癌と闘いながら久しぶりに重賞を制した一人の調教師の物語

東京ジャンプS(JG3)を優勝したシングンマイケル。後方左から2人目が高市調教師

 2017年の初夏、札幌で異変は起きた。

 かの地でのセリを終えた調教師の高市圭二は食事会に参加した後、宿泊先のホテルへ帰った。時間は深夜0時を回っていた。

 「最初は背中に痛みが走りました。そうこうするうち寒気に襲われてのたうち回りました」

 それでも競馬開催が終わるまでは我慢した。いや、当時はまだ我慢出来た。そして競馬が終わるとすぐ様、病院へ駆け込み、精密検査をした。

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調教師としての信念。口ぐせは「初心に戻れ!!」

 1955年8月18日生まれの高市。78年に騎手デビューをすると、初騎乗初勝利を果たした。しかし、90年に引退し、調教助手となると96年には調教師免許を取得。厩舎を開業した。

 騎手時代は必ずしも大成したわけではなかったが、彼の騎乗技術に目をつけた男がいた。伯楽・藤沢和雄である。88年に開業した藤沢は、当初、調教によく高市を乗せていた。

 「正確に、そしてこちらの意図した通りに乗ってきてくれる」

 藤沢はよくそう言っていたものだ。

 そんな技術が、調教師として開花する。開業2年目には早くもG1に出走馬を送り込むと、同3年目にはマンダリンスターで京成杯を優勝。初重賞制覇を飾った。また、世紀が変わる頃にはビーマイナカヤマやミヤギロドリゴらで重賞を席巻。中でもファストフレンドの活躍は顕著で、帝王賞や東京大賞典など、交流重賞を勝ちまくった。

 当時の口ぐせは“初心に戻れ”。高市は次のように語っていた。

 「妥協すれば楽な事はいくらでもある。まして、開業して数年も経てば要領良くやろうと思えば簡単な事。だけど、おろそかにした事がどんなに細かい事でも、それが積み重なれば大きく影響してくる。小さなことを見逃したために大きな事故になったり、長期での休養を余儀なくされたり、レースでハナ差だけ負けたりしちゃう。だからどんな些細な事でも手を抜いたり妥協したりしてはいけない。つまり、初心を忘れてはいけないという事です」

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 具体的な話もよく聞かせていただいた。

 「馬房から一歩出したらもう運動。散歩をさせているわけじゃないから、例え歩かせるだけでも運動としてシャキシャキ歩かせないといけない。慣れが生じてダラダラ歩かせていたために惜敗したケースもあるかもしれない」

 現在は調教師として活躍する武藤善則は開業前に高市の厩舎を訪れていた時期があるが、当時、「あの常歩の速さには正直驚きました」と語っていた。そして、自らが開業した後には「真似させてもらったけど、最初から同じようには動けませんでした」と続けた。

 他にもパドックに送り出す直前には前髪やタテガミ、尻尾を濡らして整える等、何事もキチキチとやるのが高市という男だった。

 「競馬に行っちゃえば後はジョッキーに任せるしかありません。厩舎サイドで出来る仕事はどれだけ万全な形で騎手にバトンを渡せるか?という事。パドックに馬を持って行った時にどのくらい万全に仕上がっているかが、自分達の仕事です」

 そんな中からファストフレンドが出てきた。同馬に関しては「あそこまで走る馬だと放っておいても強くなった」と語るが、実際には放っておいたわけではなかった。飼い食いが悪く出世の遅れたファストフレンドに対し、飼い葉をミキサーにかけて粉末状にしたり、種類ごとに別の飼い葉桶に入れて同時に与えたり、厩務員と共に手に持って与えてみたりと様々な工夫をこらした。その結果、ファストフレンドは飼い葉を食べるようになり、後の大活躍につながった。そんな時も「普段から、ほんの少しの事でも見逃さないように注意を払っていれば誰にでも出来る事」とさらりと語り、更に続けた。

