故・後藤浩輝の師匠、逝く。彼のホースマン人生と、引退後の夢だった事とは……

ラッキールーラでダービーを勝った伊藤正徳当時騎手(本人提供)

北馬場で捕まらない男

 ある日の美浦トレセン。後ろから右肩を引っ張られるような感覚に襲われた。

 “カシャカシャカシャ!”

 次の瞬間、響いたカメラのシャッター音。振り向くと、そこには肩から下げた当方のカメラを手にする伊藤正徳調教師(当時)がいた。

 そんな元調教師で元騎手の伊藤正徳さんが8月20日、71歳で亡くなった。

定年間近だった当時の伊藤正徳調教師
定年間近だった当時の伊藤正徳調教師

 話は約30年前に遡る。当方が美浦トレセンでトラックマンとしてのキャリアをスタートさせた時、担当した厩舎の一つに伊藤正徳厩舎があった。北馬場に厩舎を構えていたが、藤沢和雄ら他の数名の調教師と同様、北馬場のスタンドで捕まえるのは難しい調教師だった。馬について歩いたり、坂路や南馬場を使ったりするのがその理由。現在では当たり前となっているそんな行動も、ウッドチップコースや坂路が出来たばかりの当時としては珍しかった。それだけ、アクティブでパイオニア的な存在だったのだ。

 スタンドで捕まえられないのだから、こちらから出向くしかない。毎朝、馬場の開場時刻より早く厩舎へ行った。隣の厩舎の国枝栄との井戸端会議に混ぜてもらいつつ、その週の出走予定馬を聞き、コメントを取った。真面目で、理詰めでモノを考える人だったから、厳しい面があり、最初の頃は怖い存在だと感じた。

2003年、香港遠征時の伊藤正徳調教師(左)と藤沢和雄調教師
2003年、香港遠征時の伊藤正徳調教師(左)と藤沢和雄調教師

父の遺言からダービージョッキーへ

 1948年10月、北海道の静内町生まれ。父・正四郎は元騎手で、当時は阪神競馬場で開業する調教師だった。生前の正徳に聞いた話では「幼少時は静内で美容院を営む母の下で育てられた」そうだ。小学校の卒業を間近に控えたある日、人生を大きく変える出来事があった。正四郎が入院。母と共に北海道から入院先に駆けつけると、病床の父から言われた。

 「騎手になれ」

 この段階で乗馬経験がなかったため、1度は首を横に振った。しかし、それで納得する父ではなかった。基礎から教えるという条件をのみ、騎手になる事を決意した。

 「ところが実際、父が教えてくれた事はありませんでした。それからすぐに意識不明になり、逝ってしまったんです」

 北海道を出て阪神競馬場の厩舎に住み込んで、中学に通った。中学を出ると、上京。まだ新幹線などない時代、大阪から10時間かけて東京の馬事公苑へ行き、騎手養成課程の長期候補生となった。

 馬事公苑では後に“花の15期生”と呼ばれる錚々たるメンバーの一員となった。岡部幸雄、柴田政人、福永洋一らと切磋琢磨した。その後、父と同様、尾形藤吉調教師(当時)を師事。68年に騎手としてデビューした。

 「保田隆芳先生を筆頭に兄弟子が8人もいました。尾形先生の靴を磨くのは当然、梅干しを漬けるような仕事もしました。勿論、兄弟子達の身の回りの世話もする。当時はそういった事が当たり前の時代でした」

 兄弟子がそれだけいたのだから、乗り数を確保するだけでもひと苦労だった。それでも数少ないチャンスを活かし、重賞の東京障害特別を優勝すると、徐々に成績が安定しだした。重賞も幾度か勝つうち、76年の夏に出合ったのがラッキールーラだった。

