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防衛研究所の役割について

佐藤丙午拓殖大学国際学部教授/海外事情研究所所長
(写真:イメージマート)

○注目を集める防衛研究所の「専門家」たち

 ロシアのウクライナ侵攻の問題で、防衛省防衛研究所の研究者がメディアに登場し、軍事、国際関係、安全保障などの様々な側面から解説を行なっている。防衛研究所に在籍したものとして、かつての同僚などがあのような形で活躍していることは非常に嬉しい。特定の個人名を出すと、それ以外の、素晴らしい研究を行なっているのに、ここで名前を出さない人が活躍していないかのように受け取られるため、あえて漠然と全体を指して、その活躍を全体の中で評価したい。

 防衛研究所がここに至るまでには、長い歴史がある。それは、軍事・安全保障論や、国際関係論が日本でどのように扱われてきたか、という歴史そのものかもしれない。また、政策研究という分野が、日本国内で成熟しきれない原因は、防衛研究所と日本の論壇との関係を辿ると、その一部は理解できると思う。さらに、大学と防衛研究所の関係では、今日でも緊張関係が完全に融けてはいない。日本の軍事・安全保障研究は、人材面を含め、防衛研究所や防衛大学校の創設期より、慶應大学を含む一部の大学に大きく依存してきた。この構図は変わりつつあるが、構造変化までには至っていない。

 その問題の一端を見ることができたのが、「憂慮する日本の歴史家の会」がウクライナ問題に対して発表した声明に関する3月29日の長周新聞のインタビュー記事の中の、和田春樹東京大学名誉教授と富田武成蹊大学名誉教授の発言である。両名誉教授の発言は、表現こそ違うが、防衛省関係者の発言や解説の危うさ(趣旨としては、反ロシアに世論誘導している)、そして防衛省関係者などが発信すること自体を問題視している。両名誉教授は、発言を封じることを意図したものではない、と反論するだろうし、それは事実だと思う。しかし、防衛研究所の研究者が経験してきた社会からの非難や、向けられてきた偏見を振り返ると、両名誉教授の発言に危うさを感じざるを得ない。

○防衛省のシンクタンクという意味

 両名誉教授の発言の危うさとは、その発言内容や意図の問題ではない。安全保障問題に対する国際社会の関心の高まりを背景に、日本の政治選択を検討すべき日本の言論空間において、かつてのように「信教」に支配され、社会の分断を自己目的化している状態に戻ることを目指す人々に、両名誉教授の発言が利用されることを懸念するものである。

 分断を目的とする、というのは分かりにくいかもしれない。誤解を恐れずにいえば、軍事・安全保障研究の成果を認めず、その研究から導き出される政策議論を拒否する、ということである。日本の外交政策や、国際関係論全般に関わる議論に決定的に欠けているのは、軍事問題に対する理解であるという話を聞くことは多いと思う。本来国際関係論は、「戦争と平和」の学問であり、どのように戦争の勃発を防ぎ、一旦発生した後は、それをどのように収めるかということが議論の出発点になる。そこでは軍事問題を抜きに考えることはできないのだが、日本では抽象的な意味での「外交」で対処すべきと諭される。

 もちろん「外交」は重要である。しかし、外交交渉が成功する条件とは何で、対話や合意がなぜ成立し、それがなぜ維持されるのか、という問いに、日本の論壇は真剣に向き合ってこなかった。外交交渉においては、日本が相手に「お土産」を渡し、それで相手に好意的な取計を期待する、というスタイルが好まれ、日本経済が国際的に優位な時代はそれを楽しんできた。

 また日本では、中立的な立場から紛争当事国の間で仲介的な役割を果たす、というスタイルも好まれるが、それは当事国両者に影響力を行使できる能力があって初めて可能になる。そして残念ながら、経済援助という形での経済協力は、それほど大きな影響力を発揮してこなかったし、今後も期待が持てないだろう(ただ、対立する両勢力に経済的なインセンティブを示し、日本主導で成功した仲介で思い出すのは、カンボジア和平である)。ただこれらスタイルは、「平和」的で、「協調」重視、ということで、支持され続けてきたのである。

