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今回初めて短期免許を取得したミナリク騎手が、日本で乗らなくてはいけない理由とは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
一つの想いを胸に、短期免許で騎乗するフィリップ・ミナリク騎手

 短期免許で騎乗しているフィリップ・ミナリク騎手。過去にはジャパンCに参戦するため、3度の来日経験があったが、短期免許を取得したのは今回が初めて。彼には今回、何としても来日を果たさなくてはいけない理由があった。

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チェコスロバキアからドイツへ移籍して大成功

 1975年3月10日、当時のチェコスロバキア社会主義共和国・プラハで生まれた。父は同国で2度のチャンピオンジョッキーとなり、その後、調教師となった。だから「自分も歩く前から馬に乗せられていた」と笑いながら言い、続ける。

 「物心がついた時には馬に乗るようになっていました。学校へ行くようになると、下校後や週末に父が管理する競走馬に乗っていました」

 15歳の時、母国で初めてレースに騎乗。

 95年にはドイツ馬のランドがジャパンCを勝つシーンをテレビで観て、衝撃を受けた。

 「日本では競馬が大きなイベントとなっていることを知り、いつかは日本で乗りたいと思うようになりました。また、より多くのチャンスを求めて翌年にはドイツへ移籍しました」

 移籍直後の3年間はめぼしい活躍をできなかったが、2000年に思いもよらぬオファーを受けた。

 「ドイツのトップトレーナーであるペーター・シールゲン調教師と、当時のトップホースだったタイガーヒルのオーナーからいきなり電話がかかってきました」

 突然の騎乗依頼だった。これを機にシールゲン厩舎のセカンドジョッキーに大抜擢されると、一気に勝ち鞍を増産。いきなり年間100勝以上をあげる騎手となった。

今回、初めての短期免許での騎乗でもドイツトップジョッキーの実力を随所にみせている。
今回、初めての短期免許での騎乗でもドイツトップジョッキーの実力を随所にみせている。

ドイツで出会った1人のイタリア人騎手と親友に

 06年にはバーデン大賞(G1)を勝つなどドイツではすっかりトップジョッキーとなった彼が「いつもスマイル」というその男と出会ったのは09年。イタリアからドイツへ移籍してきた騎手がその男。名はダニエレ・ポルク。年齢はミナリクより8歳若かった。

 「年齢差はあったけど、共に外国から来た点や家族が競馬関係者など共通点が多かったのですぐに意気投合しました」

 移籍後、毎年20~30勝をあげていたポルクが転機を迎えたのが、13年。これにはミナリクも一役買っていた。

 「僕がシールゲン厩舎との契約を打ち切ることになり、入れ替わりにダニエレが契約をすることになったのです。『トップトレーナーだけあって厳しいよ』とは伝えたけど、彼は契約を結べたことを素直に喜んでいました」

 しかし、何日も経たないうちにすぐ相談に来て、次のように言ったと語る。

 「思っていた以上に調教師は厳しいし、仕事もキツい。フィリップが言っている意味が分かりました」

 そんなポルクをミナリクはサポートした。

 「彼はいつもスマイルなので、モメたことは一切ありませんでした。4年間、ほぼ毎回、厩舎から競馬場へ車で一緒に行きました。時には600キロも離れた競馬場へも2人で行ったものです」

 ミナリクの助けもあり、ポルクは毎年50勝前後を勝ち、リーディング争いもベスト5に名を連ねるようになった。

2人揃ってジャパンCに騎乗

 14年にジャパンCに挑戦したアイヴァンホウに乗るため来日したミナリクは、実際に日本の競馬に乗ったことで「短期免許を真剣に考えるようになった」。

 翌15年のジャパンCではイトウに騎乗するために2度目の来日。さらに昨年、17年にはギニョールで3度目のジャパンC騎乗を果たした。

 「昨年はイキートスに騎乗したダニエレと共に同じ飛行機に乗って日本に来ました。彼とは日本の競馬について色々な話をしました」

 その時の1つのエピソードを紹介してくれた。

 「ダニエレはキタサンブラックが相当、強いと言いました。『キタサンブラックはいつも余力たっぷりに走っているから、あまり早くかわすとゴールでは差し返されてしまう。かわすならゴール直前じゃないとダメだね』という話をした後、2人で顔を見合わせて『考えてみたら僕達の馬にキタサンブラックをかわす力はなかったね』と言って大笑いしました」

 結果はギニョールが9着でイキートスは15着。この結果を受けた2人は、ドイツへ帰る飛行機の中で、共に同じ胸の内を語り合ったと言う。

 「2人揃って『この素晴らしくハイレベルでエンターテインメントな日本の競馬にもっと乗りたい』と言い合いました。だから、必ず短期免許で来日しようって約束したんです」

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亡き友との約束を、かなえるための来日

 しかし、その約束はかなえられなくなってしまう。

 ジャパンCを終え、ドイツへ戻ってから1週間後、ミナリクの携帯が鳴った。発信者はポルクだった。

 「その電話で彼から直接、彼が癌に侵され余命いくばくもないことを知らされました。体調が悪そうなことは分かっていたけど、彼は家族以外には誰にもそのことを話していなかったので、僕も驚きました。その晩は眠ることが出来ず、ひと晩中、彼のことを思って泣き続けました」

 ポルクは「最期は家族と過ごしたい」と言い、イタリアへ帰った。その家族からミナリクに電話が入ったのは、年が明けてすぐのことだった。

 「ダニエレが息を引きとったと聞きました。この日が来ることは分かっていたけど、それでもまた声をあげて泣きました」

 1月4日、ポルクはわずか34年の人生に幕を下ろした。

 ミナリクは葬儀に参列するため、イタリアへ飛んだ。ドイツのトップジョッキーであるA・シュタルケも一緒に行った。同郷のF・デットーリも参列していた。

 「そこでダニエレの奥様から彼が使っていたサドル(鞍)をいただきました」

ダニエレ・ポルクの頭文字”D・P”が刺繍されている形見の鞍
ダニエレ・ポルクの頭文字”D・P”が刺繍されている形見の鞍

 今回の来日に、ミナリクはそのサドルを持参した。実際にレースでも何度か使った。2月17日にはサクレディーヴァの騎乗時に使用し、見事に先頭でゴールを駆け抜けた。

 「もし昨年、ダニエレがジャパンCに乗っていなければ、多分もっと早く亡くなっていたと思います。日本で乗るという気持ちが彼のモチベーションになっていたはずです。ジャパンCのお陰、日本のお陰で彼は少しでも長生きできたし、楽しめたと思います」

 こう言うと、ひと呼吸置いた後、さらに続けた。

 「もっと日本で乗りたいと思っていたのにその願いをかなえられなかった彼のため、そして、彼との最高の思い出をくれた日本に恩返しをするためにも、僕は日本で短期免許を取りたいと思ったし、毎年でも乗りたいと考えています」

 今回の滞在は4月2日まで。日本でのミナリクの活躍を、亡き友も見守ってくれていることだろう。

昨年のジャパンCが今は亡きダニエレ・ポルク騎手(左)との最後のレースとなった。現在は彼の想いも乗せて日本で騎乗している。
昨年のジャパンCが今は亡きダニエレ・ポルク騎手(左)との最後のレースとなった。現在は彼の想いも乗せて日本で騎乗している。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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