 「デビュー前から560キロくらいあって、ゲートインすると隙間がないくらいキチキチになるような大型馬でした。でも、走らせてみると考えた以上に動く馬でした」

 翌77年には同馬で日本ダービーに挑んだ。終始好手応えで直線に向くと、その鞍上で冷静な手綱捌きを披露した。

 「『東京の直線は3つ4つ数えてから追い出せ』と言われていました。その金言を守って幾つか数えた後、追いました。最後はもう必死に追いに追いました」

 こうしてダービージョッキーになった。それはトクマサで制している父・正四郎との親子制覇の瞬間でもあった。

ダービー勝利直後の伊藤正徳騎手(当時)(本人提供)
ダービー勝利直後の伊藤正徳騎手(当時)(本人提供)

師匠とのエピソード

 81年にはこんな事があった。夏の函館開催の時、師匠の尾形藤吉が倒れて入院した。9月になっても体調が戻らず入院したまま。そんな状況下の27日、師匠の管理馬であるメジロティターンでセントライト記念に臨んだ。後に彼はこのレースの模様を次のように述懐した。

 「行くところ行くところ前が開いて、何の不利も不満もないまま走れました。展開も予想していた通りでした」

 結果は楽勝だった。レース後、師匠を見舞うために函館へ飛ぼうとしていると……。

 「勝利騎手インタビューへ向かおうとしている時、尾形先生が亡くなったと報告されました。周囲の皆はレース前から知っていたけど、重賞が終わるまで私には教えないようにしていたそうです」

 そのメジロティターンで翌82年には天皇賞(春)を制した。しかし、デビュー当初から減量に苦しんでいた事もあり、87年には鞭を置き、調教師に転身した。

伊藤正徳騎手(当時)と師匠の尾形藤吉調教師(当時)(本人提供)
伊藤正徳騎手(当時)と師匠の尾形藤吉調教師(当時)(本人提供)

調教師としてもG1優勝

 再びその名を轟かせる事になったのは、99年。管理するエアジハードで、安田記念(G1)とマイルチャンピオンシップ(G1)を優勝。特に前者は当時、最強とも言われていたグラスワンダーを競り負かしての優勝劇だった。

 「競馬場に娘を連れて行ったのですが、それを忘れるくらい興奮しました」

 騎手時代にダービーを制したラッキールーラの馬主が吉原貞敏。その長男が代表を務める(株)ラッキーフィールドの持ち馬であるエアジハードでのG1制覇に「少しは恩返しが出来たかな……」と続けて語った。

画像

ホースマン人生と引退後の夢

 騎手としても調教師としてもG1を勝った伊藤が、70歳の定年により厩舎を解散したのは昨年の2月。先述した通り、最初の頃は怖いイメージがあったが、親しくなると全く違った。人情味に厚い人だった。毎年、馬主でもある前川清さんのスケジュールに合わせた忘年会に呼んでいただくのが楽しみだった。顔を見れば「あちこちに行って、いっぱい書いているけど、休んでいるのかい?」と気遣ってくれた。奥様に伺った話では「今年に入ってから体調を崩していた事は、本人の意向で誰にも伝えられなかった」そうだ。訃報を耳にして初めて「人の心配をしている場合ではなかったのに……」と考えさせられたのと同時に、伊藤先生らしいな、と思った。

 定年の際、それまでのホースマン人生を振り返っていただくと、次のように答えていた。

 「騎手、調教師と大きな怪我もなく定年まで出来て幸せでした。そう出来たのは家をしっかり守ってくれた妻のお陰です。引退後は一緒に沢山、旅行にでも行きたいですね」

 それから僅か1年半ほどで鬼籍に入ってしまったが、少しでもその望みがかなえられていたと願いたい。

画像

 さて、冒頭に記したカメラのエピソードには続きがある。更に遡ること数年、全く同じ行為した男がいたのだ。

 弟子である後藤浩輝だ。

 驚いて振り向いた当方を見て、いたずら小僧のように笑った表情まで、2人はまったく同じであった。

 定年時のインタビューでホースマン人生を振り返り「幸せでした」と語った事は先に記した。しかし、その時「ただ一つの事を除いては……」と言って、唇をぐっと噛みしめ、目をしばたかせた事を、最後に記しておこう。伊藤正徳先生、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。これからはゆっくり、彼と語り合ってください。

画像

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)