 その意味で防衛省は、平和や協調という美しい世界を横目に見ながら、それとは無関係に見える、軍事力を通じた日本の国際的地位の確保に取り組んできた。もちろん冷戦期を含め、それが日米安保体制の下で「米国追随」に過ぎなかったという批判は成立するかもしれない。また、平和憲法、非核三原則、武器輸出三原則等で政策的に操作する余地が封じられた中で、軍事的な措置を外交政策上の手段として活用できなかったというのも事実だと思う。

 しかし、国家が保有する軍事組織の資源を、国際的な戦略環境を考慮しながら、政策的な道具として活用する方策を探る学問的及び政策的な議論は必要不可欠であった。それを、軍人や元軍人を含め、アカデミックな観点から行うことは、国際的には常識である。軍事問題に関わる国際交渉は、高度な知的作業であり、たとえそれを自衛官が担当したとしても、軍事的知見と学術的な見識が求められた。防衛研究所はその議論を行い、自衛官の教育を実施する役割を担わされたのである。

○防衛研究所の研究者の解説は警戒すべきか?

 しかし、日本の論壇には馴染まないこれら役割は、多くの研究者に忌避されてきたのは事実である。そこには様々な要因があるが、ここでは、防衛研究所の研究者による情報発信と、その信頼性の面から考察してみたい。

 防衛研究所の研究者の解説に対して、必ずと言ってよいほど持ち出されるのが、「彼らは防衛省の意向を受けて国民を一つの方向に誘導しようとしている」、「防衛研究所の研究者の発言や論文は、防衛省の検閲を受けたものしか出てこない」、そして「秘密の情報(非公開)に触れながら研究をおこなっている」というものであろう。これを否定するにせよ、また肯定するにせよ、防衛研究所に在籍した者が何を言っても信用されないだろうから、ここで触れることはしない。

 重要なのは、防衛研究所の研究者がどのような情報発信をしようと、それを検証し、否定的でも肯定的でも、提起された問題や情報に関して議論を行う知的基盤が、防衛研究所や防衛大学校の他にないことが、日本の安全保障論議にとって決定的にマイナスとなるということである。

 防衛研究所の研究者の発言を、防衛省がバックについているので絶対的に真実、とありがたがるのは危険である。実は彼らも直面する軍事・安全保障問題に対し、学術的知識の基盤の上に、その政策上のインプリケーションを議論しているに過ぎない。逆にいうと、日本の論壇内で、積極的に軍事・安全保障問題への研究を進め、防衛研究所の研究員たちの発信に対抗できる知的基盤と政策コミュニティを構築しないと、日本の議論が全体として埋没することになる。この問題では、日本学術会議が批判されることが多いが、日本の安全保障に関わる議論の健全さを保つためには、軍事問題を扱わないのではなく、積極的に扱う必要があるのである。

 ここまで読むと、防衛研究所の研究は、防衛省が持つ機微な情報に基づくものではないのか、と疑問を持つ人もいるだろう。しかし、日本の民主主義では、外交安全保障政策は、行政府と立法府の意思決定者たちが最終的な決定を行うので、論壇に参加する論者にせよ、行政府の一シンクタンクの研究者にせよ、意思決定の助けになる選択肢を提示するに過ぎず、その分だけ決定に責任を持たない自由が許されている。防衛研究所の先輩の若泉敬氏は、いわゆる「核の密約」で密使を務めたが、これは若泉氏と佐藤栄作首相との個人的関係による。

 もし日本に、政策形成に責任を持てる人的コミュニティが出現するのであれば、制度の内容次第ではあるが、防衛研究所や防衛大学校と、それ以外の政策研究コミュニティとの情報等に関わる格差は「理論上」はなくなる。もちろん行政機関の一部である防衛研究所と、一般の研究者を同じ立場とすることはできないが、情報分析の優劣は、研究者個人の力量によるものになる傾向は強まるだろう。

 そのような共同体がない状態では、公式的には防衛研究所の研究員の主張は、行政機関の一部が提示した選択肢の一つ以上の地位はない。したがって、防衛省にすると部内の一機関である防衛研究所の研究者の研究に対して、自らの意向を反映せよと強制する意味はなく、もし強制したとしても、日本の学会や論壇を含む、防衛省外の政策コミュニティから良い意見が出て来れば、そちらを採用した方が日本の国益に叶うことになる。

