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マスクをとり、面と向かって話せるその日のために立ち向かう馬と人の物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
横山典弘騎手を背に調教が進む新開幸一厩舎期待の2歳馬とは……

競馬無縁の家庭から海外へ

 1993年の秋、ある調教助手の家で、当時、トレセンに来たばかりの男を紹介された。

 「マスコミの人と話すのは初めてです」と言った彼が、後に調教師となる新開幸一だった。

 新開は1966年10月21日生まれで現在53歳。父・芳信、母・みち子の間に神奈川県で生まれ2人兄弟の長男として育てられた。ハイセイコーが走っている時代に父の影響を受けて競馬を見始めた。テンポイントにも心を躍らせたが、何と言っても熱くなったのは高校二年生の時に見たミスターシービーだった。久々に現れたアイドルホースは強烈な追い込みを武器にシンザン以来19年ぶりの三冠馬となった。更に翌年、シンボリルドルフが無敗でトリプルクラウンホースとなった。2年連続での三冠馬誕生に「こういった強い馬と一緒に仕事をしたい」と思うようになった。

 大学受験に失敗し、浪人生となった。そんなある日、何の伝手もないまま北海道に飛び、牧場の門を叩き働かせてもらう事になった。牧場にはクラブ所有の馬がいた。それらの馬のレポートを届けるうちに、馬をよく観察するようになった。6年の歳月が流れ、馬乗りも上達すると、海外の競馬も見たいと思うようになった。そこで今度はオーストラリアへ飛んだ。メルボルンCを9勝(後に12勝まで伸ばす)し、ザ・カップス・キングと呼ばれたバート・カミングス調教師の厩舎で働いた。

 「口向きや調教法などを目の当たりにして、オーストラリアの馬がなぜ短距離に強いか、がっしりしてパワーがあるのか納得出来ました」

 乗り方や使い方など、日本とはまるで違う点にも目を剥いた。どちらが良いとか悪いではなく、違いを知る事が勉強になった。

B・カミングス調教師は伝記にもなっており豪州競馬界で彼を知らない人はいない。ちなみにジャパンCにもレッツイロープを送り込んだ事がある
B・カミングス調教師は伝記にもなっており豪州競馬界で彼を知らない人はいない。ちなみにジャパンCにもレッツイロープを送り込んだ事がある

一人の男と出合い調教師になった後、ある馬と出合う

 93年にビザが切れて帰国するとすぐに競馬学校に入学。冒頭に記した通りその年の秋に美浦トレセン入りした。先に記した新開を紹介してくれた調教助手をAとしよう。Aはアメリカの厩舎で働いていた経験があり、海外の競馬にも精通していた。「知識が豊富で優しい人」だと新開は感じた。Aは「皆が海外みたいに馬を中心に考えられるようにならないといけない」と調教師を目指していた。調教師になれた暁には、海の向こうへ挑戦したいという大志も抱いていた。ところがそんな彼を2000年に病魔が襲った。病院嫌いだったAがあまりの痛みに耐え切れず、重い腰を上げて通院した時にはすでに手遅れだった。Aは呆気なく天に召された。

 新開が彼の遺志を継ぐように調教師試験を受けたのは翌01年の事だった。なかなか合格は出来なかったが、志半ばで逝った先輩の事を想うと、諦めるわけにはいかなかった。結果、09年、ついに難関を突破。「いずれ海外へ挑戦出来るような厩舎にしたい」と10年に開業した。

現在の新開。新型コロナウイルスの影響で調教師も皆、マスクを着用している
現在の新開。新型コロナウイルスの影響で調教師も皆、マスクを着用している

 開業2年目の11年の事だった。門別で3歳の秋にデビューし、2連勝した馬が転厩してくる事になった。入厩前に牧場まで見に行くと「レベルが違う馬だ」と言われた。実際に入厩させると、最初の坂路調教から目を見張る動きを見せた。

 「普通キャンターだったけど、体の使い方も動きも素晴らしかった」

 それがマスクトヒーローとの出会いだった。同馬の母はビハインドザマスク。00年にセントウルS(G3)を、01年にはスワンS(G2)を、そして02年には京都牝馬S(G3)を勝利した名牝だった。そんな母に父ハーツクライのマスクトヒーローは転厩初戦を楽勝すると、その後、デビュー7戦を終えた時点で6勝を挙げる活躍。あっという間にオープン入りした。しかし……。

