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生まれてこなかったはずの馬が、1人の男の熱意で生を受け、ビッグレースを制するまでの感動秘話

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
2016年の皐月賞を制したディーマジェスティ

 11月20日、ディーマジェスティの引退、種牡馬入りが発表された。

 同馬は2016年、皐月賞のほか共同通信杯とセントライト記念に優勝。G1勝ちは1つだけであったが、実は本来ならそれらの勝利は無くてもおかしくはなかった。1人の男の馬を愛する強い気持ちが奇跡を起こした結果、歴史を作った。そんな馬だったのだ。

2016年の皐月賞。ゴール前、力強く抜け出しG1ホースとなったディーマジェスティ(中央、ピンク帽)
2016年の皐月賞。ゴール前、力強く抜け出しG1ホースとなったディーマジェスティ(中央、ピンク帽)

良血馬に襲い掛かったアクシデント

 2016年4月17日。1人の男から電話が入った。電話の主は感慨深げに言った。

 「あの馬の血統が、花開くとはねぇ……」

 話は1996年まで遡る。

 この年の4月28日、東京競馬場で行われた芝1600メートルの未勝利戦。1頭の良血の牝馬がデビューした。岡部幸雄を背にして、既走馬相手に1番人気に推された同馬だが、結果は5着に敗れた。

 兄にイギリスのダービー馬ジェネラス、姉にこれまたイギリスのオークス馬イマジンを持つこの馬は、名をシンコウエルメスといった。

デビュー戦のシンコウエルメス(右から3頭目の赤帽)。良血馬で大きな期待が懸けられていた(写真提供=JRA)
デビュー戦のシンコウエルメス(右から3頭目の赤帽)。良血馬で大きな期待が懸けられていた(写真提供=JRA)

 「前半から行くタイプではないから初戦としては及第点」

 そう語ったのは同馬を管理する藤沢和雄。美浦に帰厩させた後、2戦目を目指すことにした。

 しかし、その2戦目へ向かい調教している最中にアクシデントが起きた。

 「蹄跡などを避けて出来るだけ馬場状態の良いところを走らせていたつもりだったけど、その瞬間に『骨折だ!!』って分かりました」

 こう語ったのは手綱をとっていた橋本広喜(当時)騎手だ。

 「競走馬として鍛錬は必要なわけだから、それに比例してリスクが大きくなるのは仕方のないことです。それでも事故が起きてしまった以上『コースや時間帯などもっと違う手はあったんじゃないか?!』って考えさせられました」

 藤沢はそう語った。

 トレセン内の診療所で診断されたシンコウエルメスは、考えていた以上に重度の骨折であることが判明する。

 「軽めの調教中だったから、それほど重症ではないと思ったんだけど、予想以上に大きな怪我でした」

 執刀した獣医に、話を伺う機会があったのだが、彼は次のように言っていた。

 「獣医学的な限界があるのは事実で、苦しめるなら『難しいです』と伝えなければなりません。この時も折れ方が複雑だったので、レントゲン写真をみた瞬間にそう伝えました」

 “難しい”とはつまりストレートに記せば安楽死やむなしということだ。

「安楽死やむなし」と診断されたシンコウエルメスに対し、藤沢和雄調教師(左)がとった行動とは……。(写真は2017年撮影)
「安楽死やむなし」と診断されたシンコウエルメスに対し、藤沢和雄調教師(左)がとった行動とは……。(写真は2017年撮影)

「命を救え!!」 指揮官の下、スタッフが一丸として介護にあたる

 しかし、藤沢は簡単に首を縦には振らなかった。

 「繁殖までも考えて苦労した上に手に入れ、わざわざアイルランドから連れてきた馬なので、何とか助けてあげられないでしょうか?」

 当時、藤沢はそう言って獣医師に食い下がったと言う。

 「藤沢先生の熱意に押され『厳しいと思うけど、やるだけやってみましょう』という感じでお受けしました」

 前出の獣医師はそう語る。

 繋の部分に、ねじれるように入ったヒビは3本もあった。全身麻酔をかけて、ステンレス製のネジを横方向に3本、さらにクロスするように縦方向にも1本入れ、骨をつなぎとめた。3時間に及ぶ大手術はひとまず成功し、シンコウエルメスの命は首の皮1枚、つながった。

 しかし、競走馬の場合、術後にも蹄葉炎や感染症の心配が付きまとう。実際、シンコウエルメスも麻酔が切れた途端に痛がっては暴れそうになった。

 これには藤沢の指揮の下、厩舎スタッフが一丸となって介護に努めた。すでに競走馬としての復帰はかなわないシンコウエルメスではあったが、担当していた厩務員だけでなく、他の厩務員や調教助手、所属していた騎手ら皆で、懸命に介護した。藤沢は言う。

 「私達スタッフがそうするのは当然のこと。それよりJRAの獣医さんがわざわざアメリカの大学に電話をしてアドバイスを受けながら術後の対応をしてくださったりと努力してくれたのがありがたかった」

 そんな日々が1カ月、そして2カ月と続いたある日、藤沢はあるシーンを目の当たりにした。

 「担当していた厩務員が馬房に行った際、エルメスが彼を頼るように鳴きました」

 その声を聞いた瞬間、藤沢は思った。

 『この馬は人を頼っている』

 ならば、このまま自分達が心を込めて介護にあたっていれば、必ずや助かるだろう、と。

 その結果、シンコウエルメスの怪我は完治。移動に耐え得るまで体力も回復したと判断され、北海道へ旅立ったのは、大手術から実に3カ月が過ぎてからだった。

助けられた命から紡がれた系譜がG1ホース誕生につながった

 こうして藤沢の熱意から無事に繁殖に上がったシンコウエルメスは2頭の牝馬を日本に残した。エリザベス女王杯3着など重賞戦線で活躍したエルノヴァがそのうちの1頭。

 そしてもう1頭はエルノヴァの1つ上の姉エルメスティアラ。彼女は競走馬としては未出走に終わったが、その後、繁殖入りしてディーマジェスティの母となるのだった。

 ディーマジェスティを管理した二ノ宮敬宇も、騎乗した蛯名正義もこの話は「後から知った」と言う。

 冒頭で電話をかけてきた男は、もちろん藤沢和雄。日付はディーマジェスティが皐月賞を勝った日であった。当時、私は答えた。

 「先生の熱意が日本の競馬の歴史を変えましたね?」

 すると、心やさしき伯楽は更に答えた。

 「私自身が良い判断をくだせたのだとしたら、シンコウエルメスではなく、エルメスティアラに対して、だね。1度、入厩したけど、お母さんと似たような面があったから、無理をさせずに繁殖にあげたんだ」

 数々のG1馬を世に出した伯楽は続けて言った。

 「シンコウラブリイやタイキシャトル、シンボリクリスエスらG1を勝って繁殖に上がった馬は勿論印象に残っているけど、シンコウエルメスやエルメスティアラのように未勝利のまま引退している馬も沢山いる。そういう馬達も思い出してあげなくては……って常に考えているんだ」

 かくして、本来なら後世につながれなくてもおかしくなかった血統、生まれなかったかもしれない馬は、クラシックレースを制するまでになった。そして、その血はまた後世に紡がれていくことになった。ディーマジェスティの種牡馬としての成功を期待したい。

引退、種牡馬入りが発表されたディーマジェスティ。奇跡的につながった血統が更なる広がりをみせることを期待したい
引退、種牡馬入りが発表されたディーマジェスティ。奇跡的につながった血統が更なる広がりをみせることを期待したい

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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