリアでプロ騎手としてデビューすると、兄を追うように日本でも短期免許を取得。2013年の桜花賞(G1)ではアユサンに騎乗し、兄が操るレッドオーヴァルを抑えて見事にG1初制覇を達成してみせた。

2013年桜花賞のゴール。クリスチャンのアユサン(左)がミルコのレッドオーヴァルを退けて優勝した
2013年桜花賞のゴール。クリスチャンのアユサン(左)がミルコのレッドオーヴァルを退けて優勝した

 このアユサン、出馬表が発表された時、その騎手欄には他の騎手の名が記されていた。しかし、その騎手が前日の競馬で落馬。急きょクリスチャンに白羽の矢が立てられた。当時、クリスチャンは次のように語っていた。

 「本当はエバーブロッサム(フラワーC2着馬)で挑むつもりだったんだ。でも、この馬が使えず、乗り馬が無くなってガックリと落ち込んでいたんだ。そうしたら前日になって手塚(貴久)調教師から直接『アユサンに乗ってください』って言われた。本来、騎乗を予定していたジョッキーには申し訳ないけど、正直、ラッキーだと思いました」

 実は前年の12年も直前で桜花賞に乗れなくなった経緯があった。騎乗を予定していたハナズゴールが、当該週に怪我をして回避する事になったのだ。それだけにクリスチャンは喜び「このチャンスを生かしたい」と考えた。

 「慌てて直前に走ったチューリップ賞のビデオをチェックしました」

 レースでは直線で早目に先頭に立ったところを1度はレッドオーヴァルにかわされた。しかしそこから差し返し、パートナーを桜の女王に導いた。

 「スタートで出して行ったら少し掛かり気味になったし、直線も先頭に立ったらソラを使ってしまった。ミルコにかわされた時は『負けた!!』って思ったけど、そこから良く差し返してくれました」

アユサンの鞍上で手を挙げるクリスチャン・デムーロ
アユサンの鞍上で手を挙げるクリスチャン・デムーロ

フランスへ渡り伯楽と出会う

 その後だが、ご存知のように彼等の祖国であるイタリアの競馬は破綻状態に陥った。賞金が大幅に減額されたばかりか、その賞金の振り込みは遅延が続くのに税金だけは先に払わなければいけないような苦しい状況となり、多くのホースマンが泣く泣く他国に生活の場を移した。

 クリスチャンもその1人。選択したのは妹のパメラの結婚相手であるアントニオ・ポッリ騎手と同じフランスだった。ここでクリスチャンはフランスを代表する伯楽のルジェと出会う。16年には同調教師が管理するラクレソニエールでフランスでは1、2の人気を誇るディアヌ賞(オークスに該当、G1)を優勝した。

クリスチャン・デムーロでディアヌ賞を勝ったラクレソニエールとJ・C・ルジェ調教師(2016年撮影)
クリスチャン・デムーロでディアヌ賞を勝ったラクレソニエールとJ・C・ルジェ調教師(2016年撮影)

 また、翌17年にはブラムトでダービーにあたるジョケクラブ賞(G1)を勝つと、2年後の19年、2回目となるダービー制覇。この時、コンビを組んだのがソットサスだった。同馬とはその後、昨年の凱旋門賞はヴァルトガイスト、エネイブルに続く3着。3歳の身ながら善戦をして、古馬になる今年の活躍を予見させた。

昨年の凱旋門賞のパドック。すぐ隣の馬番が武豊騎手だった
昨年の凱旋門賞のパドック。すぐ隣の馬番が武豊騎手だった

 そしてその今年はガネー賞(G1)で2つ目のG1制覇。アイルランドのチャンピオンS(G1)はおりからのコロナ騒動による移動制限で他の騎手にその鞍上を譲ったソットサスだが、結果は1、2着のマジカル、ガイヤースを上回る末脚で僅差の4着に健闘。凱旋門賞に期待を抱かせる内容ではあったが、クリスチャン本人にはその頃、大きな事件が起きていた。

 「9月6日に父が亡くなりました。すぐにイタリアへ飛び、会ってきましたが、とても残念で悲しかったです」

 「応援してくれた父のためにも勝ちたい」という思いを持って、凱旋門賞ではソットサスに再び騎乗する事になった。この大一番にはルジェとクリスチャンのコンビでディアヌ賞4着など、G1戦線で活躍したラービアーも出走していたが、クリスチャンは言う。

 「自分と調教師とで相談した結果、僕がソットサスをチョイスしました。ひそかにこの馬で凱旋門賞を勝てるという自信を持っていましたから」

 結果は皆さんご存知の通り。馬群の中でもがくエネイブルや残念ながら伸びを欠いた日本馬ディアドラとは対照的に、どろんこ馬場の上を軽快に疾走。見事、クリスチャン自身初となる凱旋門賞制覇を成し遂げた。

凱旋門賞の表彰式。クリスチャンの向かって右がルジェ(Photo by S.Burton)
凱旋門賞の表彰式。クリスチャンの向かって右がルジェ(Photo by S.Burton)

 「ゴール前は父が助けてくれたと思いました。僕にとっては一つの夢が現実になったという意味で信じられないくらい嬉しいし、アメージングです!!」

 その晩、日本にいる兄に電話を入れたと続ける。

 「ミルコは本当に嬉しそうで、多分、泣いていたと思います」

 様々な事情で今は兄弟が離れ離れになっているが、心はいつも一つなのだろう。

 「コロナの関係で今シーズンは難しそうだけど、来シーズンはまた短期免許で来日するつもりで考えています」

 凱旋門賞ジョッキーが、兄と揃って日本で騎乗できる日が来る事、そして兄弟共々の活躍を願おう。

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(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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