9/11から16年、改めてムスリムについて考える

(写真:ロイター/アフロ)

1. ごめんなさい、よくわかりません

 筆者は、長年、現代のムスリム(イスラーム教徒)の研究に従事してきました。具体的には、イギリスに始まり、後にマレーシアと日本をフィールドとし、多数のムスリム(とりわけ若者と女性)と出会い、インタビューを重ねてきました。そうした仕事柄か、周囲の人びとからしばしば、「どうしてムスリムはテロを起こすのですか?」と尋ねられることがあります。そうした質問に筆者は、いつも戸惑いと申し訳なさを感じつつ、「よくわかりません」と答えるようにしています。実際に、よくわからないからです。

 これまで150名以上のムスリムにインタビューをおこなってきましたが、西欧社会やメディアの報道に不満を述べる者はいたものの、だからといってテロを容認したり、彼女/彼らが住む社会(非イスラーム社会、現代文明)を否定する者は皆無でした。むろん、テロリズムに傾倒する多くの若者の存在を知っていますし、筆者が出会った人たちが、ムスリム全体を代表しているわけではないことも承知しています。ですが、その経験から「過激主義者に傾倒し、テロリズムに奉じるムスリム」を、(想像はできても)実感することはどうしてもできないのです。

2. 「テロリスト」ではないムスリム?

 周囲の人びとの反応は、いたしかたないことかもしれません。アメリカ同時多発テロから16年の歳月が経ちましたが、その間に、ムスリムと関係する数多くの出来事が頻繁に報道されるようになりました。過去5年を見ても、ISIS(イスラーム国)によるシリア支配やジャーナリスト人質事件、ボストン・マラソン爆破事件、「トロイの木馬」陰謀事件、ボコ・ハラム学校襲撃誘拐事件、「シャルリー・エブド」本社襲撃事件、あるいはヨーロッパ各地(ロンドン、マンチェスター、パリ、ベルリン、ブリュッセル、ニース、バルセロナなど)における「ソフト・ターゲット(ex. レストラン、マーケット、劇場など)」を狙ったテロ事件など、イスラーム過激派と関連づけられる出来事が数多く報道されました。これらの報道は、イスラームそれ自体が、暴力的で、反民主主義的であると描いているわけでは必ずしもありません。むしろ近年の主要メディアは、イスラームと過激主義とを注意深く分けて報道しているようにも思えます。

 にもかかわらず、現行のメディアのあり方には大きな問題があります。イスラームに関わる報道は、テロリスト、タリバーン、ISIS、ボコ・ハラムに見られる暴力的過激主義に関するものに偏っており、それ以外のムスリムの姿を目にすることは難しい状況にあります。ムスリムと日常的に接することが少ない日本人は、イスラームやムスリムについて知るのに、どうしてもメディアに頼らざるをえません。ですが、私たちは、「事件」という表題なしにイスラームを目撃し、また過激主義者ではないムスリムを想像することははたして可能でしょうか。メディアの報道を通じて、ムスリムやイスラームに対する恐怖感や負のイメージを知らず知らずのうちに植えつけられてはいないでしょうか。

 テロリストについて尋ねてきたり、ムスリムを調査することについて身を案じてくれる人びと(家族から、友人、知り合い、フィリピン人の英語教師まで)を見ると、どうしてもそうした疑問を抱いてしまいます。

