武豊騎手、自身の考えるJRA通算4000勝の持つ意味とは……

9月29日の阪神競馬でJRA通算4000勝を達成し、皆から祝福される武豊騎手

年間200勝など数々の記録を打ち立ててきたこれまで

 9月29日。阪神競馬第10レース・芦屋川特別でメイショウカズヒメが勝利。騎乗した武豊騎手にとってはこれがJRA通算4000勝目。もちろん、前人未到であり史上初の大記録で、当日はファンばかりでなく、仲間の騎手ら関係者など大勢が笑顔でこの偉業を称えた。

 今回は本人に、改めてこの“4000回の1着”をどう思うかを伺ってみた。例として挙げた王貞治選手の868本のホームランに対する彼の感想、そして、次の話をした際の彼の返事も興味深いものだったので紹介させていただこう。

 ご存知のように1頭の馬にはたくさんの人が携わっている。馬主、調教師はもちろん、厩務員や調教助手、育成や生産の牧場関係者、もっと遡れば種付けの配合を考える人もいる。

 つまり、1つの勝利は多くの人を喜ばせるのだ。

―― 4000回の勝利でどれだけ沢山の人を喜ばせてきたか。そう考えるとご自分が成し遂げてきた仕事の偉大さが分かるのではないですか?

 そう聞くと、偉大なジョッキーは思わぬ答えを返してきたのである。

すでにフランスへ入り今週末の凱旋門賞制覇を目指す武豊騎手。後ろには凱旋門がそびえ立つ
すでにフランスへ入り今週末の凱旋門賞制覇を目指す武豊騎手。後ろには凱旋門がそびえ立つ

 1969年3月15日、武邦彦家の三男として生を受けた。

 父・邦彦は「ターフの魔術師」と呼ばれた元騎手で元調教師。そんな父に育てられたため、幼い頃から「騎手になること以外、考えなかった」と言う。

 1987年に武田作十郎厩舎からデビューすると、アッと言う間にスターダムに駆け上がった。

 新人年には69勝を挙げ、当時の新人最多勝記録をマークした。2年目にはこれも当時の最速記録でJRA通算100勝を達成。秋にはスーパークリークで菊花賞を優勝。自身初のG1制覇は、僅か19歳8カ月での戴冠だった。

 二十歳前後の後輩が脚光を浴びる事を、必ずしも先輩達が歓迎はしなかったであろう事は想像に難くない。厳しい競馬を強いられる事も一再ではなかったが、天才騎手は屈する事無く実績を積み上げた。

 当時は「河内(洋現調教師)さんや岡部(幸雄氏、引退)さんの乗り方を観察して真似もした」と言うが、逆に観察される立場になるのに時間は要さなかった。

 2年目に113勝を挙げて関西リーディングとなると3年目の89年には133勝。早くも全国リーディングを獲得した。

 その後も大レースを含み数々のレースを勝ちまくった。

 天皇賞を始めとしたクラシックレースや、海外でも大レースを制覇する中、日本ダービーをなかなか勝てなかった事は“競馬界の七不思議”と言われた。しかし、これも98年、スペシャルウィークとのコンビで制覇。この当時、29歳であるから3歳最高峰の1戦を制すには決して遅かったわけではない。これが“不思議”と言われてしまうほど、彼がビッグレースを勝つのは茶飯事となっていたわけだ。

 フランスに長期滞在した2001年は年間のJRAでの勝利数が65のみとなり、年間100勝以上が9年連続でストップした。しかし、翌02年はやはりフランスを主戦場としながらJRAでも133勝を挙げ、最多勝、最高勝率、最多賞金獲得の全部門でトップ。騎手大賞の座に輝いている。

 03年には史上初となる200勝オーバーの204勝を挙げると、翌04年はそれを更新する211勝。05年はディープインパクトとの出会いもあり212勝をマーク。これは未だに破られぬJRA記録として燦然と輝いている。

