1つの大きな決断を実行に移し、乗り続けるジョッキー。その決断とは? そして現在の心境とは?

ある決断を実行に移し、現在も乗り続ける上野翔騎手

海外へ挑み、そして関東へ移籍

 今週末、オジュウチョウサンが帰って来る。障害界はそんな話題で持ち切りだが、同馬のように努力が報われるのも、競馬の世界では珍しいケース。努力をしてもなかなかそれが結果に結びつかない事も当たり前なのが、競馬というものなのだ。

 今回、紹介するジョッキーも、ある時、一つの大きな決断をしたが、現時点ではまだそれに対する報酬を得たとは言えない。それでも彼が努力を怠っているというわけではない。

 果たして彼がどんな決断をして、どういう想いで競馬に乗り続けているのか……。今回はそんな事を紹介をしていこう。

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 上野翔は1985年12月23日、熊本県で生を受けた。1歳の時には父・康の仕事の都合で北海道の日高に引っ越し、9つ上の兄、2つ上の姉と共に育てられた。

 「父が牧場で働き始めました。僕が物心のついた時には北海道で周囲に馬のいる生活をしていました」

 父が独立して上野育成牧場を始めたのは彼がまだ幼稚園児の頃だった。

 小学6年生の頃には親の意向で熊本へ送られ、両親とは離れ離れの生活が始まった。

 しかし、上野の頭の中から馬がいなくなる事はなかった。中学3年の時にJRA競馬学校を受験。合格し、騎手への道を歩み始めた。

 「牧場育ちと言っても本格的に馬に乗ったのは競馬学校に入ってから。上手な子に必死で食らいつく毎日でした」

 2004年には無事に卒業。栗東・飯田雄三厩舎からデビューを果たした。

 「初勝利は8月でした。少なからず焦りがありました」

 結果、1年目は2勝に終わった。しかし、2年目は9勝、3年目は12勝と少しずつと言え、確実に成績を上げた。

 「『この調子ならそれなりにやっていけるかな……』と思いました」

 ただ、それは我武者羅にやっていただけで、将来を見据えていなかった事にすぐ気付かされる。

 4年目に減量の特典がなくなると、再び闇に迷い込んだ。5年目の08年は1勝しかあげられずに終わると、それ以降も苦戦の日々が続き、11年はついに年間未勝利のまま1年が過ぎてしまった。

 「引退も頭をよぎりました。でも、せっかくなれたジョッキーですから、やれる限りの事はやってみようと考えを改めました」

 そこで12年の春には日本を飛び出し、韓国競馬に挑戦してみた。3カ月、かの地に滞在し、先頭でゴールを切る事もあった。

 帰国後の夏には北海道で騎乗した。その時、関東の調教師から「美浦で乗る気はないか?」と声をかけられた。

 「韓国まで行っていた事を思えば、美浦へ行くのは全く苦になりませんでした」とすぐに首を縦に振った。

 この年の秋から美浦で乗り始めた。そのまま乗り続けると、13年からは障害レースにも活路を求めた。

 「最初は山本康志さんに勧められ、石神(深一)さんから馬を回してもらいました」

 こうして徐々に関東でのコネクションが増えると、思うところがあった。

 「必要としてくれる人達に恩返しをしたい」

 14年1月には正式に拠点を美浦へ移した。

調教で障害を飛越する上野騎手(手前)
調教で障害を飛越する上野騎手(手前)

落馬……そして迫られた決断

 14年の秋の事だった。阪神競馬場の障害戦で落馬した上野は左手中指を脱臼骨折した。約3カ月で実戦に復帰すると、それなりに勝つ日もあった。しかし、1年経ち、1年半が過ぎると患部の違和感は徐々に大きくなっていった。

 「病院で診てもらうと軟骨がすり減っていると言われました」

 徐々に曲がらなくなっていた指に関しても、次のように宣告された。

 「このまま乗り続けていたら一生、曲がらなくなる」

 商売柄、それは避けなければならなかった。医者に助けを求めると「1年間、休んで治療に専念しないと無理」と言われた。

 自分の立ち位置を考えると、1年間の休養は死刑宣告されたようなものだと感じた上野は、藁にもすがる思いで「他に手はありませんか?」と聞いた。すると、思わぬ返事が返ってきた。

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 「『あとは指を切断するしかありません』と言われました。ただ、同時に『親御さんも悲しむでしょうし、それは薦められません』とも言われました」

 しかし、話を聞いたその瞬間から上野の心は決まっていた。

 「その二択なら、迷わず切断する事を決めました」

 16年5月22日のレースに騎乗した後、手術を決行。上野の左手から中指が消えた。

 約1カ月半後の7月2日、戦線に戻った上野に待っていたのは厳しい現実だった。

 「復帰初戦でいきなり落馬して、病院にユーターンしました」

 さすがにこの時は凹んだと言う。

 「もう諦めろという事なのかとも思いました。でも、トレセンに戻るとすぐに障害練習で乗せてくださる先生(調教師)がいました。1つ目の飛越の際、少しでも怖さを感じたら引退しようかとも考えたけど、飛んでみたら『やっぱり楽しい!!』って思えたんです」

 例え指が無くなっても、乗せてくれる人がいる。応援してくれる人がいる。ならば、まだ乗り続けようと気持ちを新たにした。

 「武豊さんやルメールはG1で接戦になったりしても全然慌てることなく、乗っていますよね。自分もそんなジョッキーになりたいです。見ている人に『ルメールが障害に乗っているの?!』と思ってもらえるような、そんな騎乗が出来るジョッキーになりたいです」

 障害を中心に乗っているので、今でも落馬は茶飯事だ。骨が折れるのは慣れっこだ。それでも心まで折れる事はない。中指が無くなった事で唇を噛むのは「靴ひもを結ぶのに苦労する時くらい」だと言う。必要としてくれる人のために競馬に乗れるのであれば「自分の指の1本くらい何の問題もありません」と笑う上野の、今後の活躍を期待したい。

左手の中指はなくなったが「必要としてくれる人がいる限り乗り続けたい」と語る上野
左手の中指はなくなったが「必要としてくれる人がいる限り乗り続けたい」と語る上野

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)