イギリスの若者ムスリムと筆者(右):筆者撮影
イギリスの若者ムスリムと筆者(右):筆者撮影

3.「表象(representation)」をめぐる陣地線

 このようにイスラームは、テロリズムや過激主義をめぐる報道や言説のなかで「過大に代表されて(over-represented)」いるように思えます。その一方で、コミュニティ活動に従事する市民、情報化に適応した現代人、恋愛に思い悩む若者、あるいはポジティブな感情を表現する個人として、ムスリムがメディアのなかに現れることはめったにありません。しかし、こうしたイスラームやムスリムについての「表象(=描かれ方)」や「言説(=語られ方)」は、彼女/彼らとの関係を築く際、大きな影響をもっています。というのも、ムスリムをよそよそしい存在(=テロリスト、狂信者、抑圧的文化の実践者)として描けば描くほど、彼女/彼らを社会から排除することが正当化される可能性は高くなり、逆に身近な者(=生活者、市民)として描けば、その包摂はより容易になるからです。つまり、ムスリムをめぐる表象は、ムスリムの「排除」を望む勢力と、「包摂」を望む勢力との「陣地戦(=支持を得るための戦い)」という意味があるのです。

 これまで表象をめぐる戦いでは、「包摂」チームは劣勢にあるといえるかもしれません。ですが、そのなかでも注目に値する、興味深い取り組みは多数存在しています。一例を挙げれば、「Happy British Muslims」というYouTube上に公開されている映像がそれに当たります。この映像は、全米1位になるなどベストセラーとなったアメリカの歌手ファレル・ウィリアムス(Pharrell Williams)の「Happy」の陽気な音楽を背景に、(ロンドンを中心とした)多数のイギリス人ムスリムが笑顔でダンスをおこなうという内容となっています。小さな子どもから、スカーフを着用した女性、今風の格好をしたクールな若者、シリアスな顔をする中年男性、ぎこちないダンスをする中年女性、そしておそらくはムスリムではない男女までもがともに踊りながら、「Happy」を歌い、その幸福な姿を表現しています。このビデオは、テロリズムや過激主義、暴力や抑圧といった、日常的に流通しているムスリムのイメージとは異なった姿を描きだしている点で、大きなインパクトを与えました。その結果、この映像は、ムスリム・コミュニティ内部で批判や論争を巻き起こす一方で、アメリカ、ドイツ、オランダ、シンガポールなどでも同様のビデオが作られるなど、大きな(そして積極的な)反響をもたらすことになりました(YouTube上で視聴可)。

 日本でも近年、新聞やテレビ、あるいはインターネットを通じて、ムスリムの多様な姿を目撃する機会が増えています。たとえば、2017年6月9日に放送されたNHKの「ドキュメント72時間」という番組(「東京・渋谷 モスクで会いましょう」)では、日本の代表的なモスクである「東京ジャーミー」に密着し、異なる国籍や背景をもつ人びとが、多様な動機をもちモスクに集っている様子が映し出されています。そこには、礼拝する姿だけでなく、無邪気にインタビューに答える子どもたち、希望と不安をともに抱えながら日本語を勉強する留学生、金曜日の礼拝のための食事を準備する3回の離婚を経験しているトルコ人シングル・ファーザー、30歳年下のインドネシア人女性と結婚するために改宗した郵便局員ギタリスト、結婚式をあげるスカーフを着用する新婦と袴を着た和装の新郎、家族に改宗を伝えていない悩みをもつ日本人女性、そして礼拝しないと親に怒られることを「子どもの悲しい性」と語るませた少年などが登場しています。この番組は、わずか72時間という間に、モスクという限られた空間のなかでさまざまな活動に従事する、多様な人びとをとらえています。それは、ムスリムという単一の表象では汲み尽くせない、複雑な事情をもち、しかしどこか親近感を抱かせる人間としてのムスリムを照らし出しているように思えます(「NHKオンデマンド」で有料にて視聴可)。

 さて筆者は、現代の多数のムスリムについて調査する研究者として、こうした表象をめぐる陣地戦に参加することへの義務感とともに、世界中に多数のムスリムの友人をもつ個人(非ムスリム)として、彼女/彼らとともに社会を築く意志をもっています。そこで、これまで従事してきたインタビューの経験をもとに、多くの人びとが抱くイメージとは異なるムスリムたちのより多様で積極的な姿について、今後いくつかの記事を配信していきます。