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17年ぶりG1制覇。ミッキーロケットで宝塚記念を制したジョッキー・和田竜二のサイドストーリー

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
6月24日に行われた宝塚記念をミッキーロケットで制し右手を挙げる和田竜二騎手

 6月24日の阪神競馬場芝2200メートル。前日が誕生日だった和田竜二に操られたゼッケン4番の5歳の牡馬は栄光のゴールに向かい突き進み、真っ先にゴールに飛び込む……ことは出来なかった。

 メイショウドトウが初めてのG1制覇を達成した2001年の宝塚記念、和田の乗ったテイエムオペラオーは2着に敗れた。単勝1・5倍の人気に応えられなかった和田の前で閉ざされたG1の扉は、以降17年間、開くことがなかった。

 しかし、その間、彼の前に栄光の灯が点らなかったわけではない。今回はミッキーロケットで17年ぶりのG1制覇を果たした和田のサイドストーリーを紹介しよう。

宝塚記念で外国馬ワーザーの猛追を抑えて優勝したミッキーロケットと和田のコンビ
宝塚記念で外国馬ワーザーの猛追を抑えて優勝したミッキーロケットと和田のコンビ

テイエムオペラオーとの出会い

 1977年生まれの和田。父が厩務員だったこともあり、兄と共にトレセンで育った。騎手を目指し小学5年生から乗馬を始めた。

 競馬学校の同期は福永洋一の息子である祐一やJRA初の双子騎手、3人の女性騎手など。“花の12期生”と呼ばれ、96年にデビューした。

 「華々しかったのは周りの人達。僕は花のない男でした」

 和田はそう述懐するが、彼等の中で最も早く重賞を制したのは自称“花のない男”だった。デビュー年のステイヤーズSをサージュウェルズで勝利してみせたのだ。

 サージュウェルズは自厩舎である岩元市三厩舎の馬。師匠との固い絆は当時から物語られていたわけだ。

 その岩元から後の名馬の鞍上を任されたのが98年の夏だった。新馬戦でコンビを組んだのがテイエムオペラオー。翌春、和田は21歳の若さで日本ダービーの手綱を託された。結果は3着。惜しくも敗れたが、その前走の皐月賞では見事に戴冠。同期の福永が初G1制覇を決めた直後、和田も触発されるようにG1ジョッキーとなってみせた。

 その後のテイエムオペラオーとの活躍はご存知の通り。古馬となった同馬は2000年には春秋の天皇賞に宝塚記念、ジャパンC、有馬記念と5つのG1を含む8戦8勝。そして翌春も天皇賞を優勝し、臨んだのが春のグランプリ宝塚記念だった。

 破竹の勢いで勝ち進んでいたテイエムオペラオーだが、冒頭に記したようにこの宝塚記念を2着に敗れ、G1での連勝が止まると、以降G1を勝つことなく、ターフを去った。

 そして、同馬の引退と共に、和田もG1を勝つことはなくなった。

テイエムオペラオーとはG1を7回も勝つ偉業を達成した。(写真提供=日刊スポーツ/アフロ)
テイエムオペラオーとはG1を7回も勝つ偉業を達成した。(写真提供=日刊スポーツ/アフロ)

17年の間にあったこと

 それから17年。しかし、その間、和田が努力を怠ったわけではないし、栄冠から見放されたわけではなかった。

 2017年には96勝をマーク。デビュー22年目で年間自己最多勝利数記録を更新した。

 今年は2月一杯で師匠の岩元が定年により厩舎をたたんだ。5月にはテイエムオペラオー死亡と言うニュースが耳に飛び込んだ。

 そんな中で迎えたのが17年前と同じ6月24日に行われた宝塚記念だった。

 5歳牡馬でゼッケン4番というのも17年前と同じ。直前に福永が大仕事をしたという点も同じだった。

 しかし、1・5倍に推されたテイエムオペラオーと違い、今回騎乗したミッキーロケットは単勝13・1倍。7番人気の伏兵だった。

 ところが、結果は今回の方が良かった。内から早目に先頭に躍り出ると、香港からの遠征馬ワーザーの猛追をクビ差しのぎ、17年前にかなわなかった1着でのゴール。当時のメイショウドトウがそうだったようにミッキーロケットにとって初のG1制覇。G1優勝という扉がついに開かれたのである。

 いや、しかし、である。和田の前でその扉は17年間、ピクリともしなかったわけではない。

 12年11月、彼は地方の交流G1であるJBCクラシックをワンダーアキュートに乗って制している。今回の宝塚記念勝ちの後、彼の口からその事が一つも語られなかったのは、単にこれが地方の交流G1だからではない、と私は思っている。当時、彼は次のように語っていた。

 「スマートファルコンと好勝負を出来た馬なのにその後、なかなか勝たせてあげることが出来ませんでした。だから、この勝利は嬉しいと言うより、やっと少し彼の力を発揮させてあげることが出来たという気持ちの方が強いんです」

 JBCクラシックを制す4走前の東京大賞典。和田の乗るワンダーアキュートは当時のダート最強馬と目されていたスマートファルコンとハナ差の叩き合いを演じていた。しかし、その後のフェブラリーSが3着、ダイオライト記念では4着に敗れると東海Sではとうとう10着と大敗。和田は自身の不甲斐なさを感じていたのだ。

 JBCクラシックの後は、またも連敗を重ねると、乗り替わりを命じられてしまった。その後、再び声がかかり、コンビ復活初戦となった15年のかしわ記念を優勝するが、この時も、そういった経緯があっただけに、嬉しいという気持ちよりも強く想う別の感情があったはずだ。

 だからこそ、今回の宝塚記念勝ちが“17年ぶりのG1制覇”として、涙を見せながらも相好を崩すことが出来たのだろう。

和田と共にダートの地方交流重賞を制していたワンダーアキュート
和田と共にダートの地方交流重賞を制していたワンダーアキュート

17年前とは違うジョッキー・和田竜二

 「オペラオーに報告できます」と言って声を詰まらせた和田の目頭は赤くなっていた。

 その後、報道陣から『“シャーッ!!”はしないのですか?』と声をかけられた。“シャーッ!!”はテイエムオペラオーとG1を勝利する度に、インタビューの席であげていた雄叫びだ。和田は一瞬、下を向くと、照れるように顔をあげて言った。

 「しません。僕ももう年齢を重ねたので……」

 そこには17年前にはいなかったジョッキー・和田竜二がいた。

 “卵を見て時夜を求む”という言葉がある。孵化する前の卵を見て、ニワトリが時を告げるのを待つという意味だ。つまり、物事の順序を考えずに結果を求めることの例えである。

 和田にとって17年前の活躍はテイエムオペラオーや岩元に助けられてのそれだったのだろう。そういう意味で今回の勝利こそが和田が自身で掴んだG1の栄冠なのだ。この17年間は、本当のジョッキーになるために必要だった時間なのかもしれない。ひと皮向けた彼の今後ますますの活躍に期待したい。

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(文中敬称略、写真提供=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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