 「ヒザが泣き所でした。レース前後に小まめにレントゲンを撮るなど手は打っていましたがオープンで厳しい競馬をするようになると、何度も骨折をしてしまいました」

 数か月に及ぶ休養を何度も挟みながらも14年の暮れにはオープン勝ち。翌15年には重賞のマーチS(G3)に送り込んだ。新開は当時の心境を述懐する。

 「何とか重賞を勝たせてあげたいと強く思っていました」

 名手・横山典弘を配し、1番人気に支持された。

 好位を進んだレースでは、4コーナーで横山が股下から後続を確認するほど絶好の手応え。直線では堂々と先頭に躍り出た。ゴールまで30メートルでもまだ先頭。念願の重賞制覇と思えた。ところが栄冠を目の前にして急失速。時計差なしの3着に惜敗した。

 「失速した時には『またやっちゃったかな?!』と思いました」と新開。悪い予感は的中。骨折していた。

 「さすがにこれ以上はかわいそうだと思い、この1戦を最後に引退させる事にしました」

コロナに打ち勝つ日は必ずやってくる

 千載一遇の重賞制覇のチャンスを逃したのはマスクトヒーローだけではなかった。それから5年が過ぎたが、新開もまだグレードレースには手が届いていない。それでも毎年コンスタントに成績を残す調教師は言う。

 「生き物相手なので思うようにいかない事がほとんどです。でも、そんな中でも投げ出さずに少しでもうまくいくためにはどうすれば良いかを模索し続ける事が大切だと考えています」

 こういう姿勢を貫き通している限り、いずれ競馬の神様が微笑んでくれる日は来る事だろう。そんな指揮官が現在、楽しみにデビューを待つ馬がいる。マスクトヒーローの妹の子供であるトゥーフェイスという2歳の牡馬だ。

トゥーフェイス(新開師提供)
トゥーフェイス(新開師提供)

 「お父さんはモーリス。姉のルイジアナママも私の厩舎でみさせていただいていますが、440キロ台の彼女と違い、骨格がしっかりして480キロくらいあります。マスクトヒーローとも違う感じで今のところ脚元もしっかりしています」

 ビハインドザマスクもマスクトヒーローもルイジアナママも3歳でのデビューだったが、トゥーフェイスは2歳春の4月2日にはすでに入厩。6月に始まる2歳新馬戦を目指しじっくりと乗り込んでいる。

 「ノリちゃん(横山典弘)に乗ってもらい、調教では良い動きをしています」

横山典弘を乗せて調教をされているトゥーフェイス
横山典弘を乗せて調教をされているトゥーフェイス

 調教は順調に進んでいる。問題は現在の状況だ。ご存知のように新型コロナウイルスと戦っているのは競馬の世界も同様。5月末に迫ったダービーでさえ確実に行われるという保証はどこにもないのだ。

 「JRAは全厩舎、全員で対策に取り組んでいます。もちろんうちの厩舎でも徹底しています。東京や中山へ行く厩舎スタッフは寄り道せず往復しているし、途中の休憩が義務化されている福島や新潟でも車中で休むようにしています。また、近隣の皆様に迷惑をかけないためにも競馬場では外出しないようにしています」

 そう語る新開自身、自宅とトレセン、競馬場の往復だけという生活を続けている。こんな時代だからこそ“立ち向かう”の意味を持つトゥーフェイスが走れば希望の灯りが点るかもしれない。ちなみにトゥーフェイスの母の名はマスクオフ。皆でマスクオフして競馬場に集まれる日は必ずやって来る。トゥーフェイスの勝利と新開の重賞制覇に海外遠征が見られる日も必ずやって来る。明るい未来を信じたい。

18年撮影の新開師。一日も早くこのように皆がマスク無しで楽しめる日が戻る事を願う
18年撮影の新開師。一日も早くこのように皆がマスク無しで楽しめる日が戻る事を願う

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

※今回の取材は電話にて行いました。新開調教師に感謝いたします。

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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