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スーパー銭湯アイドル純烈のリーダーと競馬との不思議な縁

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
大ブレイク中の純烈。リーダー酒井一圭(右端)は大の競馬ファンだ

競馬との出合いと子役時代

 今をときめく純烈のリーダーが酒井一圭だ。

 ひょんな事から彼と知り合ったのは今から20年も前。当時、彼は戦隊ヒーロー・ガオレンジャーのガオブラックを演じていた。私はガオレンジャーの一員である金子昇や玉山鉄二を紹介してもらい、逆に酒井には武豊、幸四郎兄弟を始め、何人かの騎手を紹介した。酒井は言う。

 「そんな縁が元で金子に至っては競馬番組のMCをやらせてもらえるまでになったし、僕も現在、時々競馬の仕事が舞い込んでくるようになりました」

純烈のリーダーとして大活躍する酒井一圭
純烈のリーダーとして大活躍する酒井一圭

 しかし、こと酒井に関して言えばここまでの道程は決して順調だったわけではない。

 1975年6月20日、大阪の吹田で、父・伸一、母・恵子の下、3人きょうだいの長男として生を受けた。

 「大阪にいたのは3歳までで、その後、多摩ニュータウンに越したのですが、初孫だったため、毎年、夏休みは祖父のいる大阪で過ごしていました」

 その祖父が競馬好きで、毎週末、場外馬券売り場に連れて行かれた。

 「馬券で儲けた人達が『坊主、やるよ』という感じで小遣いをくれました。だから馬券売り場に対するイメージは悪くありませんでした」

 7歳で劇団に入団すると9歳の時には人気テレビ番組『逆転あばれはっちゃく』の主役に大抜擢。子役として一躍世間に知れ渡る存在となった。

逆転あばれはっちゃく時代の酒井(事務所提供)
逆転あばれはっちゃく時代の酒井(事務所提供)

 「仕事が忙しくて学校へ行けず、成績をつけてもらえませんでした」

 これではマズいと思い、10歳で一度芸能界を引退した。

 その後、千葉に越した。中学ではサッカーに興じたが、野球部から誘われてやってみると自分でも驚く才能が開花。酒井の投げる速球は中学生離れしており「何度もノーヒットノーランを達成した」と言う。余談だが、後に彼には私が持っている草野球チームに入団、活躍してもらっている。

筆者の草野球チームで活躍していた頃の酒井(右)。1人挟み、左でガオレンジャーのポーズをしているのが筆者
筆者の草野球チームで活躍していた頃の酒井(右)。1人挟み、左でガオレンジャーのポーズをしているのが筆者

 そんな頃、家からそう遠くない中山競馬場に行く機会があった。

 「空がドーンと抜けているのを見て感動しました。いつかは競馬場の近くに住んでみたいと思ったのを覚えています」

 高校生活の終わりくらいに再び劇団に入り、芸能界に復帰していた酒井が、その願いを叶えたのは19歳の時だった。東京競馬場のある府中に住み始めたのだ。

紆余曲折の下積み時代から、ある夢のお告げ

 あばれはっちゃくを演じていた事を隠して復帰した芸能界だったが、順調な船出をした。ハリウッド映画『シン・レッド・ライン』では準主役の日本人捕虜役を務めると、同作はアカデミー賞作品賞にノミネートされた。ガオレンジャーで人気を博したのはその直後の事だ。

ガオレンジャーのガオブラックを演じていた時の酒井(事務所提供)
ガオレンジャーのガオブラックを演じていた時の酒井(事務所提供)

 「その間も競馬は好きで続けていました」

 しかし、そのまま順風満帆に過ごせるほど芸能界は甘い世界ではなかった。全く仕事のない時期もあった。それでも酒井は自分なりにもがく姿勢を止める事はなかった。

 「裏方にも興味があったので、そういった仕事もしました」

 ライヴハウスのプロデューサーやプロレスラーまで経験した。

 「面白そうな話があれば基本的に断らず積極的に受けていました」

 そんな不安定な最中の2003年、28歳で結婚をした。

 「府中駅でティッシュ配りをしていた時に知り合った女性でした。二十歳で知り合い、その後しばらく会っていなかったのですが、7〜8年ぶりに再会すると、その半年後には籍を入れました」

 一男一女を授かった後、07年4月に転機が訪れた。映画の撮影中に右足を骨折。入院とリハビリは長期に及び担当医からは「普通に歩けるようになるのは難しいかもしれない」と言われた。そんな時、ある夢を見た。

