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武豊の言葉にいざなわれ競馬の世界に入った男は、この春のG1でその4000勝ジョッキーに挑む

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
2016年のフェブラリーSを制したモーニンと濱名浩輔持ち乗り調教助手

武豊の言葉で競馬の世界に入る決断をした1人の男

 今週末、東京競馬場で根岸S(G3)が行われる。勝ち馬にフェブラリーS(G1)の出走権が与えられるいわばG1の前哨戦だ。

 本番のフェブラリーSで間違いなく上位人気に推されそうなのが、インティだ。1月20日には東海S(G2)を勝利。これでデビュー戦を9着に負けた後、ダート戦ばかり6戦6勝。毎度ぶっち切りの優勝劇で、次に予定しているG1も人気の約束手形をもらったようなものだ。

 その鞍上を任されているのはご存知4000勝ジョッキーの武豊である。

 今回紹介する男は、その武豊に影響を受けて競馬の世界に入った。そして、3年前にはまるで現在のインティのような勢いで王位まで上り詰めた馬で、王座奪還を狙い、武豊に挑むつもりでいる。

2016年の根岸Sに出走したモーニン。向かって右で曳いているのが濱名浩輔
2016年の根岸Sに出走したモーニン。向かって右で曳いているのが濱名浩輔

 1984年8月1日生まれで現在34歳なのが濱名浩輔だ。

 父・浩司、母・久美子の下、兵庫に生まれ妹と共に育てられた。

 小学生の頃、プロ野球選手を目指していた彼に転機が訪れたのは中学生になってから。友達の影響で競馬をテレビ観戦すると、秋の天皇賞でエアグルーヴに乗り、バブルガムフェローに挑む武豊がマイクを向けられ、答えていた。

 「バブルにひと泡吹かせたい」

 競馬を知らない人にも伝わるように伝えるそのコメント力に感服。ベクトルが一気に競馬へと向いた。

 これを機に乗馬を始めると完全に魅了された。高校生の頃には乗馬と競馬が頭から離れない生活を送るようになった。

 2002年5月26日。高校3年生の頃だった。タニノギムレットが日本ダービーを優勝した。

 「今晩はギムレットで乾杯してください!!」

 ヒーローインタビューでそう語ったのは、同馬を駆って自身3度目のダービー制覇を果たした武豊だった。

 「これを見て、自分も競馬サークルの中で働きたいと真剣に考えるようになりました」

 早速、夏休みに北海道の牧場で働くと、高校卒業後にはその牧場に就職した。2年と少し牧場で汗を流した後、05年の秋に競馬学校へ入学。翌06年の7月から栗東・石坂正厩舎で厩務員を経て持ち乗り調教助手となった。

 「石坂先生の第一印象は怖かったです。でも、実際に下で働き出すと、厳しいのは仕事に対してだけ。それは当たり前の事ですからね。普段は気さくですごく優しい先生でした」

 トレセン入りしてまだ右も左も分からない濱名に、石坂は1頭の走る馬を担当させた。

 「多くの先輩から助けていただきながら自分なりに一所懸命その馬と向き合いました」

 すると、その馬=ブルーメンブラットはG1・マイルチャンピオンシップを優勝した。

 「何が何だかよく分からないうちにG1を勝たせてもらいました。それだけの馬をトレセン入りしたばかりの僕に与えてくださった石坂先生や助けてくださった先輩方に感謝するばかりでした」

 11年には自分をこの道へ進ませる決定打となったタニノギムレットの仔を担当する事になった。クレスコグランドと名付けられたその馬は、未勝利、500万下条件を連勝。日本ダービーへの出走権を懸けて京都新聞杯に出走。このレースで手綱を取るのは“あの”武豊となった。

 濱名はレース前、自分がこの世界に入る決め手となったのが、タニノギムレットがダービーを勝った時の武豊のコメントであった事を当の武豊に伝えた。すると……。

 「ユタカさんは『分かった。じゃ、決めてくるわ』と言って本馬場へ消えて行きました」

 有言実行。武豊は実際に1着となって濱名のもとへ帰ってきた。

 本番の日本ダービーはオルフェーヴルの5着に敗れたが、恩人に導かれて初めて立った大舞台の事を、濱名は今でも忘れていないと言う。

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モーニンとの出会い。そして改めて天才騎手に対する想い

 15年。石坂から「面白い馬がいるからやってみないか?」と言われ、担当する事になったのがモーニンだった。

 「馬格はあったけど、歩様が固かったので第一印象は必ずしも良くありませんでした。でも、競馬へ行くと別馬のように走ってくれました」

 既走馬相手の未勝利戦を快勝すると、準オープンまで4連勝。初めての重賞挑戦となった武蔵野Sこそ3着に敗れたが、翌16年には根岸Sを優勝。通算6戦5勝3着1回という良績を引っ提げて、初のG1挑戦となるフェブラリーSに出走した。

2016年に根岸S、フェブラリーSと立て続けに制したモーニン
2016年に根岸S、フェブラリーSと立て続けに制したモーニン

 「結果的に、ここも見事に突破して勝ってくれました。僕自身、2度目のG1勝ちになったけど、何だかよく分からないうちに勝ってしまったブルーメンブラットの時と比べると、喜びもひとしおでした」

 しかし、これを境にモーニンは丸2年以上勝てなくなった。次に先頭でゴールを切ったのは18年3月のオープン特別コーラルS。

 「まだまだ終わってはいない」と信じ、昨年の9月には韓国まで遠征。叩き合いの末、コリアスプリントを優勝してみせた。

 「わざわざ韓国まで行って勝てて、本当に良かったです」

 濱名は胸を撫で下ろしてそう言った。

コリアスプリントを優勝したモーニン。すぐ右が濱名助手。右から2人目が石坂調教師
コリアスプリントを優勝したモーニン。すぐ右が濱名助手。右から2人目が石坂調教師

 そんなモーニンの今年初戦が今週末の根岸Sだ。その後は、順調ならばフェブラリーSに挑戦。16年以来、2度目となる戴冠を目指す。

 「石坂先生もあと2年ほどで定年になってしまいます。お世話になりっぱなしだったので、勝つ事で少しでも恩返しをしたいと考えています」

 最後に改めて武豊に挑む現在の心の内を聞いてみた。

 「これまでアウォーディーやマテラスカイなどユタカさんの馬に負けているので、次は『モーニン強かったなぁ……』と言ってもらえるような結果にしたいです」

 そう言うと、一度つぐんだ口を再び開き、続けた。

 「ユタカさんに1度、モーニンに乗ってもらいたいという気持ちが最も強いんですけどね」

 石坂厩舎の解散前に、武豊に乗ってもらいG1を勝つ。濱名にとってそれが最高の願いなのかもしれない。

武豊騎手に乗ってもらい、石坂厩舎にいるうちにG1勝ちが出来れば……と語る濱名。その願いがかなえられるよう、応援したい
武豊騎手に乗ってもらい、石坂厩舎にいるうちにG1勝ちが出来れば……と語る濱名。その願いがかなえられるよう、応援したい

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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