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「もう1周!」 あの距離錯誤を犯した若手騎手の現在と当時の真相を明らかにする

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
美浦トレセンで調教に騎乗する山田敬士騎手

女手一つで育ててくれた母を楽にしてあげたいと騎手を目指す

 「もう1周!!」

 あの時の声が忘れられないと山田敬士は言う。

 騎手デビューしたばかりの2018年。10月13日に事件は起きた。

 先週3月28日の中京競馬第1レース。勝利した山田が騎乗したのは大江原哲厩舎のエバンタイユドール。元は故・高市圭二調教師が管理していた馬。高市にとって幻の通算300勝となった。今回はその山田に例の事件の真相と当時の心境、そして生い立ちから振り返ってもらい、現在の思いまで語っていただいた。

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 1997年9月18日、東京の東村山で山田は生を受けた。現在22歳の彼には2歳ずつ離れた弟が2人いる。小学生の時に両親が離婚し、3兄弟はいずれも母のさつきに育てられた。

 「金銭的に恵まれていなかったので、母は僕達3兄弟のために昼夜を問わず、働いてくれました」

 「早く稼げるようになって母に楽をさせてあげたい」と思うようになった山田少年と競馬との出合いは偶然だった。

 「たまたま見たテレビでディープインパクトの特集をしていました。気になってその後の有馬記念を見たら乗っていた(武)豊さんが格好良くて、憧れるようになりました」

 騎手になりたいと思った。そのためには乗馬を始めなければ、と考えた。しかし、決して裕福な家庭ではなかったため、自分からはそれを言い出せなかった。

 「でも、母が察してくれて、小学6年の時に乗馬を始めさせてくれました」

 そんな母を想い、中学卒業と同時に競馬学校を受けた。しかし、不合格。馬術部のある都立農芸高校に通った後、1年後に再受験。1年前の経験を糧に対策を練ったお陰もあり「筆記試験では手応えを感じた」。ところが今度は面接で失敗した。

 「テンパッてしまい、返答に詰まってしまいました」

 またも不合格。がっくりと肩を落として高校に戻ると、若い女の先生が協力を申し出てくれた。

 「面接の練習を何度も積みました。また、その先生は競馬学校の授業にもある“綱上り”の出来る施設がある他の学校も紹介してくれて、連れて行ってくれました」

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競馬学校に合格し、念願の騎手デビュー

 こうして3度目の受験をすると、ついに門扉が開かれた。

 「入学後は実技の走路で苦労をしました。1人の教官が授業時間外に僕のビデオをみながら教えてくれた事で何とかついていけました」

 2年生になり、配属先が美浦の小桧山悟厩舎に決まった。厩舎実習の初日。緊張して厩舎を訪れた山田を迎えてくれたのは飾る事のない師匠だった。山田は笑いながら初顔合わせの日を述懐する。

 「挨拶をしたらそのまま外で1時間、お話になりました。真冬ですよ」

 厩舎には当時技術調教師だった青木孝文(現調教師)もいた。2人は共に明るいキャラクターで山田に接してくれた。学校時代の3年間で、2度もドクターヘリで搬送される怪我をしたが、留年をする事もなく何とか3年で卒業。18年、関東では唯一の新人として騎手デビューを果たした。デビューにあたって師匠から何か言われた事があったかを問うと、かぶりを振って答えた。

 「小桧山先生から競馬について何か言われる事はありませんでした。ただ“人”としての教育はいつもしてくださっています」

左から小桧山師、山田、青木師
左から小桧山師、山田、青木師

 また、他の調教師を始め、多くの人を紹介してくださったと続ける。そして、そうやって紹介してくれた1人に高市圭二がいたと言う。

 「高市先生からは『馬上にいる時は常に見られていると思って姿勢や服装には気をつけなさい』という事と『チャンスは誰にでも必ず来るから、その時にそのチャンスを掴み損ねないように日々精進する事が大切』とおっしゃっていただきました」

 デビュー戦は緊張した。しかし、小桧山や青木、高市らが見守ってくれている事で落ち着きを取り戻して乗れたと言う。

 「もっとも模擬レースとは違うスピードで、思うような競馬は出来ませんでしたけど……」

 4月14日の福島競馬場でついに初勝利を挙げた。

 「矢作(芳人)先生の馬でした。今、見直すと早仕掛けだったけど、馬の力で勝たせてもらいました」

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距離錯誤はなぜ起きたのか

 なかなか勝ち星は伸びなかったが、8月に通算5つ目の勝ち鞍を挙げると9月には2日連続で勝利。乗り鞍も増え始めた。そんな10月13日の事だった。この日、4レースに騎乗予定で各レースの予習をしていた山田は、第5レースで芝のレースに騎乗した後、連続騎乗となる次のレースの条件を改めて確認した。