 「前川清さんが直立不動で歌っている夢を毎晩のように見ました」

 動かずに歌う大御所と動きたくても動けない自分が重なり「これだ!」と思った。

 「夢のお告げだと感じました。ムード歌謡のコーラスなら、歩けないでも歌えると思ったんです」

2003年出版の「酒井祭」で対談をした際の筆者と酒井(右)
2003年出版の「酒井祭」で対談をした際の筆者と酒井(右)

純烈の旗揚げとブレイク。そして競馬

 そんな夢のお告げを受けた頃、見たのが日本ダービーだった。コースの柵にしがみつき、出走馬中ただ1頭の牝馬ウオッカに声援を送った。

 「ウオッカが勝つのを見届けて『自分もやってやろう!』と心を固めました」

2007年、牝馬ながら日本ダービーを制したウオッカ。このレースを観戦した酒井は「俺もやってやる!!」と決意した
2007年、牝馬ながら日本ダービーを制したウオッカ。このレースを観戦した酒井は「俺もやってやる!!」と決意した

 一緒にムード歌謡を歌ってくれる仲間を探し、声をかけまくった。松葉杖をつきながらあちこちを回り、夜のファミレスやカフェで「一緒に紅白を目指そう!!」と熱い想いを伝えた。違う道を歩み始めた者や別の夢を持つ人達には断られた。しかし、そんな中、賛同してくれる男達がいた。

 そうこうするうち足も完治した酒井はその男達を引き連れてムード歌謡コーラス・グループ“純烈”を立ち上げた。

 「最初はキャバレーや区民センターなどで歌っていました。なかなか注目される事はなく、何年も地道にそういう活動を続けていました」

 そんな時、競馬が心の支えになる事もあったと続ける。

 「騎手や調教師でも、レースで勝つのはほんのひと握りの人ですよね。皆、辛い想いや痛い事の方が圧倒的に多いはずです。でも、限られた人にしか与えられない勝利を目指して一所懸命にやっている。その姿を見て、自分も頑張らなくては、と何度も励まされました」

先出の酒井祭には武豊騎手にも出ていただいた
先出の酒井祭には武豊騎手にも出ていただいた

 15年には大歌手でありオーナーである北島三郎との間にこんな事があったと言う。

 「北島さんが持っている馬がデビューから2連勝をしました。『これは強い馬ですね!!』と話しかけたのをきっかけに、その後、番組に呼んでくれたり、目をかけてくれたりするようになりました」

 その馬こそが後に有馬記念やジャパンC、天皇賞などを勝利して年度代表馬にも選出されるキタサンブラックだった。

キタサンブラックが縁で大御所・北島三郎にも目をかけられるようになった
キタサンブラックが縁で大御所・北島三郎にも目をかけられるようになった

 同じ年には父の伸一が他界した事で、酒井は自らにより一層、鞭を入れるようになった。

 「倒れたと聞き、病院へ向かっている車中で『亡くなった』と連絡を受けました。『紅白を目指す』なんて言っていたけど、その姿を見せる前に逝ってしまった事で、のんびりしていてはいけないと思いました。気合いが入りました」

 銭湯や公会堂など、以前にもましてどんな仕事でも受けた。すると、噂を耳にしたテレビ局からオファーがあった。番組で取り上げられると、銭湯を始め、方々から声がかかるようになった。一気にブレイク。純烈はスーパー銭湯アイドルという新たな地位を確立し、18年には念願の紅白歌合戦初出場を決めると、翌19年も連続出場を果たした。

 トップ歌手の仲間入りをした純烈だが、今でも変わらず続けている活動がある。

 「日本全国の銭湯でのライヴは今でも行っています」

 そして、現在は4人の子宝に恵まれたリーダー・酒井が、やはり昔と変わらず続けている事がある。

 「競馬はやめられない。続けています」

 昨年、完全にオフだったのは僅か5日だけだったと言う。当然、土日に競馬場へ行ける機会は圧倒的に減ってしまった。それでも競馬を続ける理由を次のように語る。

 「競馬は単なるギャンブルではありません。自分は競馬からパワーをもらっているんです」

 競馬ファンの酒井がリーダーを務めるスーパー銭湯アイドル“純烈”のますますの活躍を願おう。

3年連続紅白歌合戦出場を目指す純烈
3年連続紅白歌合戦出場を目指す純烈

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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