 「例えば歩様を見ていて、蹄床の着き方が普段と1センチ違うだけでも見逃さないようにする事で、大きな事故や怪我を未然に防げるケースもあります」

 生き物が相手だから怪我や病気は付き物だが、未然に防げるものは防ぐ事が自分達の仕事だと語っていた。

突然、襲った癌と闘う日々

 そんな男が、皮肉な事に自らの病気を事前に感知する事が出来なかった。冒頭に記した通り、一昨年の初夏に体調を崩した高市は精密検査を受けた。すると……。

 後腹膜脂肪肉腫(サルコーマ)。

 そう診断された。多くの癌は胃や腸など腹膜の内側に発症する。しかし、稀に外側に出来てしまうのが後腹膜脂肪肉腫だった。

 「自分の場合、腎臓も腫れていたけど、血管が入り乱れて肉腫になってしまうというケースでした。2万人に1人とも言われる希少癌で、各臓器に発生するのではないため、専門医のいない手探り状態での治療となりました」

 この日から、高市の長く苦しい戦いが始まった。

 ステントを入れた上、抗癌剤を点滴した。当初は6クールを予定していた抗癌剤だが、徐々に副作用に襲われた。毛髪が抜けた。頭痛に吐き気、便秘に食欲不振。60キロ近くあった体重は治療を開始してから2カ月半で42キロまで減り、4クール目でギブアップをした。

 当時、高市を見舞った調教師の大江原哲は述懐する。

 「弟分としてかわいがっているので、入院してすぐに見舞い、その後も頻繁に顔を見に行きました。そのたびにどんどんやつれていって、正直、調教師復帰どころではないと思いました。命の危機だと感じました」

高市の兄貴分の大江原(左)は「命の危機だ」と感じていた
高市の兄貴分の大江原(左)は「命の危機だ」と感じていた

 高市も首肯する。

 「自分でも『調教師免許の更新は出来ないかな?』と思った時期がありました」

 しかし、そんな時に支えてくれたのが、競馬の存在だった。苦しいベッドの上でも、週末は全レースを観ていたと言う。自分の厩舎の馬やスタッフの事を忘れる日は一日もなかった。なんとか現場に復帰したいと願う一心で病と闘ううち、朗報がもたらされた。

 「陽子線治療が認可され、1クール24回にわたり治療を受けました。良化しているという自覚症状はなかったけど、確かに痛みは徐々に和らいでいきました」

 CTで調べたところ、腫瘍は8分の1程度の大きさになっていたと言う。

 2018年6月、約1年ぶりに美浦トレセンに高市が姿を現した。

 「当初、競馬場へは息子に運転してもらって行っていました」

 通院は相変わらず続いており、CT検査をしたところ、小さな転移も認められたと言う。しかし……。

 「食事も出来るようになり、体重も47キロまで戻りました。留守の間も理解してくださったオーナーや、迷惑をかけたスタッフ、馬達のためにもいつまでも休んではいられません」

 こうして現在は陣頭指揮を執っている。そんな中、この6月にはシングンマイケルが東京ジャンプS(J・G3)を快勝。高市が管理したシングンオペラの子供で、自身にとっても久しぶりとなる重賞制覇を成し遂げた。

シングンマイケルが勝利した東京ジャンプS(JG3)のゴール前。撮影;青山一俊
シングンマイケルが勝利した東京ジャンプS(JG3)のゴール前。撮影;青山一俊

 「シングンマイケルは私が病で倒れたばかりの頃に入厩した馬で、病院でもいつも気にしていた1頭でした。父のシングンオペラが今春、死んでしまい、このタイミングで重賞を勝てた事は感慨深いモノがあります」

 現在も抗癌剤の投与は続いている。免疫療法も試みている。病を完全に克服するまでにはもう少し時間が必要だ。しかし、現場では苦しい表情をおくびにも出さない。完治した上での活躍が、近い将来にまた見られる事を祈ろう。

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(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)