テロリズムに見ないムスリム(1): 「生活様式」としてのイスラーム

(写真:アフロ)

1. テロリズムに見ないムスリム

 9月16日の朝、西ロンドンのParsons Green駅の混雑した地下鉄車内で、爆発が起こった。死者こそでなかったものの、30名以上の負傷者をもたらしたこの出来事は、その後まもなく「テロ事件」として、ロンドン警視庁に発表されることになった。現在、18歳のイラクと21歳のシリアからの難民がこのテロとの関与が疑われ拘束されている。イギリスでは、今年に入ってすでに5つのテロ事件を経験しており、36名が犠牲になっている。そうしたなかで、反イスラームを掲げた抗議運動も盛んになっており、イングランド防衛同盟(English Defense League)などの組織が、全国でモスクの閉鎖などを求めて激しい活動をおこなっている。

 こうした事態(イスラームの名の下におこなわれるテロリズム、および、その結果としてのイスラームに対する社会的非難)は、多くのムスリム(=イスラーム教徒)にとって(青天の霹靂とまでは言わないまでも)不本意なものであろう。非イスラーム社会に生活するほとんどのムスリムは、異なる社会集団や信仰集団と関係を築き、平和裏に生活を営んでいるからである。

 前回の記事(https://news.yahoo.co.jp/byline/satoshiadachi/20170911-00075628/)でも指摘したように、多くのメディアでムスリムは、「テロリズム」や「過激主義」のタイトルのもとでのみ報道される一方で、その圧倒的多数を占めるその他のムスリムについて目にし、知る機会は非常に限られている。筆者がこれから数回かけて描くのは、そうした「テロリズムに見ない(=テロリズムに代表されない)ムスリム」の姿である。今回は、「生活様式」といったキーワードから、ムスリムの一面について論じてみよう。

2. 「信仰」としてのイスラーム?

 「宗教」と聞くと、どのようなイメージをもつだろうか。「神を信じること」「強い信念」、あるいは「頑迷」や「教条的」といった言葉を思いつくかもしれない。これらの特性は、通常、「信仰(faith)」と呼ばれる。『デジタル大辞泉』によると、信仰は、第一に、「神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること」、そして第二に、「特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと」と定義されている。こうした説明は、イスラームのイメージと調和的かもしれない。そもそもIslamとは、「服従」を意味しており、神への絶対的な恭順を指す用語である。ムスリムを紹介するときに、メディアでよく目にする、モスクにおける集団礼拝や、スカーフやヴェールを着用した女性は、こうした神への恭順を表すものである。

 強固な信仰は、世俗化した(=宗教が人びとを支配することがなくなった)近代社会のなかで、問題を引き起こすと考えられている。たとえば、近代社会の中心的な経済システムである資本主義では、人びとや資源の合理的・効率的な配分が重視されている。労働力は、計画的に配置され、組織されており、人びとは決まった時間に、決まった条件で、決まった作業をおこなうことが期待されている。他方で、宗教には多くの儀礼や慣行が存在しており、人びとはそれに従うことが求められる。そして、ときにこれら二つの原理・ルールは対立するのである。

 実際、イスラームも、礼拝、服装、食事など数多くのルールを信徒に課している。だが、定められた礼拝時間の確保、スカーフやヴェールの着用許可、断食月(ラマダン)への配慮、ハラール・フードの導入といったムスリム・コミュニティの要求は、現代の非イスラーム社会では容易に受け入れられないのである。

3. 「生活様式」としてのイスラーム

 だが、このようにイスラームを「信仰」としてのみとらえることは、やや偏ったイメージを与えてしまう危険がある。私が出会ったムスリムのなかで、イスラームを「信仰」と表現する者は少なく、むしろ「生活様式(way of life)」と呼ぶことを好んでいた。実際、あるイギリス人ムスリムは、「サトシ。イスラームは、信仰じゃないんだ。それは生活様式なんだ」とはっきり述べていた。

