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「特別な1勝です。ユタカで勝てて良かった」と高橋文雅調教師が語る理由とは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
吉田豊騎手で新馬勝ちをマークした高橋文雅調教師(左)

大久保洋吉厩舎での出合い

 リスグラシューの優勝に湧いた昨年の有馬記念。その丁度1週間前の12月15日。この日、中山競馬場で行われた芝1800メートルの新馬戦を勝ったのはクリスタルブラック。美浦・高橋文雅調教師が管理する2歳馬だった。

 高橋にとってこの年16個目となる勝利。一見、なんという事のない勝ち星に見えるが、彼にとっては特別な1勝だった。

クリスタルブラックで新馬勝ちをした高橋文雅調教師(馬の左)と吉田豊騎手(左から2人目)
クリスタルブラックで新馬勝ちをした高橋文雅調教師(馬の左)と吉田豊騎手(左から2人目)

 1972年4月28日、静岡県沼津市で、父・功、母・公子の間に生まれ、兄と妹と共に育てられた。幼い頃、近所にあった高校の馬術部が廃止になると、管理されていた馬達が行き場を無くした。手を挙げたのは父の功。友人と共にその馬達を引き取り、乗馬クラブの立ち上げに手を貸した。これが高橋と馬とのファーストコンタクトだった。

 静岡という土地柄、幼い頃から高校までサッカーに熱中したが、動物が好きだった事もあり、乗馬にも興じた。91年、北里大学の獣医学部に入ると、馬術部に入部。すぐに虜になった。

 「面白くてハマりました。大学の6年間は勉強よりも『試合へ向けて馬をどう仕上げて行くか?』ばかりを考えていました」

 同じ頃、競馬にも興味を持つようになった。

 「トウカイテイオーやメジロマックイーンが走っている時代でした。大学を卒業すると獣医師免許を持って早田牧場に就職しました」

 種付けからお産、育成も担当した。離乳後の事故や死産に立ち会う事も一再でなく、競走馬としてデビューに漕ぎつけるまでにいくつもの関所がある事を、身を持って知った。

 そんな中、牧場を訪れた何人かの調教師と知り合うと、彼等から助言をもらった。

 「『獣医師免許を取得しているなら調教師を目指すべき』と言われました」

 2000年4月、調教師になる事を目標として競馬学校に入学した。同年10月、学校を卒業すると、美浦・大久保洋吉厩舎で働く事となった。そこには所属騎手の吉田豊がいた。年齢的には3つ下だが、厩舎では先輩にあたるこのジョッキーは、高橋が来た時は既にメジロドーベルとの活躍で名を挙げた後だった。

高橋文雅がトレセン入りした時には既にトップジョッキーになっていた吉田豊
高橋文雅がトレセン入りした時には既にトップジョッキーになっていた吉田豊

 「トップジョッキーだったし、最初は敬語で話していました」

 毎朝、顔を合わせ、担当馬が出走する際には細かい事まで話し合った。そうこうするうち2人の間にあった垣根は無くなり、何でも話し合える親密な仲になった。

 「大久保洋吉先生はほとんどの出走馬に豊を乗せていました。当然、自分の担当馬も乗ってもらうケースが多く、自然と話し合う機会も増えました」

 そんな馬の中にメジロダンダークがいた。高橋が初めてデビュー前から面倒を見た馬だった。ゲートではジッとしていないタイプ。高橋は馬と前扉の間に挟まれ、骨折をした事もあった。

 「装蹄師に脚を持たせないから接着式の特殊蹄鉄を履かせないとならないなど、少し難しい馬でした。豊に乗ってもらい、色々と相談しながら進めていきました」

 結果、吉田豊で準オープンを勝利し、重賞に出走するまで出世した。

 「クリアエンデバーやエイシンフレンチなど、体質が弱かったり不器用だったりする馬を、豊に乗ってもらい、常に相談していました。跨った感覚を聞き、ダメだしもしっかり言ってもらいました。『次はどうすれば良いか?』と話し合ううちに出世出来た馬も沢山いました」

