海の向こうで新たに開業した日本人調教師の、母に見守られた波乱万丈のこれまでと、これから

フランスで厩舎を開業した清水裕夫調教師

 最初に彼を雑誌で紹介したのは4年前。当時はフランスの厩舎で働く1人の日本人ホースマンに過ぎなかった。

 しかしその後、開成高校出身の頭をフルに活かしてかの地の調教師試験に合格。現在、フランスでは2人目の日本人調教師として厩舎を開業した男を紹介しよう。

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「競馬の仕事がしたい」も職を転々とした若き日々

 清水裕夫が生まれたのは1981年10月31日だから現在36歳。

 千葉県柏市で、父・純一、母・依理子の下、3人兄弟の次男として育てられた。サッカー少年だった彼と競馬との接点は中学生の頃。

 「95年に何気なくみたテレビがきっかけでした。ダンスパートナーがフランスのノネット賞で2着に好走したり、ナリタブライアンやジェニュインが走っていました」

 その後、開成高校に入学した頃には競馬を欠かさず観戦。時には前夜から競馬場に泊まり込むほどのめり込んだ。そしてついに……。

 「将来の仕事にしたいと考えました。親が自由にさせてくれたこともあり、馬術部のある大学に入学しました」

 日本獣医畜産大学(現、日本獣医生命科学大学)で4年間、馬術をした後、美浦近郊の牧場に就職。

 「自分の技術が追いつかないこともあり、すぐに辞めて道営競馬の厩務員になりました。でも結局それも辞めてフランスへ行きました」

 後にフランスで日本人初の調教師となる小林智を訪ね、J・ハモンド厩舎で働かせてもらった。しかし……。

 「技術不足で1カ月で強制的に辞めさせられました」

 悔しい思いで帰国。社台ファームで働いたが2005年には1度、競馬を離れた。

現在でこそ調教師となった清水だが、若い頃は次々と職を替えた
現在でこそ調教師となった清水だが、若い頃は次々と職を替えた

ついにみつけた自分の居場所

 「転々としている間も母親からは叱責されることもなかったので、ついにはアルバイトだけの日々を送りました。でも、1年もそんな暮らしをしていると、また馬のいる生活に戻りたくなって、今度はオーストラリアの競馬関連の学校に入学しました」

 言葉に出さなくても心配していたであろう母親の顔が目に浮かぶが、このオーストラリアで清水は改めて自分の行くべき道を見つけることになる。

 半年で学校を卒業し牧場で働いた。その時のことだ。

 「日本では『蹴られるから馬の後ろに行くな』と教わったのに、向こうでは誰もが平気で後ろに立っていました」

 万事がその調子で、ホースマンは皆、楽しみながら馬と接していることに気付いた。

 「やっぱり海外の方が自分の性に合うと感じた瞬間でした」

 だからビザが切れてオーストラリアを引き上げた後もすぐにまた海を越えた。今度はイギリス・ニューマーケットのルカ・クマニ厩舎で働いたのだ。

 そんなある日、フランスのR・コレ厩舎で働く機会を得た。

 こうしてフランスへ戻ったのが08年の6月。P・バリー厩舎を経て、以前1度馘首されていたハモンド厩舎の門を再び叩いた。

 「今度は辞めさせられることなく毎朝3頭に乗せてもらえました」

 2年間、ハモンドに仕えた後、E・リボー厩舎を経てF・シャペ厩舎に移った。

 ここで毎朝1番乗りで働いているとやがて指揮官からの信頼を得た。厩舎長として30頭ずつ2棟ある厩舎の1棟を任されるようになったのだ。

 「シャペさんは『私の自慢の息子』と言って、馬主や牧場関係者を沢山紹介してくださいました」

 一時的に帰国した際は、欧州の競馬に造詣が深い角居勝彦とも話すようになり「競馬について多くのことを教わり、調教師という道へも尻を叩かれました」。

 このような経緯から正式に調教師試験受験を決意したのが16年の夏。1年後の17年8月には「史上2人目の満点」で一次試験を突破。50点で合格という二次試験でも90点を獲得し、同国では小林以来2人目となる日本人調教師が誕生した。

応援してくれた母に誓ったこれからの調教師人生

 「合格は勿論嬉しかったけど、誰よりも母親が喜んでくれたのが良かったです」

 その翌月、1週間だけ、帰国した。

 「実は母が末期癌に侵されていました。開業したら次はいつ帰れるか分からないから母の顔を目に留めるために1度、帰ることにしました」

 日本滞在中の9月17日、競馬場へ出向き、多くの人に挨拶をした。その日の重賞では、お世話になった角居の管理馬であるラビットランが優勝した。清水も全てに笑顔で応じていたが、実はこの日の朝、実家から訃報が届けられていた。

日本帰国時の1葉。中央左のグレーのスーツが角居勝彦調教師で、中央右が清水裕夫調教師
日本帰国時の1葉。中央左のグレーのスーツが角居勝彦調教師で、中央右が清水裕夫調教師

 「母が他界したと知った後に、挨拶をさせていただいたオーナーの馬を預かることが決まりました。せっかく日本に帰っていながら死に目にあえなかったわけですけど、きっと母もこの選択は正しかったと思ってくれているはずです」

 この春にはついに初出走を果たした清水。現在はまだ唯1頭の出走馬であるシグロデオロが2回走っただけの未勝利調教師だが、すでにこれに続く2歳馬も入厩を終えている。亡くなった母親を安心させるためにも若い時のように簡単に転職をするわけにはいかない。「いずれジャパンCに出走できるような馬を連れて日本に帰りたい」という彼の夢がかなうよう、お母様も天国から祈ってくれていることだろう。

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(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)