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「アナウンサーから女優へ」「元祖・ミニスカート」新しい女性像を体現した野際陽子の魅力【野際陽子物語】

笹山敬輔演劇研究者
富山市市街地と立山連峰(写真:uco/イメージマート)

近年、「女子アナ」から女優業への進出が注目を集めている。田中みな実はその成功例で、出演する作品がつねに話題になってきた。アナウンサーから女優に転身した元祖と言えば、やはり野際陽子だろう。

野際はNHKを4年で退社して初の女性フリーアナウンサーになり、27歳のときに女優デビューを果たした。はじめは基礎訓練を積んでいない演技を揶揄する声もあったが、『キイハンター』の妖艶な演技で人気を博し、1990年代以降はテレビドラマに欠かせない存在になった。まだ女性アナウンサーのキャリアパスなど誰も考えていなかった時代に、彼女は自ら道を切り拓いてきたのだ。

それだけではない。野際陽子の生涯からは、日本の戦後の女性史が透けてみえる。1945年、9歳で敗戦を迎えた彼女は、まもなく民主主義と男女平等の思想に出会った。大学時代にサルトルとボーヴォワールの関係に憧れ、狭き門だったNHKに入局後も、女性が働く環境に不満を抱いてフリーの道へ進んだ。私生活では、マスコミの言葉を借りれば、「高齢出産」「熟年離婚」を経験した。出産直後のインタビューで、彼女は次のように語っている。

妊娠中に明治からの女の歴史とか女の本ばかり読んで、はじめて女の問題を意識しました。男の人の意識を高めなければ女性の解放はありえませんね。だから自分の子供にすがらなくても一人で生きていける女の子にしてやりたいと思ってるんです。

出典:『サンデー毎日』、1975年7月13日号

彼女はどんなときも一見軽やかに、だが凛として自立した女性の人生を歩んできた。その生き方は、今なおジェンダー平等が実現されない社会において、一つの指針となるだろう。本連載では、自立して生きた女性のパイオニアとしての生涯を描くとともに、関係者への取材を通して、彼女の知られざる魅力を発掘していきたい。

ミニスカート革命

フランス発の飛行機が羽田空港に到着した。乗客の1人は野際陽子だった。30歳を機に一切の仕事を中断してパリに留学した彼女が、約1年ぶりに帰国しようとしている。1967年3月、詰めかけた報道陣がカメラを構えるなか、彼女は颯爽とタラップを降りてきた。つば広の帽子、あざやかな若草色のミニワンピとコート、すらりとした脚が膝上まで見えている。新聞や雑誌に掲載されたその写真は、多くの日本人を驚かせ、ミニスカートが彼女のトレードマークになった。

野際が日本における「ミニスカの元祖」であることは、よく知られている。だが、それは風俗史の一トリビアとして言及されてきたにすぎない。

ミニスカートは、ロンドンで若者たちのストリート・ファッションとしてはじまり、1960年代に世界中で爆発的に流行した。そのデザインは、ウエストラインを絞らず、伝統的に女性たちが課されていた肉体の曲線美を無視していた。当時のミニスカートは成熟した女らしさに対するカウンターであり、女性たちの身体や欲望を肯定するものだったのである。野際自身も後年、次のように語っている。

戦中のもんぺからミニまではいた世代として、今から思い返せばミニは自由と平和の象徴だった。当時は意識しませんでしたが、解放感を味わっていたのだと思います。

出典:『北日本新聞』2016年12月20日

1960年代は、女性たちが公的領域だけでなく、日常生活に潜む男性中心主義への抵抗をはじめた時代だ。そのなかでミニスカートは、女性解放の象徴になった。だから、野際はフランスからミニスカートとともに、新しい女性の生き方をも伝えたのではなかったか。