 11年に高橋は調教師試験に合格。翌12年に開業すると、今度は自らの意思で吉田豊を乗せてレースに臨んだ。今の時代、必ずしも全ての鞍上を託す事は出来ないが、権限を任された際は、ほぼ100%、豊に依頼をした。

 17年12月10日、中山競馬場で行われたカペラS(G3)。ここにニットウスバルを送り込んだ高橋は、その手綱を豊に任せる予定でいた。しかし、その鞍上は急きょ乗り替わりとなる。

 前日の9日、事件が起きた。この日の新馬戦で豊が騎乗した馬が暴走。鞍上は馬場に叩きつけられた。

 「他の厩舎の馬でしたけど、自分も中山にいたのでレースは見ていました。情報が錯そうしていたけど、かなり深刻な状態と聞き、心配しました」

 頸椎骨折の重傷だった。

復帰、そしてコンビでの勝利

 それから10カ月以上が過ぎた18年10月。東京競馬場の新馬戦に、高橋はピンシェルを出走させた。同馬はあのメジロドーベルの子供。生産者はレイクヴィラファーム。その前身はメジロ牧場だった。しかし、鞍上に吉田豊はいなかった。前年12月の落馬事故からまだ復帰出来ていなかったのだ。

 更に約5カ月が過ぎた19年3月。事故から約1年3カ月もの時を経て、豊が競馬場に戻って来た。復帰戦は中山競馬場、芝1800メートルの牝馬限定・3歳未勝利戦。騎乗したミヤビペルラは高橋が用意した馬だった。

ミヤビペルラで復帰を果たした吉田豊。後方左が高橋文雅
ミヤビペルラで復帰を果たした吉田豊。後方左が高橋文雅

 「結果は駄目でした(13着)。でも、豊が戻って来て、また乗ってもらえた。『これからまたどんどん頼むよ』と伝えました」

 その言葉に偽りはなかった。高橋は事あるごとに年下の兄弟子を鞍上に据えた。4月7日にはトラストロンが3着、4月の青葉賞では初めてピンシェルの鞍上を任せると、同馬とのコンビで8月には自己条件を3着。更に10月の東京競馬では土曜日にシセイタケルで2着に好走すると、翌日の日曜にはピンシェルで2着。あと一歩のところで先頭でゴールを駆け抜けられるか?!という善戦を見せた。

 そして、年も押し迫った12月15日。ついにその時が来た。5回中山競馬6日目、芝1800メートルの新馬戦。高橋が吉田豊に頼んだのはクリスタルブラックという2歳の牡馬だった。

 「デビュー前にゲートから乗ってもらい、背中の感触を確かめてもらいました。2歳の新馬なので何とも言えない部分もあったと思うけど、ポテンシャルの高さは分かってもらえたはずです」

 スタートは今一つだった。しかし、最後の直線ではそれを補って余りある伸び脚を披露した。

 「『真っ直ぐに走ってくれ!!』という気持ちで見ていました。伸びた時には勝ちを確信出来ました。豊で勝てて本当に良かったです」

 吉田豊が復帰後、高橋と組んだのはこれが実に34戦目。高橋にとって特別な勝利となった。

 「将来のある新馬戦で勝てたというのも良かったです」

 こう言った高橋は、鞍上への想いを続けて語った。

 「大怪我を負って苦しい時期もあったと思います。でもこうして復帰出来たのだから、何とかもうひと花、咲かせて欲しいですね」

 「そのために自分で力になれる事があれば何でもする」とその目が語る。そして、その表情は同時に「力になって欲しい」と言っているようにも感じられた。立場の違う兄弟弟子が今年の競馬界を盛り上げる事を期待したい。

吉田豊(左)と高橋文雅。今年もコンビでの活躍を期待したい
吉田豊(左)と高橋文雅。今年もコンビでの活躍を期待したい

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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