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伝説の芸能レポーター 東海林のり子が語る「野際陽子さんの離婚騒動と『ありがとう』」【野際陽子物語】

笹山敬輔演劇研究者
シモーヌ・ド・ボーヴォワール (1938年)(写真:Shutterstock/アフロ)

「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」――今からおよそ70年前、フランスの作家であり哲学者のボーヴォワールが『第二の性』に記したこの一節が、世界中で多くの女性たちの意識を変えた。「女らしさ」が生得的なものではなく、歴史や社会によってつくられるのだという主張は、ジェンダーをめぐる議論の原点である。『第二の性』が日本で翻訳出版されたのは1953年、その最初の読者のなかに大学時代の野際陽子がいた。

敗戦後、日本には進駐軍とともに男女平等が持ち込まれ、婦人参政権の実現や男女共学を定めた教育基本法の制定など、様々な改革が行われた。小学4年生で終戦の日を迎えた野際は、ミッション系の中高一貫校である立教女学院に進み、自由な校風のなかで新しい思想を海綿のように吸収していく。リベラルな家庭環境に育った彼女にとって、男女平等は屈託なく受け入れられる思想だった。高校2年生のときにロマン・ロランの小説を読んで以来、フランスの小説や映画にのめり込むようになり、大学でも自然とボーヴォワールの著書を手に取ったのだろう。

大学の1年先輩で後に芸能レポーターとして活躍する東海林のり子は、次のように語る。

まだまだ男尊女卑の時代でしょう。私たちはしょうがないと思ってたけど、彼女は進んでましたよ。ボーヴォワールを読んでたから、そういうこともより強く感じてたのかもしれない。

野際と東海林は大学で出会い、すぐに「ノギ」「ノッコ」と呼びあう親友になった。卒業後はともにテレビの世界に進み、それぞれが男社会のなかで戦っていく。二人の関係には、どこかシスターフッドを思わせるところがある。東海林のり子に親友・野際陽子の生き方について聞いた。

「ミス立教」と呼ばれて

1954年4月、18歳の野際は男子学生の群れに気後れしながら、立教大学の正門をくぐった。当時の4年制大学への進学率は男子13.3%、女子2.4%であり、女子校から進学した彼女にとって、一度に大勢の成人男性を見るのはこれが初めてだった。しばらくの間は、高校からの友達と待ち合わせ、手をつないで校門をくぐった。同じクラスに結婚している女子学生がいると聞き、野際は自分が大人の仲間入りをしたのだと実感する。

学部は英米文学科に入り、英語を勉強するためにESSという英語サークルにも所属した。東海林とはそこで出会う。二人はいつの間にか仲良くなり、学生時代はいつも一緒だった。ESSでは毎年、早稲田・慶應・立教・一橋の四大学で英語劇のコンテストが行われる。野際が2年生のとき、岡本綺堂の『修禅寺物語』を上演し、二人で姉妹役を演じた。アルバイト先も同じで、銀座にあるブティック「三愛」で売り子として一緒に働いている。

大学時代の野際は、質素な印象だった。浦和の名門校を出た東海林からは、立教女学院出身の学生が華やかに見えたが、野際は白いブラウスに紺のスカートという地味な装いをしていた。それでもその美貌は目立つ。東海林が言い寄る男たちからの防波堤になることもあった。「静かな人なのよね。でもなんとなく寄り添ってくるのよ。私といると気が楽だったのかな」

同期には長嶋茂雄もいて学生スポーツが華やかな時代である。野際は「初代ミス立教」と紹介されることもあるが、彼女によればそんなコンテストはなかったという。だが、頼まれてセレモニーには何度も駆り出されている。在日米軍と東京六大学の間でアメリカンフットボールの対抗戦が行われた際には、振袖姿でオープンカーに乗り、手を振りながら入場した。間違いなく、大学のなかで注目の的だったのだ。

それでも野際はけっして派手にならなかった。真面目に勉強して2年間、特待生になっている。一方で、青春らしく初恋と失恋も経験した。お互いの自立と自由を尊重するサルトルとボーヴォワールの関係に憧れたのも、その経験が影響しているのかもしれない。野際は『第二の性』を読み、女性の自立やそれを許さない環境に思い至ったのだろう。自分から発信することはなかったが、女性の自立については徹底的に考えていた。

ノギはね、絶対ひけらかさない人なのよ。私はこんな本を読んでるとか、自分からは一切言わない。本当はすごい優秀な人なのに。ただ、女が自立して生きていかなきゃいけないというのは根本にもっていたと思う。

自立した女性へ

先輩の東海林は一足先に就職する。当時は、就職するなら短大に行けと言われた時代で、4年制大学の女子学生には就職先がほとんどなかった。東海林が就職課に行っても、「自分のコネで探せ」と言われてしまう。コネなしで公募している仕事を探し、ニッポン放送にアナウンサーとして入社した。その翌年、ときどきニッポン放送に遊びに来ていた野際も、NHKのアナウンサーになった。

あの時代、女のアナウンサーはいないも同然なんですよ。だいたい、ニュースを読ませてもらえないの。「なんで読ませてくれないんですか」って聞いたら、「女が読んだら信ぴょう性がないんだよ」と言われました。腹が立ちましたね。ノギもNHKで同じことを感じてたでしょうね。

それぞれが会社を辞めてからは、東海林は芸能レポーター、野際は女優として活躍していく。二人の関係は互いにベタベタするのではなく、自立した者同士のつきあいで心地よかった。野際が冬彦の母を演じて女優として飛躍したときには、東海林は自分のことのように喜んでいる。

野際は悩みを表に出さない人だったが、一度だけ憔悴した姿を見ている。東海林がたまたま取材で京都に行ったとき、京都駅で壁に寄りかかっている野際を見つけた。その顔はいつになく寂しそうだった。「ノギ、どうしたの」と聞いても、「うん」と頷くだけで、それ以上何も言わなかった。それからしばらくして、野際は夫の千葉真一と一緒に離婚会見を開く。東海林にはレポーターとして取材依頼がきたが、断った。あとでそのことを伝えると、野際は「ありがとう」と呟いた。

人生で大変なことがあっても、ノギは全部自分で解決してきたのよ。そこまでがんばらなくてもいいのに、とは思った。いくらでも言い訳できるのに。ただ、やり遂げたかったのよね。

野際の生き方は最期まで変わらなかった。東海林は彼女のドラマを見ながら、「声が枯れてるな」と思った。それでも、彼女の性格が分かっているから、しつこく電話したりはしなかった。そして、ある日突然、ニュースで訃報を知った。「もっと気にせず連絡すればよかった。それだけが心残りです」

東海林は、ずっと大切にしている学生時代の写真を見せてくれた。東海林と野際がキャンパスの中庭で寄り添うように座っている。その写真は、二人の関係そのものだった。 

(文中敬称略)

〈参考文献〉

・野際陽子『脱いでみようか』扶桑社、1996年

・東海林のり子『我がままに生きる。』トランスワールドジャパン、2020年

【この記事は北日本新聞社の協力を得て取材・執筆しました。同社発行のフリーマガジン『まんまる』に掲載した連載記事を加筆・編集しています。】

演劇研究者

1979(昭和54)年、富山県生まれ。筑波大学大学院博士課程人文社会科学研究科文芸・言語専攻修了。博士(文学)。専門は日本近代演劇。著書に『演技術の日本近代』(森話社)、『幻の近代アイドル史――明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記』(彩流社)、『昭和芸人 七人の最期』(文春文庫)、『興行師列伝――愛と裏切りの近代芸能史』(新潮新書)。最新刊に『ドリフターズとその時代』(文春新書)。

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