インド駐在歴12年のプロが語る、山あり谷ありインド市場。

カシオ・インディア社長 中 正男さん

第2回のインド進出日系企業インタビューは、カシオ・インディア社長の中正男(なかまさお)さんです。

【カシオ計算機のインド進出、合弁の可能性に懸ける挑戦】

ーーインド駐在歴が長いということですが、中さんがインドに来た理由は何だったのですか?

僕自身はインドにトータルで12年近く居ますね。初めてのインド赴任は1996年、今は3回目で2007年の5月からになっています。1回目は96年4月にインドに会社ができ、そのタイミングでの赴任でした。というのもインドでは91年が経済開放、94年から外資参入OKのシグナルが出始め、95年あたりから51%の株式所持が認められて。96年が日系にとっての第一次インド進出ブームだったんです。その頃カシオ計算機では、ポケベル販売を国内・海外でやっていたんです。海外でも新規市場を求めて、ポケベルをインドで販売することになったのが、僕がインド駐在になるキッカケでした。

ーー96年の会社設立当時はカシオ計算機としてのインド進出だったのですか?

いえ、外資企業の出資は51%までだったので、インドの企業と合弁会社をつくって生産・販売することになりました。当時、インドでものすごい成長率の企業があり、そこをパートナーにすることに決めました。それと合弁への期待もあったんですよね。現在は会計などの事務所も整備されましたが、その当時はインドの資料を見つけることもままならない状況でしたから、インドの企業に頼らざるを得ませんでした。

ーーインドのマーケット事情が明確ではないからこそ、持ちつ持たれつの関係性だったのですね。

そうですね。けれどもインド人が入るとややこしくなるものなんですよね(笑)。出資51%ですから。社長はカシオ計算機から、万全な体制を組んだ……と思いきや、パートナーは勢いのある企業でしたし、合弁相手である僕たちがヒイヒイいってしまう状況でした(笑)。インドでの営業はインド人が行いますから、社長がカシオ計算機側とはいえ営業が主導権を握ってしまうんです。『コストが高いから売れない!』『日本側が原価を安く出荷しろ!』と責めてきて……合弁事業の難しさを知った時でした。

ーー特にインドでの合弁という難しいケースだったとは思いますが、その後の事業展開はどのように動いたのですか?

カシオ計算機もポケベル販売で、初めはそこそこ良かったのですが、時代の流れとともに携帯電話が主流になっていったんですよね。2年合弁していたパートナー企業も携帯電話事業のライセンスをとっており、そのままポケベルをやっていても仕方が無いですから、合弁を解消しました。相手はいまやインド1位の携帯通信会社です(笑)。そこで100%の株式をもって、カシオ計算機としてリフォームしたのが98年のことでした。

【3度のインド赴任、心に残る不完全燃焼感】

ーー中さんご自身のインド赴任の流れをお聴きしたいです。

僕は29歳くらいの若い頃で、入社7年目にいきなりの海外駐在でした。日本ではずっと営業だったのですが、インドでの営業はインド人なんです。そこで『生産管理で駐在だ!』と言われたので、日本に居る時に生産管理の勉強をして生産管理次長という立場でインドへの赴任になりました。けれど肩書きは生産管理次長でも、インドでのマーケットの実状が分かってきてしまうんですよね。そういうことを嫌がられて、初めてのインド赴任は11ヶ月で帰されてしまいました。

ーー複雑な立場だったのですね。その後またインドに戻ることになった経緯は?

日本に戻ってから海外時計の営業という仕事をしていたので、いつかインドでの不完全燃焼を解消したいとは思っていました。そのうち、カシオ計算機はインドにコンシューマー商品で進出しよう、現地で時計の輸入販売をしようということになったんです。僕自身も『時計でインドに進出する!』と考え、インド出張しました。実は、当時は完成品の輸入ができなかったのですが、ちょうど出張に行ったタイミングで完成品の輸入許可が出て。日本に戻ってすぐに輸出を決めました。すると会社側からも『とりあえず駐在してこい!』と4日くらいで稟議が下りましたね。

ーー運とタイミングも味方についていたのですね。その後インドでのアクションをお聴きしたいです。

そうして1999年末に、もう一度駐在して時計事業をインドで展開することになりました。けれども、それまで自分も営業経験があったものの難しいものでした。というのもインドではグレーマーケットの密輸品が多く、またインド企業であるTATAグループのタイタンという商品が強くて。圧倒的な寡占力があったんです。全国のお店に『代理店になってくれないか?』と交渉しても、首を縦に振ってくれませんでしたね。

ーーどうして断られてしまうのですか?

密輸もあるから正規輸入品の価格が合わないですし、お店にとって主力商品であるタイタンに睨まれたら怖いというところもあったんでしょうね。そうして動けずにいる間に、インド・パキスタンが戦争寸前になり、駐在も脱出騒ぎになったんですよ。そこで経済も冷え込んでしまいましたから、日系企業のいくつかは撤退・縮小してしまい、僕もそのタイミングで帰任することになりました。それもまた、不完全燃焼の思いがものすごかったですね。

【盛衰を繰り返すインド市場】

ーー不完全燃焼を抱かざるを得ない状況だったのですね。それにしてもインドはアクシデントだらけですね。

2000年に第二次インド進出ブームが起きました。というのもエンジニアが2000年問題と言われるソフト書き換えのための需要が強くなり、ITの強いインドに大量受注が舞い込んだんです。ただその後 2001年9月11日の米国テロに端を発したアフガン戦争、印パ核戦争危機などありました。当時は、日本駐在員にとっては僕の家が酒を呑みながらでの情報を交換する拠点にもなり、たくさんのマスコミが来てくれて盛り上がりました(笑)。