『志の輔・陽子のふるさとトーク』

野際陽子は1936年1月24日、富山市長柄町に野際家の長女として生まれた。母が実家に里帰りして出産したため、厳密に言えば出生地は石川県津幡町になるが、育ったのは富山市内だ。県民には彼女が富山出身であることはおなじみで、晩年には、立川志の輔が座長を務め、富山の芸能人が集まる舞台「越中座」にも出演していた。

だが、同じく富山出身の女優である柴田理恵や室井滋と比較すると、野際のイメージはずっと都会的だろう。NHKのアナウンサー出身ということもあるが、話し言葉はきれいな標準語で、富山弁が出ることはない。それもそのはず、野際は父の仕事のために3歳で東京に引っ越したため、実際に富山で過ごした期間は短かった。だから、成人してからも富山を意識することはほとんどなかったはずだ。

そんな野際が、一度だけ故郷でレギュラー番組を持っている。1990年10月、富山県の民放第3局としてチューリップテレビが開局し、『志の輔・陽子のふるさとトーク』(毎週土曜朝9:30~9:45)がはじまった。志の輔と野際が交代で司会を務め、様々な分野で活躍する富山県出身者と対談する番組だ。当時、制作に携わった同社の岡田幾雄によれば、「富山に関わりたい」と二つ返事で引き受けてくれたという。

初回放送は司会の二人だけで対談を行い、野際も「きのどくな(ありがとう)」「そんながいちゃ(そうなんだよ)」といった富山弁の思い出を楽しそうに語っている。彼女は東京で活躍している人を中心に対談し、その司会ぶりはポイントをついて相手の良さを引き出し、安心して任せられるものだった。『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演した際には、チューリップテレビが出した花輪に触れ、「富山で対談番組をやってるんです」と宣伝までしてくれた。野際は番組への出演を通じて、故郷としての富山を強く意識するようになったのかもしれない。岡田は次のように語る。

この番組以前は、富山の仕事はほとんどなかったはず。富山の人と接することで、富山への愛着も芽生えたのかなと思う。越中座に出演したのも、このときの縁がきっかけでしょう。

番組は好評で、朝の時間帯にもかかわらず視聴率は10%を超えた。野際の出演は1年半続き、TBSドラマに大きな役での出演が決まったため、降板した。そのドラマこそが、「冬彦さん現象」を巻き起こした『ずっとあなたが好きだった』である。彼女の演じる冬彦の母は大きな話題を呼び、姑役が当たり役になった。

続けて野際は、二世帯住宅で起きる嫁姑問題をコミカルに描いた『ダブル・キッチン』に出演し、古風な姑役でコメディエンヌとしての才能を発揮した。出版社に勤めるキャリアウーマンの嫁を山口智子が演じ、二人が軽快なバトルを繰り広げた。野際は結婚してからも仕事を続ける嫁と対立し、鼓を打ちながら嫁への不満を叫んだ。「夫婦別姓なんておそろしい」「職業婦人はだめねえ」。

自立した女性のパイオニアとして生きてきた彼女が、役のなかでだけは着物姿の姑になり、自分の思想からかけ離れた保守的な道徳を説く。女優の人生はいつの世も波瀾万丈だ。

(文中敬称略)

〈参考文献〉

・野際陽子『脱いでみようか』扶桑社、1996年

・成実弘至『20世紀ファッション』河出文庫、2021年

【この記事は北日本新聞社の協力を得て取材・執筆しました。同社発行のフリーマガジン『まんまる』に掲載した連載記事を加筆・編集しています。今回の続きとなる最新回は7月8日発行の『まんまる』に掲載しています。】

演劇研究者

1979(昭和54)年、富山県生まれ。筑波大学大学院博士課程人文社会科学研究科文芸・言語専攻修了。博士(文学)。専門は日本近代演劇。著書に『演技術の日本近代』(森話社)、『幻の近代アイドル史――明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記』(彩流社)、『昭和芸人 七人の最期』(文春文庫)、『興行師列伝――愛と裏切りの近代芸能史』(新潮新書)。最新刊に『ドリフターズとその時代』(文春新書)。

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