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親友を泣かせたピアノと嘘――下重暁子が語るNHKアナウンサー時代の野際陽子【野際陽子物語】

笹山敬輔演劇研究者
(写真:Paylessimages/イメージマート)

テレビが斜陽産業と言われて久しいが、今なお女性アナウンサーは憧れの職業である。60年前のテレビ創成期においても、同様に狭き門だった。1958年、NHKのアナウンサーには男女あわせて3000人以上の希望者があり、合格したのは男性9人と女性2人、そのなかの1人が野際陽子だった。だが、野際の1年後輩だった下重暁子は、次のように語る。

私と野際さんは、間違ってアナウンサーになった人間です。二人ともアナウンサーが良い職業だと思ってなかった。何でもできるけど、何にもできないのがアナウンサーです。

野際と下重はアナウンサーとして勤務しながらも、そこに留まるつもりはなかった。そして、実際にNHKを退社し、それぞれの道へ進んだ。下重暁子に野際陽子と過ごしたNHK時代について語ってもらった。

四畳半一間の青春

女子学生の就職は、今よりもはるかに厳しかった。短大卒であれば事務職採用の対象になったが、4年制大学卒の公募は少なく、ほとんどが試験すら受けさせてもらえない。野際が大学の学生課にある掲示板を見ても、女子のための求人はNHKと岩波書店だけだった。学生演劇をしていた彼女は、詩や物語を朗読する仕事ができればと思い、NHKに入社した。

最初の2年間は、名古屋放送局での勤務だった。野際はNHKが独身寮として借りていた木造アパートに入ったが、場末のストリップ劇場のそばにあり、女性が住むことを想定していなかったのだろう。そこへ泥棒が入ったエピソードは有名な話だ。

給料日の夜、マスクをした若い男が部屋に押し入り、ナイフを突きつけた。野際がガタガタ震えながら「いくらほしいの」と聞くと、「200円」だという。だが、たまたま1000円札しかなく、思わず「お釣りちょうだい」と言ってしまった。泥棒の返事は「800円も持っていたら200円くれって言うか」だった。『徹子の部屋』で何度も披露された、彼女の「すべらない話」である。

その事件が影響したのか、2年目には「荒田寮」と呼ばれる新築の独身寮が用意された。そこは鉄筋の3階建てで、部屋は四畳半一間、暖房も冷房もなく、トイレと洗面所が共同だった。野際は3階の一番奥の部屋に入り、その隣の部屋には新しく赴任してきた下重暁子が入った。

下重はその荒田寮で野際と初めて出会う。赴任した日の翌朝、洗面所に行くと、野際が顔を洗っていた。うなじの美しさに「木目込み人形みたい」と見とれた。それが第一印象だった。寮には20人ばかりの若い男たちがいるなか、女は2人だけ、互いに「ノンちゃん」「アコ」と呼びあった。

ノンちゃんは頭が良くて、仕事ができて、自立している人。しかも姉御肌で、いろいろなことを教えてくれました。私が社会に出て、最初に出会ったのがノンちゃんでした。それがどんなに幸せなことだったか、今つくづくそう思います。

仕事終わりに、野際は下重を行きつけの店に連れていった。一緒に飲んでいると、野際は「この子飲めるわ」と言って、うれしそうだった。それから毎晩、二人でお酒を飲んだ。いくら飲んでも酔いつぶれないことから、「荒田のおろち」のあだ名がついた。給料日がくると一緒にブティックに行き、野際はオフィーリアみたいなネグリジェを、下重は夕焼け色の口紅を買った。

下重は、何事も完璧だった野際に憧れ、真似をするようになった。だが、それではいつまでたっても追いつけないと気づく。それからは、彼女と違う発想をしようと決めた。「私が自分の個性に気づけたのは、野際さんのおかげです。私にとっては本当に大きな存在なんですよ」

伊勢湾台風

だが、どれほど優秀でも、女というだけで仕事の範囲が限られる。1959年9月26日、戦後最大の被害をもたらした伊勢湾台風が東海地方を襲った。男たちは徹夜で待機することになり、二人も使命感に駆られたが、「女は家に帰れ」と命令された。

