「くじらの町」として知られる太地町の知られざる移民の歴史 アメリカ西海岸で起きた悲劇とその後

太地の漁師は、町の経済を支えるために海を越えた

世界最大の港、ロサンゼルス港の一角に小さな離れ小島「ターミナル島」がある。海外から届いたコンテナが積み上げられたこの土地に、今ほとんど人影はない。しかし、戦前ここには、捕鯨の町として知られた太地町などからアメリカを目指した日系移民およそ3千人が平和に暮らすユートピアがあった。まずは、移民たちの歴史の光と陰を追ったドキュメンタリー映像を見て欲しい。

2015年11月、和歌山県太地町の一行が大型バスでターミナル島を訪れた。かつて島に住んでいた日系移民の子孫たちだ。龍神好美(りゅうじん・よしみ)さんは、4歳の誕生日までこの地に住んでいたという。家があった場所は更地になっているが、79年ぶりに生まれた土地へ戻って来ることができた龍神さんは、両親の写真を手に声をつまらせた。

太地発 移民の始まり

太地町と言えば「くじらの町」として知られ、最近はイルカの追い込み漁に国際社会の非難の目が向けられて話題にのぼることも多い。しかしこの町には長い移民の歴史があり、今も海外の移住先と盛んに交流を続けていることはあまり知られていない。

1927年日本で最初に就航した貨客船 浅間丸で、多くの日本人が海外へ移住した
1927年日本で最初に就航した貨客船 浅間丸で、多くの日本人が海外へ移住した

海外移住のきっかけは、19世紀の終わりに起きた海難事故だった。セミクジラを獲りに出た太地町の漁師たちは、悪天候によって100人以上が命を落とした。「大背美流れ」と呼ばれるこの悲劇によって、17世紀初めから続いた古式捕鯨は、事実上終焉を迎える。 残された太地の男たちは町の経済を支えるために海を越えて移住し、日本の海で培った能力を活かして多くが漁業に携わった。

20世紀の初め、アメリカでは未だ魚介類を食べる食習慣があまりなかったが、戦前は「シーチキン」と呼んでツナ缶やイワシの缶詰が大量に生産され一般家庭の食卓にも載るようになっていた。この缶詰になる魚を獲ったのが太地など紀南から移民した漁師であり、缶詰工場で働いて加工したのが、彼らの妻や娘たちだった。

ふるさと「ターミナル島」

ロサンゼルス南にあるターミナル島には缶詰工場が立ち並び、工場の裏手には缶詰長屋と呼ばれる住宅地ができる。そこに住んだのは日本人だけで、漁師とその家族たちだった。戦前の島の人口はおよそ3千人で、島には神社や寺、日本の雑貨店や食堂もあった。子供たちは鍵がかかっていない家を自由に出入りし、つつましいながらも平和な日々を送っていた。

1935年に撮影された太地町人会のピクニックの写真
1935年に撮影された太地町人会のピクニックの写真

太地町の歴史資料室に、大きな横長のセピア色の記念写真が残っている。1935年に太地人会のピクニックで撮影された写真で、300人近くが写っている。4月末なのに、女性は毛皮付きのロングコートや帽子を被り、男性はスーツを来ている。普段漁船や缶詰工場で働く彼らが、故郷へ送る写真に写るために精一杯のおしゃれをしているのではないか、と太地町歴史資料室の櫻井敬人(さくらい・はやと)学芸員は言う。彼らが稼いだお金は日本へ送金され、当時の太地の経済を支えたと言われている。

太平洋戦争勃発

太地町の移民は、アメリカの負の歴史の最初の犠牲者だった
太地町の移民は、アメリカの負の歴史の最初の犠牲者だった

1941年12月8日、真珠湾攻撃によってターミナル島のなごやかな生活は突然終わりを告げた。ターミナル島は海軍基地があるロサンゼルス港にあることから、住民はスパイ容疑をかけられる。攻撃当日のうちにFBIの捜査官が島へ来てリーダー格の日系人男性を連行。続いて子供らを含む住民全員が島を追い立てられ、1942年2月に発令された大統領令9066号によって12万人の日系人の同胞とともに強制収容所へ送られた。アメリカの負の歴史とも言える日系人の強制収容所の最初の犠牲になったのが、ターミナル島の住人であり、その多くが太地町の出身者だった。

戦後も変わらぬ結束

終戦後、ターミナル島の元住人が収容所を出て島へ戻ってみると、缶詰長屋、学校、神社、野球場など全てが取り壊され、更地になっていた。全てを失った太地町人会のメンバーは、島の対岸の町サンペドロで身を寄せ合い、戦前と同じように夏のピクニックやお正月に集まっては、お互いを支え合ってアメリカで生き延びてきた。

2015年11月、太地町の教育長、宇佐川彰夫の指揮のもとで太地町から 80名近い町民がロサンゼルスを訪れた。太地町人会が発足して100周年を祝う会に参加するためだった。懇親会には、日系二世、三世ら200人あまりが集まり交流を深めた。会場には1935 年のピクニックの写真が展示され、参加者は、家族や友人、そして自分が写っているのを見つけては、写真の上に名前を書き込んだ。

2015年の太地町人系会発足100周年記念には太地町から80人近くが参加した
2015年の太地町人系会発足100周年記念には太地町から80人近くが参加した

今年11月初旬には、ロサンゼルスから太地人系クラブのメンバー40人以上が、太地町の「くじら祭り」を機に訪れるという。海と時間を隔てて育まれた絆は、この後も続き、次世代へと引き継がれて行くことだろう。今年は、1868年の明治維新と日本人が北米に移民を始めてから丁度150周年にあたる。ターミナル島という失われた日系人のふるさとは、日本人もそれほど遠くない過去に移民として海外で差別され、排斥された歴史を私達に教えてくれる。今世界で起きている移民問題にも、決して無関心でいてはならない。

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