G1を7つ制したディープインパクトとは2006年に凱旋門賞にも挑戦した
G1を7つ制したディープインパクトとは2006年に凱旋門賞にも挑戦した

大怪我を乗り越えて

 そんな名ジョッキーに暗雲が漂ったのが10年の事だ。

 例年ならドバイへ遠征する3月の最終週。この年は藤田伸二(元騎手)がドバイへ飛んだものの武豊には騎乗馬はなく、日本に残る事になった。そこで藤田が主戦だったザタイキに武豊が跨る事になった。それが不運の始まりだった。直線へ向いたザタイキは何の前触れもなく故障を発症。天才騎手は馬場に叩きつけられ腰椎横突起骨折などの大怪我を負った。

 これにより4カ月以上の休養を余儀なくされると、この年の勝ち鞍はデビュー以来最低の64勝。翌11年は更にそれを下回る56勝に終わってしまった。

 怪我をする前とは明らかに人気馬に騎乗する機会が減っており、以前と同じ質の馬に乗れればまた勝てるという気持ちはありますよね?と問うた時、彼は冷静に次のように答えた。

 「200勝できていたものがその半分も勝てなくなっているのだから、自分に何らかの原因があるはずです」

 人のせいにせず、ましてや馬のせいにもしない。だからこそ、天才騎手は帰ってきた。13年には97勝を挙げると、14年は86勝。そして15年には怪我をして以来初めてとなる100勝を突破。最終的に106までその勝ち鞍を伸ばした。

 そんな当時、彼は次のように語っていた。

 「なかなか勝てないで、乗るのが辛い時期もありました。でも、競馬を好きという気持ちが変わる事はありませんでした」

 その気持ちが復活の原動力となり、怪我をした当時3300代だった勝ち星はついに4000にまで伸びた。

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武豊にとって4000勝の持つ意味とは……

 4000勝。

 この数字を本人はどう思っているのか、聞くと、最初は次のように答えた。

 「よく勝たせてもらったな、とは思うけど、ここを目標に乗ってきたわけではないから今一つ実感がないんですよね」

 そこで私はスポーツに於ける1つの偉大な数字を例に挙げ、改めて聞いてみた。

 それが冒頭で記した王選手の868本のホームランだ。

 現在のプロ野球で年間に40本のホームランを打てる人は果たして何人いるだろう。868本という数字は年間40本を20年間にわたって打ち続けてもまだ届かない数字である。飛ばないボールの時代、飛ばせないバットの時代に叩き出されたこの数字は正に空前絶後の記録と言えるだろう。これを天才ジョッキーにぶつけると、彼は大きくうなずいて言った。

 「本当ですね。考えてみると、物凄い記録ですね」

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 そこで本人の4000勝である。

 毎年100勝しても40年間、勝ち続けなければいけない数字。それが4000という数なのだ。そう考えると、本人にも4000勝のまた違う側面が見えるのではないか?と思い、この話を振ってみた。すると、彼は言った。

 「そうですね。そう考えると改めて沢山、勝たせていただいたとは思います」

 先述した通り、1頭の馬には多くの人が携わっている。果たして本人も「沢山、勝たせていただいた」と語る数字、すなわち4000勝で、何人の人達を喜ばせたのだろう。それこそ物凄い数の人を喜ばせているはずですよ、と言葉をかけると、武豊は「そうも言えるかもしれませんけど、僕の考えは逆なんです」と口を開き、更に言った。

 「果たして僕が何人の人に喜ばせてもらったか?と考える方があっていると思います。牧場の人などは僕が全く知らない人も沢山いるはずです。厩舎のスタッフだって知っている人ばかりではありません。でもそういう人達のお陰があって4000も勝たせてもらえたんです」

 そこでひと呼吸置くと、更に続けた。

 「レースが終わって最初に祝福してくれる人。それはファンの皆さんです。名前も顔も知らない何万という人が祝福してくれて僕を喜ばせてくれるんです!!」

 皆の声援がある限り、彼の勝ち鞍は4100、4200、4500、5000とまだまだ伸びていくはずだ。そして、我々は生きる伝説の騎手を観られる喜びを彼からもらえる事だろう。

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(文中敬称略、写真提供=平松さとし)