ーー他方、世界中を襲った不景気にびくともしなかったのですね。

そうなんです。インドは、2005年に経済発展の潜在性があることから BRICsの一角と言われ、インドのポテンシャルの高さを評価されるようになったんです。ITバブルの恩恵がインドにきて、景気がわきましたし、そうして再び日系企業が数多く進出していきました。僕はインドに2回行っていたので、2007年に3度目のインド赴任をすることになり、その当時はシニアGMの肩書きでしたね。

ーーそうして会社からも後押しされるカタチで3度目のインド赴任、現在に至るということですか。

その頃からインドの景気は上向いていて、業績も上がりますし、運に恵まれていたと思いますね。2007年にサブプライムローン問題、2008年にリーマンショックとありましたが、新興国はあまり影響を受けなかったんです。日本でも『これからは新興国だ!』と言われ、様々な分野が伸びてきていますし、カシオ計算機でも電卓、時計・楽器・プロジェクターなどの販促に乗り出しました。

【CASIOの時計がインドに受け入れられる理由】

ーー現在カシオ計算機がインドで主軸にしている商品は何ですか?

それは時計、ですね。というのも3度目の赴任をした頃から、インドでもショッピングモールや電気量販店がどんどん拡がってきました。店頭の古い時計屋さんだけでなく、ショッピングモールなどに時計売り場ができることで、僕たちでもショップをデザインしたり、CASIOの世界観を押し出せる空間が生まれたんですよね。流通のモール文化も進化し、インド最大のモールも地方都市にあります。地方では他に集客施設がないからこそモールへの人の密集度が高いですし、むしろ首都デリーの方では客層も分散してきているのかもしれません。

ーー流通の変化により、販促しやすいマーケットになったのですね。けれども時計というと競合もいるわけですし、他にも要因はあったのでしょうか?

インド国内におけるファッションの変化も大きな要因でしたね。以前インドでは『キンキラキンの時計でないといけない』と考えられてきた中で、CASIOの時計が若者やビジネス層に売れてきたのです。地道にマーケティングを展開する中で、ブランド・テイストが受け入れられたようにも感じています。ボリウッド俳優や女優が作中でCASIOのG-SHOCKをつけていることもあり、そのフォロワーがいますから、どんどん若い層に広がっていったのだと思いますね。

ーーボリウッド俳優などが個人的に愛用しているということですが、広告効果は大きいですよね。

そうですね、カシオはインドでテレビCMは打っていませんから。ターゲットにしたいのは感性の尖った人たち、ブランドのアンテナを張っている人たちなんです。そして周囲への影響力も大きくて、彼らのフォロワーに広がる、一般大衆にゆっくりジワジワと浸透していくことが理想ですよね。たとえば日本でいう『電波少年』のような番組の司会者がG-SHOCKのブランドアンバサダーなのですが、今度は初めてニッチながら一部の層に圧倒的な人気を誇る眼力の強いのボリウッド映画女優と女性向け腕時計のブランドアンバサダーとして契約しました。店頭でのアイキャッチにはすごく強いですよね。

【インドで生まれて、求められる教育・教養】

ーーインドでは、教育・教養という観点は重要ですか?

インドだと教育のレベルで人生が決まってしまいますから、大学に行っている・行っていないかで差ができてしまいます。英語のできる・できないも同じことですね。だから小学校1年生で英字の本を読めてしまうようなレベルですし、インドでは2歳くらいの子どもにも英語を教え込んでいるようです。下手すれば、4歳くらいで人生が分かれてしまうかもしれないような状況なんですよね。新興国の方が学歴社会かもしれませんよね。人口が多いから競争社会ですし、インドにおいてはスポーツでメジャーなものもありませんから、行き着く先は教育・教養になるんです。

【インドでなければ、出会えない日本人がたくさんいました】

ーー長年インドにいらっしゃるわけではありますが、インドで良かったと思うことはありますか?

インドにいて良かったことは、日本人でもいろんな人に出会えることですよね。日本にいたら会社や大学の同級生と関わるばかりで、新規の人に出会わないものです。けれども駐在社会という中で、弁護士・会計士・官庁、NGO, 国連、など他業種の方々と知り合えることは大きいですよね。日本でなら政治家に会えることもないはずですが、首相経験者がインドにいらした際にはお話させていただくこともありました。天皇陛下がいらした際にもレセプションに呼んでいただけましたし、アメリカとかヨーロッパだったらこのような機会はなかったと思いますよね。

ーー日本にいては出会えないような方々に出会えるのは貴重な機会ですよね。

例えばアフリカのように日本人が少なすぎても違うと思いますし、インド・デリーという2000人の駐在社会で、顔と名前を覚えられる範囲がすごく良いのだと思いますね。それに留学生やインターン生、若手の社員まで世代を越えて出会いやすいわけです。インドという地に、みんなやる気があってくる人が多いからこそ、その人たちからの刺激が多くて良い環境ですよね。

ーー変化の多いインド市場で、駐在のローテーションを早くするべきなのか、スペシャリストで長くすべきなのか、よく議題に上がるものです。中さんはどうお考えですか?

数年ではもったいないですし、多少は長い方が良いと思いますよ。僕も『インド以外が嫌!』なんて言っていないのですが(笑)。僕自身のキャリアとしても、インドで終わっていいのか……と思いつつも、まだ駐在は長くなりそうですね。

ーー今後の抱負について教えてください

3度目の赴任した2007年より現在まで、スタッフが一丸となった頑張りもあり、事業規模は約5倍に伸長しました。今後はこの事業をいかに2倍、3倍にするか日夜邁進しています。僕自身は馬年生まれの年男(としおとこ)です。文字通り、馬力を出して頑張ろうと思います。

【協力:みやけよう

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