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度重なる大怪我から復帰する一人のジョッキーと彼を支える家族の愛の形

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
藤沢和雄厩舎のシェーングランツに調教で跨る五十嵐雄祐騎手(3月撮影)

大怪我を負ったリーディングジョッキー

 2019年4月13日。障害界の絶対王者オジュウチョウサンが中山グランドジャンプ4連覇のゴールに飛び込み、喝さいを浴びた。まさにその時、真逆の立場で悶絶していた男がいた。

 五十嵐雄祐だ。

 同じレースで、五十嵐はトーアツキヒカリの手綱をとっていた。

 「人気はなくて、道中も前の馬からはどんどん離されていってしまったけど、飛越自体は無難にこなしてくれていました」

 落馬のイメージはないまま、飛越を繰り返し、残す障害はたった一つとなった。

 「最終障害で、完歩が合わず、少し遠くから踏み切る形になりました。それでも飛べると思ったのですが、こちらが考えていた以上に馬の方が疲れていたのかもしれません」

 合わなかった踏み切りをカバー出来る体力がパートナーには無かったのか「前へ潰れるように転び、投げ出されてしまいました」。

 次の刹那、背中に”ドン!!”という衝撃を感じた。意識は飛ばなかったが、衝撃の次には苦しさが襲って来た。

 「経験値から、これは動かない方が良いヤツだと察知したので、ジッとしていました」

 すぐに病院に搬送された。本人の見立てに誤りはなく「胸つい破裂骨折」と診断された。

 「神経に触れるところだったので、下手をしたら麻痺が残ってしまう個所でした。絶対安静と診断されました」

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障害のトップジョッキーへ

 1984年2月16日、福島県で父・邦雄、母・典子の下に生を受け、2人の姉と1人の弟に挟まれて育てられた。

 「競馬との接点はゲームでした。父は印刷会社を経営していたけど、家業を継げと言われる事もなかったので、中学卒業時に競馬学校を受験しました」

 見事に難関を突破すると、2002年3月、美浦・菅原泰夫厩舎からデビューを果たした。

 初勝利までは約2カ月を要したが、その後、毎年二桁は勝つ事が出来た。ローカル開催へはほとんど参戦せず、中央の本場で乗り続けてこの数字なのだから、決して悪い成績ではなかった。

 デビュー4年目の05年。6月の東京競馬場で事件は起きた。前の馬の落馬に巻き込まれるように馬場へ叩きつけられた五十嵐は、両手首骨折という重傷を負ってしまったのだ。

 戦列復帰までは2カ月半を要した。そして、復帰した五十嵐を待っていたのは厳しい現実だった。

 「当時は3年で減量の特典がなくなる時代でした。4年目の僕はもう減量がなかった事もあり、復帰後は乗り鞍がグッと減ってしまいました」

 そんな時、助け舟となったのが、師匠・菅原のススメだった。

 「菅原先生からはデビュー当初から障害レースも一緒に乗るようにススメられていました。お陰で復帰後も障害レースの騎乗依頼は絶える事なくいただけました」

 人間、万事塞翁が馬である。こうして五十嵐は、障害界のトップジョッキーへの道を自然と歩む事になった。06年からコンビを組んだリワードプレザンとのコンビでは翌07年、中山グランドジャンプ(J・G1)でカラジの2着に善戦。同年10月にはベストグランチャで東京オータムジャンプ(J・G3)を制覇し、自身初の重賞勝ちをマークした。その後、13、14年にはアポロマーベリックで中山大障害(J・G1)と中山グランドジャンプ(J・G1)を優勝。念願のG1制覇を果たす大仕事をやってのけた。

 また、タイトルの大きさだけでなく、数も勝った。09年に14勝を挙げて初の障害リーディングを獲得すると、翌10年、15年、更に昨年の18年と4度もその座に輝いた。

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大怪我を見守る家族の存在

 当然、今年も2年連続でのリーディングを目指したが、そんな矢先、冒頭で記した大怪我を負ってしまった。

 胸つい破裂骨折。折れ方が悪く、骨が神経に当たっているかも……と言われた。

 「最初は『2カ月、寝たままになります』と診断されました。ただ、患部にプレートを入れる手術をすればもう少し早く復帰出来るとも言われました」

 手術をしても1カ月弱は安静にしなければいけなかった。その後は回復次第でどうなるか?だと言われた。それでも2カ月寝たままよりは可能性に懸けると、迷わず手術をしてもらう事にした。

 「術後、麻酔が醒めると猛烈な痛みが襲ってきました。いつ治まるか分からない強烈な痛みが続いた時には、さすがに『こんな痛い思いは嫌だ』と感じました」

 しかし、3日後になってようやく痛みが治まると、五十嵐はすぐに次のステップに思いをめぐらせていた。

 「すぐにでも競馬に乗れるようになりたいって思いました」

 怪我がつきものの障害騎手で、実際に大怪我を負い、どれだけ苦しんでも「もう乗りたくない」とはならなかった。

 「入院中は家族が毎日、お見舞いに来てくれました」

 妻と、9歳と3歳になる2人の息子。皆が心配しているのは分かっていた。しかし……。

 「皆、自分の仕事を理解してくれています。心配はしているけど、『辞めて』と言われた事はありません」

 せっかく掴んだジョッキーという誇らしい立場。これを簡単に手放す気がない事を、愛する家族達も分かっていた。だから、落ちても怪我をしても、大怪我をしても、家族は黙って見守る事で応援してくれるのだった。

 6月8日。五十嵐が約2カ月ぶりに競馬場に戻って来た。この時、障害未勝利戦でコンビを組んだのはこれが初障害となるスターオブペルシャだった。

 「僕が怪我をする前に障害試験に乗って合格していた馬でした。管理する藤沢(和雄)先生が、僕が休養中は使わずに、復帰に合わせて戻してくれて乗せてくださいました」

 後押ししてくれるのは藤沢だけではなかった。6月30日には堀井雅広厩舎のカポラヴォーロで復帰後、初勝利を飾ると、8月24日には石栗龍彦厩舎のテイエムコンドルで2勝目もマークした。

 「2カ月くらい休んでいたにもかかわらず、沢山、良い馬に乗せてもらっています。今年は現在7勝なので、最低でも10は勝って、応援してくださる人達の期待に応えなければいけないという想いは持っています」

 ターフに戻って来て、こうやってまた勝ち星を挙げた事に対し、家族の反応はどうなのかを最後に聞くと、五十嵐はニコリと笑って答えた。

 「『復帰後初勝利だね!!』などといった特別な感じは何もありません。家に帰れば妻はいつも通り何も変わらぬ態度で迎えてくれます」

 そんな家族がいるからこそ、大怪我を負ってもまた競馬場へ戻る事が出来る。勝っても落ちてもいちいち一喜一憂しない。それもまた愛の形である事を五十嵐は分かっているのである。

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(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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