 では、生活様式とは、何を意味しているのだろうか。いくつかの辞書によると、生活様式は、「ある人物や集団の典型的な行動パターン」(Oxford Dictionary)、「ある特定の個人、人びとの集団の習慣、慣習、信念」(Merriam-Webster)と定義されている。つまり、生活様式という用語は、ある集団や個人が習慣的に従っている生活のあり様(way of life)を指している。たとえばイスラームには、食べて「良いもの(halal)」と「悪いもの(halam)」がある。豚肉やアルコール、あるいは決められた手順で処理されていない肉などは、イスラームでは食してはいけないもの(halam)とされている。これらは宗教的義務であるが、多くのムスリムがそうしたルールに従うのは、「信仰」や「救済」といった理由よりも、「そういうものだ」という感覚により強く根ざしているようにみえる。「僕らはそのように育ったんだ。だからそれに従うんだよ」、と。

 これは、立場が変われば容易に理解される。たとえば、日本であるレストランが犬肉や猫肉を提供していたならば、それは一つのスキャンダルであろう。豚肉や牛肉を食べることと、犬肉や猫肉を食べることに、本質的な違いはないように思える(むろん、栄養とコストの違いはあるが)。しかし、それでも、それは多くの日本人には受け入れ難いことである(これは、別の国で、鯨肉を食べることが一つの事件としてとらえられるのと同じである)。だからといって、われわれは、犬肉や猫肉を食さない理由を、信仰に求めることはない。ただ、それは「われわれのライフスタイルに合わない」のである。

 このように私が出会ったムスリムは、イスラームを常に「信仰」といった肩肘張ったものとしてではなく、慣れ親しんだ「生活様式」の問題としてとらえる傾向にある。

 生活様式という表現には、別の含意が存在している。それは、宗教的生活は、あくまでも複数の生活様式の一つに過ぎない、ということである。たとえば、あるイギリス人ムスリム女性は、イスラームを次のように説明している。

「イスラームは一つの生活様式であるという点で違いがあるわ。だから、私たちが、ムスリムではない人たちがおこなうことに同意しないこともある。たとえば、飲酒、それに婚外の性交渉など、違いがあるの。」

彼女は、イギリス社会の飲酒文化や性文化とイスラームを異なるものとして提示している。だが、興味深いことに、両者をともに「生活様式」あるいは「ライフスタイル」として表現することで、選択の問題として描いている。むろん、彼女/彼らは、イスラーム的生活を望ましいものととらえ、それを「個人的に選好」するが、そうではない選択肢もまた存在していることを認めているのである。こうした態度は、学校や職場で決定的な意義をもっている。非イスラーム社会や多文化社会に住むムスリムは、当然、ムスリムではない人たちと学び、働き、また交流をもつ。その際、彼女/彼らは、ムスリムでない者がお酒を飲むからといって、交友や仕事における関係を断ち切ることはないのである。それは、生活様式の違いにすぎないからである。

 むろん、イスラームを「生活様式」と表現することに、すべてのムスリムが同意するかどうかは疑問である。だが、非イスラーム社会や多文化社会で生活する多くのムスリムにとって、自身の信仰を一つの生活様式として理解することは、他の生活様式をもつ他者と平和裏に関係を築いていく上で重要である。イスラームを「信仰」の観点からのみとらえた場合、<信じる者/信じない者(=不信心者・異教徒)>(あるいは、<平和の家/戦争の家>)という対立をもたらす危険がある。それに対して、「生活様式」ととらえた場合、異なることを当たり前のものとしつつ、相手の立場に立つことがより容易になる。「それぞれ異なるし、いくつかの点で互いに理解しえないかもしれないけど、お互い様だよね」といったように。

 このようにわれわれもまた、ムスリムを「信仰者」としてだけではなく、異なる様式をもつ「生活者」としてとらえれば、互いに尊重しつつ、より積極的な関係を結べるのではないだろうか。