 つまり、日本国内の安全保障研究の幅と深みが、日本の国民を「防衛省の世論誘導」から守るものとなるのである。先の両名誉教授の発言に感じる危うさは、特定の研究分野に対する排他性である。軍事・安全保障問題や政策研究を、防衛研究所などの一部のシンクタンクの研究者にのみ委ねると、情報は一部にとどまり、政策選択の幅は狭まる。それを是とし、軍事・安全保障に関する知識に欠けた状態で、外交政策や国際関係に関する言説を展開すると、それは政策的な妥当性に欠けるものにならざるを得ず、結果的に日本の政治選択に重大な損害を与えることになる。

○防衛研究所の苦悩と将来

 両名誉教授が素晴らしい業績を重ねられてきたことは疑う余地がない。しかし、戦争と平和、さらには軍事問題に関する領域では、抽象的な概念を操る行為は危険であり、より具体的である必要がある。抽象的な概念は解釈の幅が大きく、政策指針として有用ではない。抽象的なゴールを政策提言として提示することは必要だと思うが、提言の一つ一つの背後に具体的な中身が伴わず、理想的な未来像を示唆しているだけということになると、それは学者の自己満足に終わってしまう。それでは学者の深い見識を、生かしきれないことになる。

 繰り返しになるが、防衛研究所の研究者の分析を問題だと感じるのであれば、防衛省外の論壇に属する研究者たちが、彼らを上回る学問的見識及び政策研究上の能力をもって、彼ら以上の分析を行えばいいだけである。幸いなことに、日本には複数の政策シンクタンクがあり、防衛省以外の政府系のシンクタンクも存在する(国際的なランキングでも上位に位置付けられるものも多い)。

 ただここに防衛研究所の課題が見える。防衛研究所の研究者は「どこで勉強して、どのような経緯で採用されるのか」ということを疑問に持つ人は多いだろう。自分自身、そのような疑問に対して模範解答さえも出すことはできない。大学で勉強して就職する、以上のことは言えないのである。すなわち、防衛研究所の研究者を作る人材の基盤は、大学に大きく依存するが、日本国内の各大学で軍事・安全保障を教えるところが少ないため、少ない数の中での競争になる。しかし、各大学が軍事・安全保障に力を入れ始めると、大学での職が確保できるため、防衛研究所に行く必要がなくなる、となる。

 もちろん、日本のアカデミアの保守性を考えると、そんなにピュアに変化を期待しても無駄なのは理解できる。現実的には、国際関係論の中で該当するテーマを選択する学生を増やし、そこから軍事問題への理解を高めていくしかないだろう。現在メディアで注目されている研究者たちも、防衛研究所に入った時に取り組んでいたテーマと、現在のテーマが違う人もいる。残念なことに日本では、そのようにして軍事・安全保障に関する政策研究にかかわる人を増やしていくしかないのである。

 防衛研究所の研究者に向けられる、もう一つの批判を最後に説明したい。それは、「防衛省の関係者が外部に意見などを発信していいのか」というものである。これには情報保全の側面と共に、防衛省・自衛隊を社会の隅に追いやり、軍事的な問題を見たくも考えたくもないという心理(国民が政策を真剣に考えると、現在の法体系や政策体系の抜本的な見直しにつながるから)の側面があるだろう。

 後者の心理に関わる側面に対する答えは明確である。日本の民主主義や社会に蓄積された叡智は、それほど脆いものではなく、なおかつ社会は変化を恐れてはいけないのである。

以上

拓殖大学国際学部教授/海外事情研究所所長

岡山県出身。一橋大学大学院修了(博士・法学)。防衛庁防衛研究所主任研究官(アメリカ研究担当)より拓殖大学海外事情研究所教授。専門は、国際関係論、安全保障、アメリカ政治、日米関係、軍備管理軍縮、防衛産業、安全保障貿易管理等。経済産業省産業構造審議会貿易経済協力分科会安全保障貿易管理小委員会委員、外務省核不拡散・核軍縮に関する有識者懇談会委員、防衛省防衛装備・技術移転に係る諸課題に関する検討会委員、日本原子力研究開発機構核不拡散科学技術フォーラム委員等を経験する。特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)の自律型致死兵器システム(LAWS)国連専門家会合パネルに日本代表団として参加。

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