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現役ジョッキーと今は亡きジョッキー。2人の福島記念勝利ジョッキーに思うこと

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
好騎乗で福島記念を制した丸山元気騎手

好騎乗で福島記念を見事に制覇!!

 11月11日。リスグラシューが制したエリザベス女王杯と同じこの日、福島競馬場で行われた福島記念(G3)を優勝したのはスティッフェリオ。手綱をとったのは今年で騎手デビュー10年目となる丸山元気だった。

 栗東・音無秀孝厩舎の4歳牡馬、スティッフェリオにとってはこれが初の重賞制覇となったが、丸山が乗っていたという事実は、間違いなくそれが達成出来た要因の1つだと思えた。

 丸山が同馬とコンビを組んだのはこれが5回目。今年に入ってからは4回目の騎乗で実に3勝目。唯一5着に敗れたのはG2の札幌記念。このレースは勝ち馬が後に秋の天皇賞で2着するサングレーザー。2着がダービー馬マカヒキで、3着もG1ホースのモズカッチャン。4着がジャパンC、有馬記念、菊花賞でも2着のあるサウンズオブアースだった。これら実績馬にこそ遅れをとったが、勝ち馬からわずか0秒4差の5着だったのだから立派な成績と言って良いだろう。

 今回の福島記念も当然、良いイメージで臨めたと推察でき、そのあたりを伺うと、首肯して答えた。

 「ハンデの55キロというのも良かったし、1枠2番という枠順も良かったです。うまく流れに乗れればチャンスはあると思っていました」

 好スタートを決めると、無理することなく最初のコーナーでは好位の3番手に収まった。

 向こう正面では逃げるマルターズアポジーと2番手のマイスタイルがスイスイと気持ち良く行くが、つられることなく離れた3番手を追走した。前半1000メートルの通過ラップが57秒台のハイペースだったから、前を無理に追いかけなかったのは好判断だ。

 「流れているとは思いました。終始無理することなく、勝負どころでは良い感じで上がっていけました」

 そう語るように3~4コーナーでは実に楽な手応えのまま前を射程圏に入れた。そのまま直線へ向くと早目に先頭。292メートルの短い直線にも関わらずアッと言う間に後続を突き放し、勝利を確定づけた。

 「全然、無理をしないで抜け出せました。僕自身、久しぶりの重賞制覇だったし、嬉しかったです」

 丸山が重賞を勝つのは2016年のニュージーランドTをダンツプリウスで優勝して以来。自身4度目のことだった。

2016年のニュージーランドTを勝利したダンツプリウス。丸山にとって今回の福島記念優勝はそれ以来の重賞制覇となった
2016年のニュージーランドTを勝利したダンツプリウス。丸山にとって今回の福島記念優勝はそれ以来の重賞制覇となった

福島記念で思い出されるあのジョッキー

 福島記念と聞くと思い出す出来事がある。

 1994年の話だ。

 この年、G1マイルチャンピオンシップの裏開催として行われた福島競馬のメイン・福島記念に大和田稔厩舎のシルクグレイッシュは50キロの軽ハンデで挑んできた。騎乗する予定だったのは現在調教師となった小野次郎騎手(当時)。しかし、小野はこの日の第4レースで落馬負傷。以降のレースは乗り替わりとなったため、当然、メインレースにも乗れなくなってしまった。

 困ったのは当時、調教師だった大和田(引退)だ。50キロのハンデなのでなかなか代わりに乗れる騎手がいなかったのだ。「さて、誰にしよう?」と困っていると、目の前を歩く若い騎手の姿が目に入った。その時点で大した実績の無いその若手と大和田との接点はほとんど無かった。しかし、贅沢を言っている場合ではなかったため、声をかけると「50キロでも乗れる」事が分かった。

 結果、新コンビで挑んだシルクグレイッシュは10番人気の低評価を覆し、優勝してみせた。

 これが後藤浩輝にとっての初重賞制覇だった。

 「大和田先生とは接点がなかったから『乗せてください』とは言えませんでした。でも50キロなら乗れるので声をかけてもらえるようにわざと目につくところをウロウロしました」

 当時、そう語っていた後藤は伊藤正徳厩舎に所属していた。伊藤は同じ日のマイルチャンピオンシップに管理馬のホッカイセレスを送り込んでいた。同馬の調教に毎朝、跨っていたのは後藤。しかし、このG1で騎乗したのはアラン・ムンロだった。

もっとも、伊藤を責めるのはお門違いだ。先述した通り後藤は当時、重賞未勝利の若手騎手。一方、ムンロは本場イギリスのダービーを勝っているトップジョッキー。G1の大舞台で後者を選択するのは何も不思議ではない事だった。それは後藤も理解していただろう。ただ、それでも若い彼は忸怩たる思いを胸に福島で騎乗。後に命を絶つ彼だが、そんな経験をバネにG1ジョッキーへと昇華したのである。

丸山のこれまでとこれから

 話を丸山に戻そう。

 デビュー2年目の2010年、丸山はなんと年間92勝をマークする。その勢いのまま翌年も72勝を挙げたが、以降は昨年まで13年の46勝が最高の勝利数だった。減量の特典があったといえ、年間に92もの勝ち鞍を挙げるのは並大抵ではない。センスが無ければ残せない成績だろう。当然、近年の成績には悔しい思いをしているかと思いきや、丸山は冷静に語る。

 「2年目は出来過ぎでした。その後の成績が本当の自分の実力だと考えています」

 だから当時ほど勝てなくなった後も腐らず、競馬に対する真摯な姿勢を崩す事はなかった。例えば騎乗停止中に、私が海外競馬の視察に誘うと、2つ返事で飛んで来た。野中悠太郎と藤田菜七子の後輩が厩舎に入って来ると「しっかりしなければという思いが強くなった」(本人)。

乗れない時期に海外の競馬に誘うと積極的に視察しに来た丸山
乗れない時期に海外の競馬に誘うと積極的に視察しに来た丸山

 前後するが13年にはこんな事もあった。

 4月6日の福島競馬、第5レースで落馬負傷した丸山は、翌日の競馬も全て乗り替わりとなった。その乗り替わった馬の中に桜花賞に出走したアユサンがいた。クリスチャン・デムーロが乗る事になった同馬は見事に桜の女王に輝く。これがクリスチャン・デムーロにとって、日本での初のG1勝ちとなった。

2013年桜花賞のアユサンは怪我で乗れなくなった丸山に代わって騎乗したクリスチャン・デムーロが見事に1着。
2013年桜花賞のアユサンは怪我で乗れなくなった丸山に代わって騎乗したクリスチャン・デムーロが見事に1着。

 もし、あの時、予定通り丸山がアユサンに跨っていたら、果たして彼の騎手人生はどう変わっていただろう? そんなせんない話に時間を割くことなく、丸山は言う。

 「今年は毎月5勝、年間60勝を目標に乗っています」

 スティッフェリオの福島記念が丸山にとって今年52勝目。減量と勢いで勝っていた2年目と違い、キラリと光る騎乗も増えている。能力を引き出したスティッフェリオの勝ちっぷりも、今後もっと大きな舞台でも期待させるそれだった。今回はG1の裏開催での表彰台だったが、近い将来、彼等コンビがG1で活躍する日があってもおかしくなさそうだ。

 「当然、ジョッキーとしてG1で乗っていたいという気持ちはあります」

 そう語る丸山が、後藤のようにG1ジョッキーとなる日が来る事を期待したい。

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(文中敬称略、写真提供=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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