 「ダート2500メートル戦で、バレットの人と『珍しい距離ですね』って話をしていたんです」

 騎乗したのはペイシャエリート。美浦・小笠倫弘厩舎の馬だった。騎乗するのはこの時が初めて。過去の成績をみると、好走歴は逃げた時に偏っていた。

 「だからゲートが開いたらまずはハナを奪いに行きました。思った以上にスムーズに逃げる事が出来て、ホッとしてしまいました」

 ヴィクトリーロードと思えたそれは、地獄へ続く茨の道だった。

 「ハナを切れたので後はとにかく折り合いだけ気をつけました。3コーナーまで何とか折り合っていけたので、その後は自然と体が動いてしまいました」

 直線、追うと後続が追いかけてくる雰囲気がなかった。このまま逃げ切りたいという一心で更に追った。すると先頭をキープしたままゴール板前を通過した。

 「『勝った!!』と思いました。それで1コーナーから2コーナーにかけて流していたら後ろから来た柴山(雄一騎手)さんの『もう1周!!』っていう声が聞こえました」

 え?!と思い、声の聞こえた方へ視線をやると、まだレースを続ける馬群が見えた。その瞬間、このレースが2500メートルだった事を思い出し、血の気が引いたと言う。

 「『やっちまった!!』って思い、愕然としました」

 再び馬群に取りつこうとしたが、後の祭り。勝ち馬から5秒近く離される最下位でのゴールとなった。

 呆然として上がってきた山田を最初に迎えたのは調教師の小笠だった。

 「叱られる事を覚悟していたのに小笠先生は『僕がとにかく逃げてって強調しちゃったから、申し訳なかった』とおっしゃってくださいました」

 下馬するとすぐに裁決に呼ばれ、詰問された。

 「頭の中は真っ白になっていたけど、そんな状態でも『関係者の皆さんには直接謝れるけど、ファンの皆さんには謝れないのが申し訳ない』と話したのは覚えています」

 その後、距離錯誤による即日騎乗停止処分がくだされる事になった。

あの事件についても正面から受け止め語ってくれた山田
あの事件についても正面から受け止め語ってくれた山田

それでも応援してくれる人達に出来る恩返しとは

 その晩、調整ルームにいると、先輩騎手の丸田恭介に呼ばれた。

 「『これで終わりじゃないから』と励ましていただきました。その後、他の先輩騎手も自分の部屋に励ましに来てくれたのですが、その先輩に言われて初めて自分が暖房をつけていた事に気付きました。相当、気が動転していたんです」

 小桧山からはすぐに電話が入った。2日後に外出許可が出ると、師匠に連れられてすぐに北海道にいるオーナーの下へ謝罪に行った。

 「北所(直人)オーナーに殴られても仕方ないという覚悟で行ったのですが『これからもまた乗せるから、頑張れ!!』と励まされてしまいました」

 山田は必死に溢れそうになる涙を堪えた。

中央の白帽が当時高市厩舎だった”ペイシャ”リルキスに騎乗する山田
中央の白帽が当時高市厩舎だった”ペイシャ”リルキスに騎乗する山田

 その後、騎乗停止期間は3ケ月と決定した。1年と言われても仕方ないと考えていた山田は、後に高市の口から思わぬ事実を耳にした。

 「高市先生から『3ケ月で済んだのは北所オーナーがJRAに寛大な判定をとお願いしてくれたからだぞ』と教えていただきました」

 3ケ月の騎乗停止期間に関し、青木からは次のように言われた。

 「余計な事を考えないように、出来る限り調教で馬に乗るようにしなさい」

 また、松岡正海も的確なアドバイスをくれた。

 「松岡先輩からは『ごはんを食べに行っただけでも“遊んでいる”と言われちゃうから、外出は控えた方が良い』と言われました」

 これらの助言を忠実に守った。朝は調教時間内でフルに騎乗馬を捜した。調教が終わってからは、食料を調達しにコンビニに行くくらいで、後は寮に籠った。そんな生活を3ケ月、続けながら、改めて自分を見つめ直し反省した。

 「少し乗り数が増え、競馬に慣れて来た事で、集中力を欠いていました。自分の未熟さ以外に何もありません」

 騎乗停止処分が明けた後も乗せてくれる小笠に高市や青木、小桧山にオーナーの北所ほか、多くの関係者。そして声援を送ってくれるファン。高校時代の女性の先生や競馬学校時代の教官、そして女手一つで育ててくれた母ら全てのお世話になった人達に対し、謝罪の意を形に表すのは2度と同じミスを犯さないようにした上で、活躍をする以外にない。残念ながら高市に対してはそうやって恩返しの出来る機会が無くなってしまった。でも、だからといって焦る必要はない。山田に出来る事は、ゆっくり時間をかけてでも、いつの日か皆に対し借りを返せるよう、努力を続ける事だけだ。

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(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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