仕方なく荒田寮に戻ったが、二人とも不満だった。まもなく停電し、外から聞こえてくる風の音は、「ヒィー」という女の悲鳴に似ていた。窓ガラスは弓なりに反り、いつ割れてもおかしくない。その夜、二人はろうそくの火で五目並べをしながら、男たちの悪口を言いあって過ごした。会社は女を保護しようとしたのだろうが、こんな時だからこそ仕事がしたかったのだ。

結局、女性アナウンサーはアシスタントでしかなかった。野際はNHKに4年間勤務して退社した。雑誌に退社理由を聞かれ、「私は女性にでき得る仕事の限界を見きわめたい」と答えている。また、NHK内で女性アナウンサーが置かれていた状況について、次のように言及した。

NHKには海外への留学制度があるんですが、なかなか自分の番にまわってこないです。アナウンサー、とくに女性の場合何を勉強するのかということが問題にされなかったようなフシがありますのよ……。

出典:『キネマ旬報』1962年9月下旬号

けっきょく女は、十年いようが二十年いようが、頭打ちになってそれ以上伸びられないという雰囲気があるわけですよ。それに、若い人が、どんどん入ってくる。そっちのほうが新鮮でいいというムードもあるわけですよ。

出典:『週刊明星』1963年12月

一方、下重も1968年にフリーに転身し、文筆活動に入った。下重は、二人ともアナウンサーになることが目的ではなかったと語る。

最初からノンちゃんは女優、私は物書きになりたかった。アナウンサーになったのは、食べるためですよ。自分で食べていかなければ自由が獲得できないと百も知ってましたから。

夢見ていたピアノ

野際の晩年、NHKのラジオ番組で二人の対談が企画され、「仕事が終わったら、また飲もうね」と電話で話していた。だが、野際の肺ガンがすでに進行しており、実現しなかった。結局、下重は電話で話しただけで、最後に会うことはできなかった。

悔しかったですね。いま会えたら、ちゃんとした大人の女の話ができたのに。二人ともそんなに友達っていないんですよ。知ってる人は山ほどいるけど、心許した人はいない。私たちは群れたりしなかったですから、野際さんも有名になればなるほど、孤独だったと思いますよ。

野際の死後、下重は彼女のマンションを訪ねている。リビングルームに祭壇が飾ってあり、その前に大きなベーゼンドルファーのグランドピアノが一つ置かれていた。それは、野際が500円玉貯金をしてようやく買ったピアノだった。

10歳の時、野際は友達に嘘をついている。「富山の家にはピアノがあったの。でも空襲で焼けちゃった」――。父一人の稼ぎで5人姉弟を育てる家にピアノを買う余裕などないことは、よく分かっていた。だが、「ピアノがほしい」と四六時中願うあまり、夢と現実が入り混じってしまったのだ。いつか自分で働いたお金でピアノを買おう。彼女は心のなかでそう誓っていた。

下重はそのピアノを見た途端、涙がとまらなくなった。「ああそうだよね、ノンちゃん。私たちの時代はそうだったよね」。戦後の貧しい時代を生きた少女にとって、ピアノは夢だった。野際はどんなに大女優になろうとも、少女の頃に誓ったその夢を忘れることはなかった。

(文中敬称略)

〈参考文献〉

・野際陽子『脱いでみようか』扶桑社、1996年

・下重暁子『天邪鬼のすすめ』文藝春秋、2019年

【この記事は北日本新聞社の協力を得て取材・執筆しました。同社発行のフリーマガジン『まんまる』に掲載した連載記事を加筆・編集しています。今回の続きとなる最新回は11月11日発行の『まんまる』に掲載しています。】

演劇研究者

1979(昭和54)年、富山県生まれ。筑波大学大学院博士課程人文社会科学研究科文芸・言語専攻修了。博士(文学)。専門は日本近代演劇。著書に『演技術の日本近代』(森話社)、『幻の近代アイドル史――明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記』(彩流社)、『昭和芸人 七人の最期』(文春文庫)、『興行師列伝――愛と裏切りの近代芸能史』(新潮新書)。最新刊に『ドリフターズとその時代』(文春新書)。

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